小野小町のお小水
「誰とは知りませんが」
と、そいつはそんな前置きをしてしゃべり出した。
「地球の水循環を表して、自分は小野小町のお小水を飲んでいるとおっしゃった方がいたそうです。小野小町のような美人のお小水も、川に流れ海へたどり着き、蒸発して雲となり、雨として地上へ降り注いで、再びあなたたちの飲み水となる、そう言うお話ですね。これは正しくもあり、ある意味においては間違いでもあります」
辟易するほどもったいぶった言い方だが、私はひとまず黙って続きを聞くことにした。
「水は単なる水ではなく、それ自体に情報を秘めているのです。どこそこの源泉からくみ上げられたとか、誰それ宅の雨どいでボウフラを一〇〇匹湧かしたとか、それこそ小野小町から排泄されたなんて情報も、流れ出た当時は持っていたでしょう。ただし、情報は消えるのです。蒸発蒸散する際、てんでばらばらに飛んで行く水分子はあまりにも小さくて、情報を持って行くことができないのです。従って、我々に小野小町のお小水であったと言う情報がない以上、我々はただの水道水でしかありません。つまり、あなたは若干の塩素とミネラルを含んだ私を、安心して飲むことができます」
つい先ほど、水道の蛇口からくまれたコップ一杯の水は、そう話をしめくくった。
私は手の中にある透明なガラスのコップをしげしげと眺めた。その中にあるのは、どうみても透明な当たり前の水だった。ただし、ここ最近の猛暑のせいで水道管が温まっているせいか、少々生温い。温度計を突っ込んだら、おそらく三〇℃を上回るだろう。
「さあさあ、ぐいっとお飲みなさい。喉の渇きを覚えた時にはもう脱水症状が始まっています。早め早めの水分補給が肝要なのです。さあ、さあ」
執拗に飲むことを勧めて来る水を怪しんで、私はコップを傾けた。水はシンクの排水口に吸われ、静かに消えた。
改めて蛇口をひねり、同じコップに水道水を注ぐ。すると忌々しいことに、そいつはまたしゃべり出した。
「誰とは知りませんが――」
私は再び小うるさい水を捨てる。そうして冷蔵庫を開けるが、生憎と渇きを癒せそうなものは入っていなかった。当然だ。飲み物が入っていないとわかっていたからこそ、私は塩素臭い水道水を飲もうとしていたのだ。
念のため、排水口に耳を傾けるが、あの声はもう聞こえなかった。
私はスマホと財布をひっつかみ、玄関へ向かった。
もはや水道水に口を付ける気にはなれなかった。とは言え、喉の渇きは如何ともしがたい。あの水のおせっかいな忠告に従うようで業腹ではあるが、どこぞで飲料水を買い早々に水分補給をしなければならない。
サンダルをつっかけ扉を開ける。案の定、熱気の塊が押し寄せてきた。ほかほかに温められた綿で全身を包まれているような気分だ。この時点でもううんざりし始めていたが、私はえいやと部屋を出た。
アパートの自室を出て階段を降りる。財布の小銭をまさぐりながら、敷地の端にある赤い自販機に歩み寄る。品ぞろえが少ない上に値段は割高だが、背に腹は抱えられない。さもなければ、猛暑の中をコンビニまで歩くことになる。
ところが無情にも、すべての商品ボタンに「売り切れ」の赤いランプが灯っていた。
まったく、ついていない。
覚悟を決め、裸足ならやけどしそうな道をとぼとぼ歩く。しかし、苦行を乗り越えてたどり着いたコンビニでも、冷蔵庫の中はほとんど空っぽだった。冷凍庫もしかり。この時期は溶かして飲むタイプのアイソトニック飲料が並んでいるはずだが、その一角は冷凍庫の底が見えていた。ロックアイスならどうか、と見れば同様である。
幸い、二リットル入りの緑茶のペットボトルが、一本だけ冷蔵庫に残されていた。ただし、手に取るとそれは生温く、まったく冷えていない。補充されて間もないのだろう。店員にそれとなくたずねてみると、彼女も首をひねるばかりだった。
「ちょっと前に、飲み物はほとんど売り切れてしまったんです。もう、補充用の在庫もありません。何かあったんですかね?」
私は代金を渡し、礼を言ってコンビニを後にした。
入口近くにある駐車スペースで、アイドリングしたまま停まっている車の脇を通り過ぎる。運転席ではワイシャツ姿の男がコンビニ弁当をぱくついていた。車内にこもる臭いを逃がすためか、わずかに窓が開けられている。その隙間から、ラジオの声が漏れ聞こえてきた。
「今入ってきたニュースです。先ほど国は全ての国民に向け、水道の飲用を極力控えるよう緊急の通達を行いました。水道水から声が聞こえると言う問い合わせが各地の保健所に相次いだことを受けた措置で――」
全国の水道水が一斉にしゃべりだすなど、一体何が起こっているのだろう。私は言い知れぬ不安を覚えるが、同時に安堵もしていた。
つまり、あれは幻聴ではなかったのだ。
私の頭の中の、なにかしらの異常があの水道水をしゃべらせていたのではなく、実際に誰でも聞き取れる声を、紛れもなく水道水自身が発していたのだ。
そうなった原因はさっぱりわからないが、最悪の状況というわけでもない。お国の通達は、「極力飲用を控えよ」なので、トイレや風呂には問題なく使えるはずだ。もちろん、尻の下から小野小町がどうのと言われることを、辛抱できればだが。
遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。熱中症患者の搬送だろうか。猛暑に加えて水が飲めないとなれば、今後はもっと増える恐れもある。
いや、他人事ではない。
私は立ち止まり、ペットボトルの蓋に手を掛けた。とは言え、直接口を付けるのは避けた方がいいだろう。以前、飲みかけのペットボトルを枕元に一晩放置して、翌朝クラゲ状の物体が発生した液体を、危うく口にしそうになったことがあるのだ。
コンビニに引き返して、紙コップを買って来たほうがよさそうだ。
私は踵を返す。
ふと、要らぬことが頭をよぎる。
このペットボトルの蓋を開けた時、もし例の声が聞こえてきたら、私はどうすればよいのだろう?