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第3話 退廃世界

 名前が同じだからって、僕が書いたメモではないかもしれない――、自分の書いた字かと問われれば、正直なところ分からなかった。確かに自分の書く字によく似ているが、もしも僕が書いたというなら名字で署名したと思うのだ。

 まずもって、僕が地下通路から這い出たタイミングでやってきた犬が、僕の名前が書かれたメモを持っている――そんな偶然あるだろうか。


「……ルサルカ。君はどこから来た?」


 僕の手に頭を擦りつけていたルサルカはじっと僕の顔を見つめたあとに、すたすたと歩き始めた。途中で止まって僕に振り返る。せっかくの誘いを断るのは無粋だろう。

 愛嬌のあるガイドに案内されるまま、もう上にも下にも動かないシャッターの前までやってきた。錆が侵食してぼろぼろだ。かたちを保っているのが奇跡に思える。半開きの先に見えるのは雑草塗れの割れたコンクリート。

 ルサルカはぎりぎり倉庫の敷地内だろう場所で足を止めている。最後の確認とばかりに見上げてくる視線にすぐには応えられなかった。


「危なくなったら助けてくれよ」


 肺の中身を空っぽにして、肺の中身をいっぱいにして――シャベルの柄を握り直す。体を屈め、土で汚れた黒い足で一歩を踏み出した。

 洗礼のように降り注ぐ陽光。久しぶりに浴びる太陽の眩しさに目を細める。目が明るさに慣れるのを待たずして、僕は絶句した。


「……、…………?」


 脳は視覚情報を処理するよりも命の危機を感知して、警鐘を鳴らすことを優先している。無意識のうちに息を潜めていた。見つかってしまっては死んでしまうと思って。何が僕を見つけるかなんて分かりもしないのに、そんな存在がいるかも知れないのに。

 仮死したように心臓の音は聞こえない。背筋を走る寒気、足は自然と後ずさり、鈍器で殴られたように視界が揺れ廻る。

 地中奥深くからひっくり返された地面、右往左往に捻じ曲げられた道路だったもの。退廃。遠くに見える巨大な瓦礫の山は在りし日に駅だったのだと思う。ねじ曲がったレールがいくつも飛び出していた。おおよそのかたちが残っている建物も幾年放置されてきたのか想像もつかない。廃墟。脆い部分から老朽化したのか、虫食いのように消失が起きている。そして、消失した部分を治癒するように植物が生い茂っていた。

 いつぞやは繁栄していただろう街並み、今は遺跡と呼ぶべきだろう。


「はっ――、あ?」


 苦しくて、苦しくて、苦しくて。何も改善しないのに掻きむしるように胸元を押さえた。指先が冷たい、振動が冷たい、体の芯が冷たい。平衡感覚も保てずに無様に転ぶ。頭の中は真っ白に焼き切れ、呆然とするしかなかった。

 駆け寄ってきたルサルカが心配そう鼻を鳴らしている。


「な、にが……、ここは…………」


 絞り出した声は自分のものとは思えないほどに枯れて掠れていた。

 返事は帰ってこない。何度、瞬きをしても景色は変わらない。都市を侵食する雄大な自然、文明の崩壊を思わせる静寂。息ができない。頭が重い。何が起きてる。

 意識が途切れそうになるのを引き留めるように、今まで一度も吠えなかったルサルカが声をあげた。

 ぎこちなく隣に視線を向ければ、濡れた鼻先が手をつついてくる。僕の手の中には握り潰してくしゃくしゃになったメモ用紙。


「……、…………三十六番ドーム」


 僕か、僕でない同じ名前の誰かが、ルサルカを通じて伝えようとした場所。

 受け取るはずだった誰かがいる。それも、日本語を読むことができる誰かが。


「ルサルカ」


 体を伏せ、僕に寄り添うルサルカの背中を撫でる。綺麗な毛並み。栄養状況が悪いようにも見えない。

 首輪をつけ、ルサルカを世話している誰かがいる。


「……、君の足でここまで来たのなら、距離はそう離れていないだろうか」


 ルサルカは奮起するように尻尾を振った。言わんとしていることは分かる、いや、僕がそう思いたいだけかもしれないが。

 そんな僕の心の声までも聞き入れたようにルサルカは立ち上がった。なんて頼もしい犬だろう。僕の人生で出会ってきた中で一番の出会いかもしれない。そんなぶっ飛んだ思考になるくらいには感謝を覚えていた。


 何もしないわけにはいかない。ここには何もないのだから。


 血液が再び循環を始めたようだ。止まってなどいなかっただろうけれど、僕の体感ではその通りだった。息を吹き返した、ともいえる。

 指先にも感覚が戻り、手を握り締めた。ぐしゃりと音がする。


「分かった。行こう」


 ルサルカは僕の宣言を聞き、一歩、二歩と歩みを進めた。このまま行こうとばかりに振り返った顔はやる気に満ちている。

 身支度はしたくてもできない。検査着にシャベル、心もとないがこれで行くしかない。せめて靴は欲しいところだが、周囲の状況を見るに難しいとしか思えなかった。


「頼むから、裏切ってくれるなよ」


 旅の相棒は呆れたように目を細めた。感情表現豊かな犬である。

 ルサルカに謝罪を述べ、皺だらけのメモを透明の筒の中へと戻した。鞄もないし、検査着にはポケットもない。

 荒廃した世界に飛び出す。あれこれ考えていては決心が鈍るかと思った。長く考えても、結局、ここじゃあ何も分からないままだからと出発することになっただろうし、遅かれ早かれなら早いに越したことはないだろう。


 そして、僕の旅は簡単に出鼻をくじかれた。


 恐る恐ると進んだ一歩目、二歩目ですぐに後ろへと下がることになった。人の気配なんてしないと思っていたのに、動く人影があったのだ。心臓が鈍く打ち鳴る。

 ルサルカに先導されて物陰に隠れ、動く影に目を向けた。


「いなくなったって言っても、足で探して見つかるもんか?」

「楽な仕事だろ。探さなくたって、歩き回ってれば満足するんだから」

「あの坊ちゃんに褒められたところは金払いだけだな」

「違いねぇ!」


 くすんだ灰色の硬そうな肌、飛び出した鼻に白目と黒目が反転した目、爪が伸びる大きな手足、着崩された茶褐色の軍服。太陽の下に見る彼らは不安になる不気味さがある。ホラー映画に出てくるゾンビみたいな。異形の化け物。

 二人組の人もどきは下品な笑い声とともに街中――そう呼んでいいかは甚だ疑問であるが――に消えていく。会話の内容よりも、彼らが日本語を話していることに驚いた。そういえば、地下の奴らも日本語だった。

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