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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

過不足なく書くことの難しさ

作者: 上条ソフィ

書いているうちに頭に浮かんだことの備忘録ですので、論じるほど立派なものではございません。その点をご理解いただき、こんなことを考えている人もいるんだなあと生暖かい気持ちで読んでいただけると幸いです。


 少し前にあった話です。

 知り合いの方の経歴について、他の方にご説明する機会がありました。その方に、「事前に経歴を教えていただけると助かります」と申し上げると、その方は快諾してくださり、メールをいただけることになりました。

 送っていただいた文章を拝見すると、詳しく書いてくださったようで量がとても多い。「これ、どうやってまとめようか……」と頭を抱えてしまったということがありました。


「簡単に紹介してくれればいいから」と、送ってくださったメールには書いてあったのですが、これを簡単にまとめるには、取捨選択をしなければならない。

 ご本人は、情報が多い方がよいだろうとの親切心からやってくださったのだと思います。つまり、ご本人にとっては、全て大切だと思ったから書いたものです。

 それを赤の他人である私が、「これは必要で、これは不要」とジャッジを下すのはいかがなものか。


 早い話が、「話長いな。もうちょっとまとめてくれればいいのに」と思ったわけです。


 そんな塩辛な感想は、もちろんブーメランで自分のところに返ってきます。

 自分の書いたお話だって、他人から見たら「なんでこの人はこんなにダラダラ話を続けてるんだろう」と思われていることもあるはずです。それで去っていかれた読者の方もいると思います。


 人というのは、自分のことは棚に上げて、人には厳しい目を向ける生き物。これはもう習性のようなものですから、性格の良し悪しとは関係がない(と思いたい)。

 隣の芝生は青く見えるものですが、隣の芝生の粗もまた目立つものです。

 過不足なく文章を書くのは難しいものよ、と痛切する日々です。


 なぜ難しいのか。

 その理由は、「取捨選択の難しさ」ではないでしょうか。


 何が必要で、何が不要か。

 それを決めるには判断基準が必要ですが、絶対的なものとして、いかなる場合でも適用する基準は残念ながらありません。多くの場合はケースバイケースで、またその時の自分のコンディションや心理状態にも左右されます。そして周りにも影響されます。

 ハウツー本に載っているルールを採用しても、自分ルールを作っても、です。


 よい例は、断捨離です。

「よし! 徹底的に家をきれいにしよう!」とタンスの中から全てのものを引っ張り出してきて、「要不要」のカテゴリーに分ける。必要なものは右側に、不要なものは左側に置いていく。

 最初はいいのです。モチベーションも高いし、エネルギーもある。

 でも、そうやってどんどんこなしていくうちに、だんだん疲れてきます。テンションは下がり、飽きてくる。そうすると、判断基準はぶれてきます。


「これは……不要? や、でも、高かったしな。まだきれいだし。そのうち着るかも……?」と『とりあえず保留』カテゴリーを真ん中に新設してしまったら、最後です。あとは坂を転げるように、多くのものがこの枠に入ってしまいます。


 結果として、要不要カテゴリーより、「とりあえず真ん中に置いておくか」と新たに作った『保留』の場所に置くものが多くなる。


「ええと、……とりあえず不要のやつは捨てて、必要なやつは棚に戻して、で、この『保留』は……とりあえずしまっておこうかな。今日はもう疲れたし。そのうちなんとかしよう」とまとめてクローゼットの中に押し込まれることになります。


 断捨離は一人でやっていると、だんだん基準がブレてきます。そして、それに費やす時間が長くなればなるほど、基準はあやふやになってきます。

「何をもって『必要』とするのか? そもそも、必要とは一体……?」などと考え始めると、「さっき不要に入れたあれ、やっぱり保留にしとこうかな」とせっかく仕分けたものを引っ張り出すことにもなります。


 お話作りでも、ずっと一人で書いていると、「このくだりはいるのか?」がだんだんと分からなくなってきます。


 おそらくですが、文章に関しては『不足』していることより『過剰』なことが厄介な気がします。なぜなら、付け足すのは簡単ですが、削ぎ落とすことのほうがはるかに大変だからです。


 これは一見して直感に反しているように思えます。

 確かに『買う』という行為はさほど時間はかかりませんが、その対価を稼ぐには多くの時間と労力がかかっています。ですが、捨てるのは本当に一瞬です。

 文章だって同じことです。考えて、アイディアを捻り出して、それを文字起こしするのです。時間も労力もかかっています。

 それに対し、『捨てる』のは本当に一瞬です。文章を削除したければ、その部分を選択してデリートボタンを押せばいい。

 それなのに、削除する方が大変とはこれいかに?


 数語や数文減らすのであればさほど抵抗がなくても、何百字、もしくは何千字書いたものを消去するとなれば、躊躇いもします。

「たしかにちょっとここはダラダラしてるかもしれないけど。でもここにはそれなりの役割があってね! ちょっとした小話的な感じでね! だって、こんなに時間かけて書いたのにい!」と消去できないことがあります(私です)。


 つまり、「もったいないの精神」です。


 しかも、『不要』だと自分で気づければまだマシなほうです。それに気づかないことも多くあります。だって、自分では必要だと思って書いたんですもの。

「話が進む」というのはおおむね「時間が進む」ということであり、時間が進めば登場人物たちはなんらかのアクションを起こしているものです。それをね、書いたの。だからね、これは必要なの。

 ……となってしまえば、まあそうだよね、と言うしかない。


 ですが、それに他人が共感してくれるかは別の話です。

「いや、いらんだろ」と思われるかもしれないし、「この一文で主人公の性格に深みが出るね!」と褒められるかもしれません。


 極論、『僕はあくびをして空を見上げた。』でも、主人公の行動の一つではあるわけです。

 ではこの文章は必要か? となると、ケースバイケースです。


 主人公は時間を潰しているのか? 

 誰かを待っているのか? 

 失恋して落ち込んでいるのか? 

 ぼうっとしているように見えて、実は今後の戦略会議が脳内で高速展開しているのか?


 シチュエーションによって変わってくるわけで、能動的な動作がない場合は書く必要はなし、と言い切れるものではありません。


 以前お師匠様の作品を拝読した時に、ある文章にとてもリアリティを感じたことがあります。そのことをお伝えすると、プロではないがそのジャンルの経験者であられるとのお答えでした。経験者だからこそ書ける文があり、それにより主人公の人物像に厚みが出る、そんな状況も存在するわけです。

 ただこれは文章のプロだからできるハイレベルの技であって、アマチュアが真似できるものではありません。


 じゃあ、ダラダラ続けてしまうこれをどうしたらいいんだっ!? となりますが。


 要不要の判断がつかなくなってきたら、それは疲れているのだと思ったほうがいいです。「もうやめておきなさい」という脳からの合図です。


 断捨離は疲れるものですが、バーゲンに行くのもまた疲れるものです。至るところで「ディスカウントコール」をされたら、何が安くて、何が必要で、何が欲しいのか分からなくなってきます。オンラインショッピングも同じことです。あと少しで送料無料だからと、要りもしないものを今までどれだけ買ったことか……


 しかも、判断を下すのには頭が働いていないと難しいですが、それを実行に移すにはさらに気力が必要です。

 店員さんに商品をおすすめされて、もしくは試食をして、そんなに自分の好みではないと思いつつも断る気力がなくて「じゃあ一ついただきます」と買ってしまったことはありませんか。

 人は「NO」を言い続けられない生き物らしいです。一日のスマイルは有限ですが、「NO」もまた一日の上限が決まっています。


 買い物でさえそうなのです。自分が書いた文章に「NO」を突きつけ続けられる人は、もはやプロ。厳しい目を養っているからこそできるスキルです。一般人は、いちど「もったいない」と思ってしまえば、とたんに『保留』カテゴリーに入れてしまうものなのです(と、私のような凡人は思います)。


 このトラップにかからないようにするには、人の目を頼るのが一番です。他人というのは本人のように執着がありませんから、冷静に客観的なジャッジを下すことができます。

 人はいったん自分の懐に入れたものには愛着を感じ、それを失うことに恐れを抱く生き物です。でも他人にはこの「愛着」がない。だからフラットに物事を見れるわけです。


 私は以前、高校時代の擦り切れたジャージを部屋着として着ていたら、「なんでそんなボロいの着てるの? 捨てたら?」と真顔で言われたことがあります。

「違うの! これはね、たしかにクタッてなってるけど、部活の思い出がね!」という思いが喉元まで出かかりましたが、真顔で言われたことでこちらも冷静になり、「まあ……それもそうですね」と捨てたことがあります。

 洋服は思い出の品ではなく、着るものであり、ボロくなったら捨てる。これが他人の判断基準です。このジャージに愛着を持っているのは本人のみ。つまり、世界中のほとんどの人はこれを「ボロい」と思っていること。


 そうは言っても、最終決定をするのは本人なので、「誰がなんと言おうとも、自分はこれを着続ける」と決めるのであればそれはそれで良いと思います。部屋着ですもの。家の中で好きな服を着て、何が悪い。たとえそのままうっかり外に出てしまっても、人様を不快にさせない程度なら何を着ようとも本人の自由です。

 文章についても同じことです。もしコメントをいただいても、改善案をご提案いただいても、最終決定権は本人にあると私は思います。


 ですが、私の主義がどうであろうとも、実際問題として感想をいただくことなど滅多にない書き手(私です)はどうしたらいいのでしょうか。今までにいただいた感想は私の宝物ですが、いつまたいただけるかわからない感想を待つだけでは「株を守りて兎を待つ」状態になってしまいます。

「感想がこないことが答えだ」というしょっぱいコメントは横に置くとして、人にお願いできないなら自分でなんとかするしかありません。


 では、どうするか?


 一番効果的なのはある程度寝かせることでしょう。数日、数週間、文章を放置する。そして気持ちが落ち着いた頃に読み返す。そうすれば誤字脱字は結構見つかりますし、抜けている要素や矛盾点も発見できる。そしてなにより、「くどい」や「何してるか分からない」という率直な感じ方が生まれるものです。


 チャットGPTに読んでもらうという手もあるでしょうが、私はそのあたり保守的な人間なのであまり向いていない気がします。

 AIには、一流企業のお助けbotみたいなのに散々きぃーっ! としたことがあるので、できれば関わりたくない。

 だって、私は人間のオペレーターさんと話がしたいんですよ。よくある質問の項目は全部読んで、答えが見つからないから連絡取りたいのに! 検索エンジンで調べてみて、それでも無理そうだからわざわざ問い合わせをするのです。なのに、三択でよくある質問から抜粋してくるな! 『その他』だ! 『その他』!

 とまあこんな感じで、AIはあまり好きではない。すべてを同一視するなと言われればそれまでですが、私は謎な存在と楽しくおしゃべりできる性格ではないのです。


 簡潔にすることは大切ですが、ただその一方で、何でもかんでも短くすればいいわけでもないとも思います。

 時系列に従って淡々と起きたことを羅列しても、それは日誌であって物語ではない。


 ほっと息をつける空間、思考がふわりと浮く時間――つまり遊びの部分――は必要だと思います。


 シリアスな場面にくすりと笑うシーンを挟んだり、コメディだけどほろりとする話を入れるのは、読者にほっと一息ついてもらうための工夫なのだと思います。


 それに、何が人の心に引っ掛かるか、残るのかなど、他人には分からないものです。


 私は学校で習ったことなどほぼ忘れていますが、学生時代に先生が話してくれたあることが忘れられません。

 先生は大学生の時にお金がないからと、献体をホルマリン漬けにするバイトをしていのだそうです。「死体はね、浮いてきちゃうから、棒で下に沈めるんだよ」と語ってくれたのが衝撃的でした。私の学校は厳しいところだったので、授業中の私語なんてもっての外。なので隣の子に「ね、先生本気なのかな?」と聞くこともできず、自分で咀嚼するしかなかったというのも記憶に残る要因だったのでしょう。先生がどういった方だったのか、授業で他に何を教えてくれたのかなど記憶の彼方ですが、そのエピソードだけはこれからも忘れない気がします。


 同じように、ウェブ小説でも印象に残るものがあります。

 あるシーンでやや特殊よりの描写があり、うん? と首を捻ったあと、「あ、この方は普段からこういうことをされているんだろうな」と思ったことがあります。そして思ったのです。こういう場面ってリアルな体験がついつい出ちゃうんだろうな、と。

 別に特殊なシーンでなくても、言葉のチョイスから作者様の生活がちらりと覗くことはあります。いくらフィクションの世界を展開させていたとしても、ベースになるのは「自分の世界」ですから。

 かなり前のことなので、今となってはそれがどんなお話だったのか、何をどうリアルだと感じたのか、まったく覚えていません。これは私が勝手に抱いた印象なので、もちろん本当のところは分かりません。百パーセントフィクションの場合もあります。ただ、「そういうシーンは地が出やすいらしい」という印象だけが残りました。


 となると、です。私のお話だって、「この人の話の本筋は別に大したことないけど、時々出てくる謎な言い回しがなんかツボ」と思われている可能性もなきにしもあらずなのです。無駄なところを削ったことによって、「なんだよこいつ、小さくまとまりやがって」とニッチな読者様を逃しているかもしれない。

 そうなると、やっぱり削れないよねえ、とも思ってしまいます。


 時代にもよるのかなという気がします。昔の小説などを読むと、うーん、まどろっこしいなあと思うことがあります。今の時代のほうがスピード感重視なのだなというのは、「冒頭にフックをもっていけ」というアドバイスにも通じるものがあると感じます。

 またジャンルによっても違うし、読者が何を求めているかによっても違うでしょう。

 私はアクションシーン満載の少年漫画を読むと、「この戦闘シーンとお色気シーンがなければ三倍早く話が進むのにな」と思ってしまう人間です。メインとなるものをすぱっと無視して読むのは我ながらいかがなものかとは思うのですが、こういう読み方をしている人も世の中にはいるわけです。

 またある少女漫画の先生が、「読者さんによって、何をもって話が進んだと感じるかは違う。恋愛が進めば話が進んだと思う人もいるし、他の要素が進んだら話が進んだと思う人もいる。そのバランスが難しい」とおっしゃっていました。


 プロの方でも悩まれているのです。洗練された文章はプロの方におまかせすることにして、私のようなアマチュアは好きなだけ脱線して好きなだけダラダラ書くのもアリなのかもしれないなと思っています。


 ◆◇◆◇


 追記

 ずっと前に買って放置してあった小説の書き方のハウツー本を最近手に取りました。その方はご自身が小説家の方で、その方曰く、「初心者は描写が多いよりも、描写が少ないことの方が圧倒的に多い。もっと量を書いて臨場感を出した方が良い」とおっしゃっています。

 その方自身の書き方としては、まず完成品の二倍ほどの量の小説を書き、そこから物語の本筋を変えることなく、また情報量を減らすことをなく、いかに文字数を削っていくかということをゲームのようにしてやっているのだそうです。そのやり方が一番経済的だとおっしゃっています。

 やっぱりプロはすごいのねと思うのと同時に、やっぱり初心者は書いてナンボなのねとも思いました。


短編、よくて中編のつもりがうっかり半年以上連載してしまった童話、『みいなにいなと星の卵』明日完結です。


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