生きる意味。
予想通り東京全域に退去命令が出された。
それでも残る連中は、好事家か、政府の中枢AIシステムのメンテナンスを担う貧乏くじを引いた連中か、脳みその代わりにディアボロ風ハンバーグが詰まっている奴ら……つまり我々だった。
AIシステム『カンナギ』のデータセンターやら諸々の設備は、赤坂の地下にあるという。だから、そこを新型の重窒素爆弾は狙うのだろう。そうなれば、御茶ノ水どころか東京全土は焼土となる。
けれど、
「いやっ! 実験は続ける!」博士はソファーの上に仁王立ちで宣言した。「だが、助手くん。博士命令だ。きみは、疎開したまえ。私はこれ以上君を巻き込みたくはない」
何を今更、と僕は奥歯を嚙みしめた。これが苛立ちなのだろう。小学三年の数学コンクール二位以来の感情だ。
「博士……散々僕を巻き込んでおいて、今更それですか」
「それは、ごめん」博士は、顔を伏せる。その様子は年端もいかない少女のように幼く見えた。いや、実際年端もいかない少女なのだけれど。
「俺はこの研究であんたと同じ夢を見て、それに……俺の気持ちだって、本当は知ってるのに……ずるいだろ、それは」
「それは……ごめん。私って、ほんとうに人の気持ちがわからなくて。論理的な推論はできても、それが本心だって確証するのが、苦手なんだ。ああ、言い訳がましいっていうのはわかってる。それが、免罪符になるとも思っちゃあいない。だから、その……その」博士の声が、小さくなる。
不器用な人だ。なぜここで、ただ手伝ってほしいと言えないのだろう。いや、違う言えないのが普通なのだ。むしろ、おかしいのは僕の方で、彼女にそれを言わせようとしているのが、おかしいのかもしれない。
この街は焦土になる。それは確実なこと。
ああ、もちろん死ぬのは怖い。
けれど、彼女のいない世界で生き長らえることを想像したときの生というのが、僕にとってどれだけ価値があるのかを考えてみたら、それはまるで、ディアボロ風ハンバーグからハンバーグを抜いたようなものだと思った。生き残れば新たに博士以上の出会いがあるのかもしれない。現に僕の判断を止める友人は、多かった。しかし、それは自分が生き延びることを正当化するための、詭弁であると僕は思った。自分の生を肯定するための、言い訳としての人生。それを人は余生と呼ぶ。
狂っているだろうか。
今までの23年ぽっきの人生と、生き残った後の人生を比較すれば、絶対量は後者の方が大きいのは間違いない。
けれど、僕の価値判断の天秤は、『絶対量』というチャチな物差しをガン無視して、今目の前にいる愛しい彼女のために全ての時間を使いたいという方へと傾いた。
僕の人生における最も崇高な発見は、生きる価値は自分で決めていいということだった。
実験室に置かれた非常用発電機とコンピューターは、共振するように低い唸り声を上げていた。
「データ、取りきりましょう」僕は、博士の右手を両手で包みこむと、彼女の青い目をまっすぐに見つめて言った。「我々は、そのためにやってる。でしょ?」
「……うん!そうだ!」
そして、我々は30回目の測定を始めた。
我々は踊り、データを打ち込み、グラフを作り、文を書き、踊り、グラフを作り、文を書き、飽きたら踊った。
30回目の測定結果が出る。我々は、それに歓喜し、クーラーボックスからワインを取り出して、一つのグラスを回して飲んだ。
1回目から、30回目までのデータを集めて、我々はようやく結論らしきものが得られそうだった。時刻は深夜2時を回っていた。
博士は、椅子を回転させると僕を見た。
「失敗だ」博士は、真顔でいった。「まえに話しただろう?どうやら、原因は境界条件の設定だったようだ。」
僕は、持っていた空になったグラスを落とした。けれど、その割れる音すらも50次元の世界の音のように遠かった。
「じゃあ、今までの僕たちの努力は……無駄だったってことですか?」
「ある意味正しい。だが、それはある方向からは間違っている」博士は目を閉じる。
耳をつんざくような警報と同時に、実験室におかれた機材たちが次から次へとアラートを鳴らす。
状況をつかめずに机の上のスマホを見ると、銃窒素爆弾の着弾予想時刻と着弾地点が、無機質なフォントで示されていた。
緊急速報。
中ローグネシア連合帝国による重窒素爆弾発射。
着弾予想時刻。2時20分。
着弾地点。御茶ノ水。
つまり、この場所に10分後に爆弾が投下されるらしい。逃げ場はもちろん、ない。
我々は顔を見合わせた。
「場所を変えよう。屋上にいくよ」博士は言った。
屋上から見る景色は、無数の墓石がこの街全体を覆っているようにすら見えた。見回せば所々が、爆撃の影響で倒壊していたり、太い鉄筋をむき出しにして悠然とそびえたっていた。
博士は、風に長い黒髪をはためかせながら喋る。その横顔は、いつものような幼さはなく、シッダールタのように穏やかだった。
「いまから、実験データをこのパラボラアンテナで送る」
「え?」
「たしかに我々は失敗した。はっきり言えば、負けた」
「そんな……」
「けれど、それはマクロに見れば敗北じゃない。私たち科学者は、一人ではないからだ。真理という風車に、無謀にも突っ込み、ドラゴンではなかったと気がつく。その繰り返しで、真理に至る、のかもしれない。それは、全体を含めたプロセスだ。個人ではそもそも成し遂げられるものじゃない」
「けど……」
僕は、悲しかった。もし、博士だけでも長く生きていれば、星の数ほどある真理たちをもっと発見できたかもしれないのに。
「悲しい顔をしないでくれよ、キミ。さあ、データを送る準備をしよう」
アンテナの隣におかれた無数のトランクの上におかれた、軍用のコンピューター。僕はそこに起動コードを打ち込む。送信にかかる時間は3分。
爆弾の着弾予想時刻は3分後。
「さあ、最後のダンスだ」
我々は、手を取り合う。僕は彼女の細い腰に手を回す。
ステップ、ターン、ステップ、ステップ。
横へ、縦へ、縦へ、横へ。
博士の伏せられた目。長いまつ毛。時折、目が合う。
僕は微笑もうと努めたけれど、ぎこちなかったかもしれない。
「いや、ダメだ!こんなお上品じゃ」突然腕がほどかれる。そしては、博士は小刻みなステップを決めながら、片足を上げて振った。
ナトゥだ。
僕も、対抗するようにあらん限り足を振り回しては、 ナトゥナトゥする。
液体窒素さえも、この身体の熱を冷ますことはできないんじゃないか、そんな錯覚。
博士の白衣が翻り、月明かりを受ける。
熱狂、興奮、そして抱擁。
歓喜とはまさにこのことだ。
この時ばかりは僕は博士のことが理解できたのかもしれない。
彼女の黒髪に顔を埋めると、石鹸の匂いに混じって、ディアボロ風ハンバーグの香りがしたような気がした。
その後、
データが送ることができたのか。
我々はどうなってしまったのか。
まあ、それは、些末な話ではないだろうか。




