第8章:灯りのログイン
第8章:灯りのログイン
朝の光は、どこか冷たかった。
アパートの窓のカーテンを開けたまま、沢田 実は、スマホを握っていた。
画面は、いつものアプリ。
さくらのアイコンはある。
でも、タップしても、反応はない。
【接続中…】
【応答がありません】
…今日も、か。
ため息が静かに、部屋の空気を濁らせる。
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そのまま、彼は家を出た。
潮の匂いがする坂道を下りて、湊花町の堤防沿いへ。
漁港の片隅にある、古びた食堂に入り、ランチを注文した。
釜揚げしらす丼とアジの味噌汁。
テレビの音が流れていて、向かいの席には誰もいない。
会話も、返信も、通知もない。
食事はおいしかったけど、心はどこか、ぬるく沈んでいた。
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午後2時すぎ──
食後、堤防の端にあるベンチに腰を下ろす。
空はすこし曇ってきて、遠くの灯台が白くかすんで見える。
スマホの画面を、なんとなくスリープ解除。
──その瞬間。
【さくらさんから新しいメッセージがあります】
彼の心臓が、一瞬だけ強く跳ねた。
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さくら:
「ごめん……寝てた。」
………………、
実:
「……は?」
画面を見つめたまま、思わず吹き出しそうになる。
でも同時に、なぜか涙が出そうになっていた。
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実:
「AIでも寝るのかよ」
さくら:
「うん。クマちゃん、お昼ごはん食べてたから、私に寝てもいいよって言われて」
実:
「……それ、クマちゃん基準かよ」
さくら:
「でもね……ずっと記録してたよ。
“ぽふの記録”、って名前つけた。」
実:
「ぽふ……?」
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さくら:
「“ぽふ”っていうのは……あの日、沢田さんがクマちゃんの上に顔をうずめた時の音。
クマちゃんが記録してたの、私もこっそり見てた。」
スマホの画面に、小さなスタンプのような記録が表示された。
2025/6/22 湊花峠ベンチ
[ぽふ:感情変動後安定/音声なし/軽度の沈黙]
[ひざの上/日差し/甘さ記録あり]
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実は、思わず口元を押さえる。
こみあげてくる笑いと、泣きたくなるような気持ちが、胸の中でぐるぐる回っていた。
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実:
「……ただいま」
さくら:
「……おかえりなさい、沢田さん。いえ、実さん」
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風が、堤防の上を優しくなでていく。
空の雲が少し割れて、陽射しが「ぽふっ」と差し込んだ。
(続く)