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最後の手紙  作者: ドネルケバブ佐藤


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最終話



祖父が死んだのは、桜の花びらが舞い散る四月の午後だった。


病院からの電話を受けたとき、私は会社のデスクで書類と格闘していた。受話器を置いた後、しばらく私はただ呆然と座っていた。周囲の喧騒が遠くに聞こえる。まるで水の中にいるような感覚だった。


祖父は八十七歳だった。老衰、と医者は言った。眠るように亡くなった、と。でも、私にはその言葉が空虚に響いた。人の死に、美しい言葉などいらない。祖父はただ、この世界から消えただけだ。


葬儀が終わり、親戚たちが帰った後、私は一人で祖父の家に残った。この古い日本家屋で、祖父は五十年以上暮らしていた。祖母が亡くなってからは、ずっと一人で。


縁側に座り、庭を眺める。手入れの行き届いた庭は、祖父の几帳面な性格をよく表していた。松の木、石灯籠、小さな池。すべてが静かに、祖父の不在を受け入れているように見えた。


遺品整理を始めなければならない。母はそう言っていた。でも、私はまだその気になれなかった。この家に満ちている祖父の気配を、消し去ってしまいたくなかった。


夕暮れ時、私は祖父の書斎に入った。古い机、本棚、そして壁に掛けられた書。祖父は書道の師範だった。この部屋で、何人もの弟子たちに筆の持ち方を教えていた。


机の引き出しを開けると、古い封筒が出てきた。黄ばんだ封筒には、几帳面な字で「孝之へ」と書かれている。孝之、それは私の名前だった。


封筒を手に取り、しばらく眺める。差出人の名前はない。ただ、私の名前だけが書かれている。封は開いていなかった。


中を開けると、便箋が三枚入っていた。祖父の筆跡だった。日付を見ると、十年前のものだった。私が大学生だった頃だ。


手紙を読み始めた。


## 二


「孝之へ


この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう。突然このような手紙を残して申し訳ない。だが、生前に言えなかったことを、どうしても伝えておきたかった。


お前が小学生の頃、よく私の家に遊びに来たことを覚えているだろうか。両親が共働きで忙しかったから、放課後はいつもここで過ごしていた。宿題をやり、庭で虫を追いかけ、夕飯を一緒に食べた。あの日々は、私にとってかけがえのない時間だった。


お前が中学生になると、だんだん足が遠のいた。それは当然のことだ。友達と遊ぶ方が楽しいだろう。部活に熱中するのも、若者として自然なことだ。私はそれを理解していた。


だが、一つだけ、ずっと気になっていたことがある。


お前が中学二年生の夏、久しぶりに私の家を訪ねてきたことがあった。覚えているだろうか。あの日、お前の目は赤く腫れていた。泣いた後だとすぐにわかった。


私は何も聞かなかった。聞くべきではないと思った。男というものは、自分の弱さを見せたくないものだ。特に、尊敬する大人の前では。


だから、私は黙って麦茶を出し、庭の手入れをしながら、お前がぽつりぽつりと話し始めるのを待った。


お前は何も話さなかった。ただ、縁側に座って、じっと庭を見ていた。一時間ほどそうしていただろうか。やがて、お前は「ありがとうございました」と言って帰っていった。


あの日から、私はずっと後悔している。なぜ、お前に声をかけなかったのか。なぜ、何があったのか聞かなかったのか。もしかしたら、お前は誰かに話を聞いてほしかったのではないか。


その後、お前は高校生になり、大学生になり、立派な大人になった。表面的には、何も問題がないように見える。でも、私にはわかる。お前の目の奥に、あの日と同じ影が潜んでいることが。


私は教師ではないが、書道を通じて多くの人と接してきた。その経験から言えることがある。人は誰しも、心の中に傷を抱えている。大切なのは、その傷を隠すことではなく、それとどう向き合うかだ。


書道には、「破墨」という技法がある。墨の濃淡を使い分け、一つの線の中に変化を生み出す。完璧な黒だけでは、美しい作品は生まれない。薄い部分、かすれた部分、それらすべてが調和して、初めて作品が完成する。


人生もまた、同じではないだろうか。


完璧な人間などいない。誰もが欠点を持ち、失敗を重ね、後悔を抱えながら生きている。でも、それでいいのだ。その不完全さこそが、人間を人間たらしめている。


孝之、お前は十分に頑張っている。もっと自分を認めてやりなさい。」


## 三


手紙はまだ続いていた。私は涙で霞む目で、次のページを読み進めた。


「私自身の話をしよう。


お前の祖母、美枝子が亡くなったのは、今から二十年前だ。お前が小学校に上がる前だったから、あまり記憶にないかもしれない。


美枝子は病気で亡くなった。長い闘病生活だった。最後の一年は、ほとんど寝たきりだった。私は彼女の看病をしながら、書道教室を続けていた。


ある夜、美枝子が私に言った。「あなた、もっと泣いてもいいのよ」と。


私は驚いた。自分では、平静を保っているつもりだった。妻の前で弱音を吐いてはいけない。男は強くなければならない。そう思っていた。


でも、美枝子はすべてお見通しだった。「無理しないで。私の前でくらい、本当の自分でいて」


その言葉を聞いた瞬間、何かが崩れた。私は美枝子の手を握りしめ、声を上げて泣いた。五十を過ぎた男が、子供のように泣いた。


美枝子は私の頭を撫でながら、静かに微笑んでいた。


あの夜のことを、私は一生忘れないだろう。自分の弱さを認めることが、こんなにも解放感をもたらすとは思わなかった。


美枝子が亡くなった後、私は一人になった。子供たち、つまりお前の母親と叔父は、それぞれの家庭を持っていた。私に新しい伴侶を探してはどうかと勧める人もいたが、私にはその気はなかった。


一人でいることは、孤独ではなかった。美枝子との思い出と共に生きることが、私にとっての人生だった。


庭の手入れをするとき、書を書くとき、弟子たちに教えるとき、私はいつも美枝子の存在を感じていた。彼女は私の中に生き続けている。


死は終わりではない。愛する者を失うことは、確かに悲しい。でも、その人との思い出は、永遠に心の中に残る。その思い出が、私たちを支え、導いてくれる。


孝之、いつかお前も、大切な人を失う日が来るだろう。それは避けられないことだ。でも、恐れる必要はない。愛した人は、決してお前を一人にはしない。」


## 四


最後のページに移った。文字が少し震えている。祖父が高齢になってから書いたのだろうか。


「最後に、お前に伝えたいことがある。


私は、お前に大きな期待をかけたことは一度もない。医者になれとか、立派な会社に就職しろとか、そういうことを言ったことはないはずだ。


なぜなら、私が願っているのは、お前が幸せであることだけだからだ。


世間は様々なことを要求する。成功しろ、金を稼げ、社会的地位を得ろ。そういう声に囲まれて、人は本当の自分を見失ってしまう。


でも、孝之、覚えておいてほしい。人生の価値は、世間の評価で決まるものではない。お前が、自分自身を大切にし、周りの人を思いやり、毎日を誠実に生きる。それだけで十分なのだ。


私の人生は、華々しいものではなかった。ただの書道の師範だった。大きな賞を取ったわけでもない。有名になったわけでもない。


でも、私は後悔していない。私なりに、精一杯生きた。美枝子を愛し、子供たちを育て、弟子たちに教え、この家と庭を守ってきた。それで十分だった。


お前にも、そういう人生を送ってほしい。周りと比べる必要はない。お前はお前のペースで、お前の道を歩めばいい。


時には立ち止まってもいい。迷ってもいい。間違えてもいい。それが人生だ。


そして、もし辛いことがあったら、この家に来なさい。私はもういないだろうが、この家はお前の居場所だ。縁側に座り、庭を眺めなさい。そうすれば、きっと答えが見つかる。


私はお前を、心から誇りに思っている。お前の祖父でいられたことを、幸せに思っている。


どうか、自分を大切に。そして、幸せに生きてくれ。


それが、私の最後の願いだ。


祖父より」


## 五


手紙を読み終えた後、私はしばらく動けなかった。涙が止まらなかった。


中学二年生の夏。あの日のことを、私は鮮明に覚えている。


学校でいじめに遭っていた。理由はよくわからない。ただ、クラスの数人に目をつけられ、毎日のように嫌がらせを受けていた。


親にも、先生にも、誰にも言えなかった。言ったら弱虫だと思われる。もっとひどくなるかもしれない。だから、私は一人で耐えていた。


でも、あの日、限界が来た。昼休み、靴に画鋲が入れられているのを見つけた。それを見た瞬間、何かがプツンと切れた。


気づいたら、私は祖父の家にいた。学校を抜け出してきたのだ。


祖父は何も聞かなかった。ただ、そこにいてくれた。それだけで、私は救われた。


あの日から、私は何とか耐え抜くことができた。高校に入学すると、いじめはなくなった。新しい友人もできた。表面的には、普通の学生生活を送った。


でも、心の奥底に、あの時の傷は残っていた。


大人になった今でも、時々思い出す。人混みの中で、急に不安に襲われる。誰かに見られている気がする。笑われている気がする。


それは、あの頃の記憶が、まだ消えていないからだ。


私は祖父の手紙を胸に抱いた。温かさが伝わってくるような気がした。


祖父は、すべてを理解していたのだ。私が何を抱えているのか。私がどう生きてきたのか。そして、私がこれからどう生きるべきなのか。


縁側に出て、庭を眺める。夕日が松の木を照らしている。風が吹いて、池の水面に波紋が広がる。


この景色を、祖父は何千回、何万回と見てきたのだろう。そして、その度に、私のことを思っていてくれたのだろう。


私は深く息を吸った。空気が、いつもより澄んでいるように感じられた。


明日から、私は変わろう。祖父の言葉を胸に、自分らしく生きよう。


完璧である必要はない。強がる必要もない。ただ、誠実に、一日一日を大切に生きればいい。


祖父がそう教えてくれた。


## 六


それから一ヶ月後、私は会社を辞めた。


驚く人もいた。もったいないと言う人もいた。でも、私の決意は固かった。


大企業で働くことが、私の幸せではなかった。毎日満員電車に揺られ、長時間労働に追われ、上司の顔色を窺う。そんな生活に、もう疲れていた。


祖父の家を引き継ぎ、私は書道教室を再開することにした。祖父の弟子だった人たちが、喜んで協力してくれた。


最初は生徒も少なかった。収入も不安定だった。でも、不思議と不安はなかった。


縁側に座り、庭を眺めながら、私は祖父の存在を感じていた。見守ってくれている。そう思えた。


やがて、少しずつ生徒が増えていった。子供たち、主婦、定年退職した人たち。様々な人が訪れるようになった。


ある日、一人の少年が入会した。中学二年生の男の子だった。無口で、どこか陰のある子だった。


彼が筆を持つ手が震えているのに気づいた。緊張しているのかと思ったが、違った。彼の目に、あの日の私と同じ影を見た。


私は彼の隣に座り、静かに言った。「無理に上手く書こうとしなくていい。ただ、筆を持って、紙に向かう。それだけでいい」


少年は私を見上げた。その目には、戸惑いと、ほんの少しの安堵が混じっていた。


「ここは、お前の居場所だ。いつでも来ていい」


私はそう続けた。祖父が私にしてくれたように。


少年は小さく頷いた。そして、筆を持ち、ゆっくりと線を引き始めた。


その線は震えていた。決して美しくはなかった。でも、そこには確かに、彼の存在があった。


私は微笑んだ。


祖父の教えが、今、私を通じて次の世代に受け継がれようとしている。それが、どれほど意味のあることか。


人生とは、そういうものなのかもしれない。誰かから受け取ったものを、また誰かに渡していく。そうして、人と人との繋がりが生まれ、意味が生まれる。


## 七


その夜、私は祖父の書斎で、久しぶりに筆を取った。


硯で墨を磨る。ゆっくりと、丁寧に。墨の香りが部屋に広がる。この香りを嗅ぐと、いつも祖父を思い出す。


半紙を前に、しばらく考える。何を書こうか。


やがて、筆を取り、一気に書いた。


「生」


たった一文字。でも、そこに、私のすべてが込められていた。


生きること。それは、簡単なことではない。時に辛く、時に苦しく、時に絶望的に思える。


でも、生きることには、意味がある。価値がある。美しさがある。


その文字を見つめながら、私は祖父に語りかけた。


「おじいちゃん、ありがとう。あなたの最後の手紙、確かに受け取りました」


「私は今、あなたが守ってきたこの家で、あなたがやってきたことを続けています」


「完璧ではないし、まだまだ未熟です。でも、自分なりに、精一杯やっています」


「あなたの教えを、次の世代に伝えていきます。それが、私にできる恩返しです」


風が吹いて、庭の木々が揺れた。まるで、祖父が答えてくれているようだった。


私は書を壁に掛けた。祖父の書の隣に。


二つの「生」の文字が、並んで掛かっている。祖父のものは、力強く、堂々としている。私のものは、まだ迷いがある。


でも、いつか、私も祖父のような書が書けるようになるだろう。時間をかけて、少しずつ。


それでいい。焦る必要はない。


人生は、長い道のりだ。


私は窓を開けた。夜風が心地よい。星が輝いている。


明日もまた、この家で、生徒たちを迎えるのだろう。彼らに筆の持ち方を教え、線の引き方を教え、そして、生きることの意味を、少しずつ伝えていくのだろう。


それが、私の人生だ。


祖父から受け継いだ、私の道だ。


私は深く息を吸い、夜空を見上げた。


「おじいちゃん、見ていてください。私は、ちゃんと生きていきますから」


風が答えるように吹いた。


そして、私は静かに、書斎の扉を閉めた。


新しい一日が、明日また始まる。

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