第2話 ルサルカ
僕はどこに迷い込んでしまったのか。
目に見える光景をそのまま受け取るなら、最初に思った通り、掘削された土の下のようだ。手の届かない高い天井、幅の広い通路がどこまでも続いている。壁面に補強された形跡はなく、どこを見ても土しかない。掘り進められた空洞。いつ崩れてもおかしくないのではないだろうか。
他に目につくものといえば、等間隔で壁面に設置された明るさの足りない光源。てっきり使い古された白熱灯かと思っていたが、壁に埋め込まれている光る石だった。これについては意味が分からない。
とにかく、まったく覚えのない場所だった。こうなる前の記憶が思い出せない。大学と劇場と家を行き来するの毎日、どこでこんな穴に運ばれる事態に――。
「病院にいた?」
独り言はむなしく響き、静寂に負けて消え去る。
自身の格好は汚れてしまったが検査着だ。どこか体を悪くしていた覚えはない、ということは事故にでもあって病院に運び込まれたのだろうか。それなら、記憶が曖昧なことも説明がつくかもしれない。ただ、人の体に痣や怪我は一つもなかった。
ここには情報がなさすぎる。とはいえ、僕をここまで連れてきた人もどきを調べる気にはならなかった。調べれば正体が分かるものだとは到底思えなかったし、調べているうちに蘇りでもしたら面倒だ。不意打ちだから何とかなっだけで、真っ向からやり合うのは無謀でしかない。
――駄目だ。こうして鬱屈とした閉鎖空間で考えを巡らせても進展はない。
シャベルを杖代わりに立ちあがり、荷車の中を覗き込む。薄目で確認したときと成果は変わらず、使えそうなものも自分の状況を教えてくれるものもない。
次に自分のつま先を見る。裸足だ。靴はあるにはあるだろうが、と動かなくなった足をちらりと見て絶望した。奴らも裸足である。手と同じような構造をした不可思議な足、もし靴を履いていたとしても僕には履けなかったな、と変な所感が浮かんだ。
僕に与えられたものはこのシャベルだけ。
「……、仕方がない」
冷たい地面に一歩目を踏み出した。自分が来た方向は分かる。長い一本道、進むか戻るかならば一択だろう。とりあえず、ここがどこか分かる場所に行きたい。
◇
この空洞に終わりはないのではないだろうか。一向に景色は変わらず、真っすぐの一本道が続くのみ。醒めない悪夢みたいだ。
土の中は静かで耳鳴りがする。人の気配は微塵もない。気が滅入るだけならいいが、このままじゃおかしくなりそうだ。自分で自分を励ますための独り言を口にしようとして、あまりにも情けなくてやめた。
悪い想像ばかりが浮かぶのをかき消すように、この場所に考えを巡らせるほど迷宮に迷い込む。
空調整備がされているようには見えないのに呼吸につらさはない。最初は炭鉱かと思ったけれど、それに関するような機材も施設もない。ただの地下通路でしかないのかもしれない。でも、こんなに長い通路を何に使うというのだ。
そして、終点は唐突に現れた。視界が悪くて目前の距離になるまで気づけなかった。
地面は緩やかな傾斜で上へと向かい始めている。その先、道の終わりに待ち構えていたのは腐りかけの木の扉。凝った装飾などなく、簡素も簡素な開き戸。ここまで一緒に旅してきたシャベルにかかれば木端微塵も夢ではない。
「……」
扉の前に立ってば、木材の割れ目から入ってきた風に前髪が揺れた。
試しに扉を押してみると思いのほか軽い感触だった。鍵もかかっていないようで、力加減を間違えていたらすんなり全開になっていただろう。
開けられる。開けるのはいい、問題は開けた後だ。
シャベルの柄を握る手に力が入る。自分が売りものになるかもしれない、ということを分かっているのは有利なことだ。それ以前にこの状況で誰も彼も信用しようとは思わないが。
「……」
扉を軽く押し、できた隙間から外を覗く。階段。その先の全貌は見えないが、どうやら室内らしい。薄暗いは薄暗いがこれまでの道のりに比べればよっぽど明るい。耳をすませても、なんの音もすることはなかった。
覗き見していた隙間にそのまま自分の体を滑り込ませる。シャベルを構え、足音を立てないように慎重に階段を上る。最後の数段を残してかがみ、目線の高さまで顔を出してあたりを見まわした。
使われていない倉庫みたいだった。中はがらんとしていて、格納されているものはない。収納のための設備もない。よくも悪くも隠れられる場所はなさそうだ。
目につくものといえば、出入口であろう半開きのシャッターやガラスの抜けた窓から建物の中にまで健やかに成長した植物だろうか。内観でこの状態なのだから、きっと、外観は絵に描いたような廃墟だろう。
階段の近くには地下で乗せられていたのと似た荷車が放置されている。人の気配がないどころか長年使われていないのかもしれない。床に固まった埃には二人分の足跡。それも地下通路に向かう片道だ。
倉庫の床に足をつく。同時に、かしゃかしゃと地面をひっかく音が聞こえた。
はっとして音のした方向へ顔を上げる。ツタ植物の侵入を許すシャッター、外に繋がるそこに影があった。焦げたタンポポのような茶色の毛、すっと伸びた四肢に、ぶんぶんと横に揺れるしっぽ。
「犬……?」
大きな犬だ。そこまで犬種に詳しくないからこれだとは言えないが、昔、家で飼っていた犬に似ているからレトリバーじゃないだろうか。
相手を先に見つけたのは僕ではなく、彼ないし彼女だったようだ。
わっと一目散にこちらに突っ込んでくる茶色の塊。シャベルの柄を持つ手が冷や汗で滑りそうになる。
身構えたのは一種だけ。威嚇してくる様子も攻撃してくる様子もない。どんな狂暴な野犬かと思えば、手入れされた毛並みに首輪と飼い犬のようだった。僕の周りをぐるぐると回る犬は、有難いことに一切吠えることがない。戯れに飛びかかってもいいかを吟味している。
「……待って」
忙しく動いていた足がぴたりと止まった。しつけもされているし、やはり飼い犬だろう。それか、人の言葉を理解できる頭のよい犬か。
犬の前にしゃがみこめば、目線を合わせるように顔を覗き込んできた。人懐っこい。そっと手を伸ばすとあちらからすり寄ってくる。温かい。久しぶりに熱を感じるものに触れてほっとした。
首輪にはきらりと光るプレートが輝き、人差し指くらいの大きさの透明な筒が吊られている。メッセージボトルのようなものなのか、筒の中には丸められた紙切れが入っていた。
じゃれついてくる犬の相手をしながら首輪のプレートを確認する。迷子プレートなら電話番号か住所か何か情報があるかもしれないと思ったのだ。
「る、さ――、ルサルカ?」
本当に賢い犬らしい。返事をするように前足を上げて僕の手を叩いてくる。
その聡明さを余すことなく発揮する犬――ルサルカは顎を何度も突き上げ、自身の首元を見るようにと教えてくれた。嫌でも目に入る透明の筒。
「分かった、分かったから」
取れと言われている以外にないだろうと、筒に手を触れるとルサルカは静止して大人しくなった。何度でも感心する。
筒自体は首輪から取れなかったけれど、スクリューキャップを外すのに手間ということはなかった。指先でひっかくようにして中身の紙切れを引き出す。何の変哲もない白い紙、走り書きの黒いインク。
”三十六番ドーム トウヤ”
自分の名前を見つけ、きゅっと喉の奥が締まった。くらり、眩暈がする。
「誰から――――、いや、これを誰に?」
ルサルカの可愛らしく大きな瞳に呆然とする自分の顔が映り込む。どこからやってきたかも分からない聞き分けのよい犬は僕の言葉を待っているようだ。