開始…
第一話『花火と約束』
男の名は、黒岩恭二。
かつては病院で働く看護師だった。白衣の中に、真面目さと不器用な優しさを詰め込んで。
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「507号室の患者さん、ルート確保いける?」
声をかけてきたのは、師長の順子。仕事の鬼だ。
誰よりも命と向き合い、誰よりも厳しい。
看護師という仕事に誇りを持つ彼女は、恭二にとって“理想の上司”であり、“最も恐い存在”でもあった。
「はい、大丈夫です」
そう答えながら時計を見る。午後五時三十分。
――今日は妻の奏子と花火大会の約束があった。
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患者の部屋へ向かう途中、恭二は小さく舌打ちする。
(ちぇっ……今日は早く上がれると思ったのに)
意識のない患者の手を支えながら、点滴を接続する。
呼吸は浅く、左手が不随意に動いている。
排泄物が漏れ、シーツが汚れていた。
(看護助手さん呼ばないと……)
手早く交換を終えると、ふと窓の外に光が見えた。
夜空に、大輪の花火が咲いている。
「花火、綺麗ですねえ。恭二さん」
年配の助手が微笑む。
「……そうですね」
笑って答えながら、胸の中が黒いクレヨンで塗りつぶされていくような感覚に襲われる。
(奏子……ごめんな)
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ようやく勤務を終え、帰ろうとしたときだった。
師長の声が、廊下を切り裂いた。
「20代女性、意識レベルJCS300! 血圧90の50、SpO₂80%! 恭二くん、何やってるの、先生呼んで!!」
救急患者――。嫌な予感がした。
手にしたPHSで医師を呼び出す。
「20代女性、意識なし。今から来れますか? ……はい、名前は――」
聞いた瞬間、手からPHSが滑り落ちた。
「ちょっと何やってんの!! しっかりしなさい!!」
ストレッチャーが運び込まれる。
浴衣姿の女性が、血に染まっていた。
――奏子。
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信号無視の車に轢かれたという。
処置室の中で医師たちが叫び、モニターが鳴り続ける。
「ピーッ……」
その音だけが、永遠のように響いていた。
花火の夜に、彼女は帰らぬ人となった。
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それからの恭二は、別人になった。
食事も喉を通らず、鏡を見るたびに髪が少しずつ白く変わっていく。
まるで、心の色が抜け落ちていくように。
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ある夜、彼は本棚の前に立っていた。
そこには、奏子と一緒に読んだラブコメ漫画。
まどか、雄介、喜美……。
恋する男女が笑い合い、抱きしめ合う。
――もう、そんな世界は自分にはない。
漫画を閉じながら、恭二は呟いた。
「どうして、こんな漫画があるんだ……。恋愛で苦しむ人間の気持ちも知らないで……」
その瞬間、空気が歪んだ。
本棚の奥から、何かが脈打つ。
「俺は……復讐する。
ラブコメにも、その主人公にも。
――もう手に入らない恋を、見せつける世界なんて、いらない!」
叫びとともに、世界が弾けた。
恭二の視界が真白に染まる。
次に目を開けたとき――
そこは、十人のヒロインたちが閉じ込められた館だった。




