2-20 【回想】シャル・マッドガク(1)
――観光業が盛んで有名なツツ国。人気の観光名所やレジャースポット、またここだけでしか味わえないフードなど、人々が楽しめるような場が多くあるこの国だが、そんな国にもひとつだけ、太陽の当たらない場所があった。
ツツ国最西端にある、『カクラサレガ区』。ここは国から忘れ去られた――否、なかったことにされた者たちが集う、極貧地区だ。
様々な事情により世間から追いやられた人たちは、今日も食べる物を探して残飯を目当てに街へと繰り出していく。
十二年前、シャルもその人々の内の一人だった。
シャルは親の顔を知らない。どんな人なのかさえわからない。それゆえに、当時のシャルは自分の名前さえわからなかった。
気づけば一人、今日も同じように残飯を探しに街の路地裏を歩いていて、その日暮らしを繰り返すばかりだった。
「『カクラサレガ区』じゃあ、弱ければ生きていけない。自分で餌を見つけ、手に入れられなければ死ぬしかない。最悪、街の者に殺されることもある――そうならないためにも、ここでは強く生きなきゃならない」
カクラサレガ区では珍しく、そう親切に教えてくれたおじいさんは、その次の日に街の少年らに暴行されて死んでしまった。
それ以来、シャルはとにかく強くならなければならないと自分自身で課し、暇さえあれば独学で体術を積んでいた。
路地裏からヒッソリと、街中で喧嘩をする連中を覗き見て、動きを学ぶこともあった。
だがしかし、シャルはひとつだけ心に決めていることがあった――それは、決して他人に暴力は奮わないことだ。
それをしてしまえば、自分はあのおじいさんを暴行し、死に至らしめた少年らと同じになってしまうと思ったからだ。
シャルは毎日街へ繰り出した。人のいない薄暗い路地裏で、中途半端に食べられて捨てられた餌を求め、それから、壁の間の小さな隙間から街の活気を呆然と眺める日々を繰り返していた。
そんな日々を過ごしていたある日――いつものように、路地裏の影からこっそりと街の風景を覗き見ていると、白髪を生やし、やや腰の曲げた初老の男性を目にした。
――その男性こそが、ラバーだった。
今よりもまだ若さのあるラバーだったが、シャルからすれば年老いた男性以外にほかならない。そんな男性に当時のシャルは大して興味を抱くはずもなく、視線を逸らしかけたが、「おい、ジジイ」という若い男性の声を聞き、再びラバーのほうを見た。
見ればラバーは、若い男性三人に取り囲まれていた。
服を着崩し、ジャラジャラと派手なアクセサリーを身につけ、ニタニタと汚い笑みを浮かべる男たち。シャルは固唾を飲んで、静かにラバーの背中を見つめた。
「とりあえず3万ゴルド出してくれよ。俺ら今月ピンチでさー、遊ぶのにちと金足りねんだわ」
「金持ってそうだし、3万くらい余裕だろ? な?」
ラバーは半歩退いて、「いきなり、金とは……」と抵抗を見せると、三人目の男が手を叩き大きな音を立て、威嚇するかのように指をパキコキと鳴らす。
「いいから出せよ〜。あるんだろ? 素直に出さねぇってなら、力づくで奪うまでだぜ?」
ラバーの深いため息が、シャルのところまで伝わってきた。
「お金は渡せない。ワシは君たちに貸せるような金を持ってない……どこかへ行ってくれ」
男たちが一気に不機嫌な色を浮かべたのが、シャルにはわかった。
「クソジジイが! 出せっつったら出すんだよ!」
一人の男の叫びを皮切りに、三人の男らは同時に動き出した。
同時に、シャルはほとんど反射的にラバーの前へ飛び出していた。
シャルの姿を見て目を丸くする三人――シャルは構わず、三人の男相手に技を繰り出した。
「―― 〈クウ・トッ・ショウ〉!」
まずは真ん中の男に、次に右の男に、最後に左の男に――と、シャルは間髪いれずに掌底打ちをし、あっという間に相手の男たちをノックダウンさせた。
当時まだ八歳。シャルはこのころから、体術の才能を開花させていたのだ。
すっかり気絶してしまった三人を見届けてから、シャルはラバーへ振り向き、「だいじょ……ぶ……?」と尋ねた。それからすぐにハッと我に返り、自身の行動に後悔が襲う。
「ぼ……ボク、殴るのしない、決めてたのに……」
暴力はしないと心に誓っていたシャル。だが、今日ここで初めてその誓いを破ってしまった。
落ち込むシャルに、ラバーは優しく声をかける。
「……君はもしかして、カクラサレガ区の子かい?」
シャルは小さく頷いた。
「……そうかい。君は今まで、人を傷つけないようにしてきたのかい?」
「……うん。でも、今……破っちゃった」
「そうかそうか。でもな、君のおかげでワシは助かった。果たしてそれは、100パーセント君が悪いとはいえるじゃろうか」
「……」
シャルは首を傾げた。
「ははは。すまない、いきなりこんなことを聞いてしまって。まずは礼を言うべきだった……ありがとう」
シャルは「どういたしまして」と答えた。「ありがとう」にはこう返事するのだと、生きていく中で学んだことだ。
「えと……じゃあ、ボクは帰ります。本当は、ボクみたいなのは街にいるもんじゃないから……」
シャルは最後にそう言って、ラバーから離れようとした。しかし、ラバーに手首を掴まれたシャルは足を止めることになる。
驚き、ラバーを見上げるシャル。
「君は、両親はいるのかい?」
突然の質問に、シャルは首を横に振った。
「……君は、路地裏で過ごす日々から抜け出したいと思わないかな?」
シャルはゆっくりと首を縦に振った。
「なぁ、君……」
ラバーはシャルの両手を握り、目線を合わせてこう告げる。
「――ワシの屋敷に来ないか? その強さ、ワシの護衛役として頼みたい。それにウチには家政婦もいなくての、家事に手が回らんのじゃよ。渡せる給料は少ないが……寝る場所や食べる物、ほかすべての生活は保証しよう」
シャルは目を見張った。
未だかつてない言葉だった。自分みたいな最下層の人間に、まさか仕事の依頼をしてくれるなんて。
シャルは内から込み上げる喜びを必死に抑えて、「はい。よろしく、お願いします……!」と返答した。
ラバーはニッコリと笑うと、
「じゃあ、契約成立じゃな。ワシはラバー。ラバー・マッドガクじゃ。して、君の名前は?」
そう自己紹介し、続けて質問した。
そこでシャルは黙り込んでしまう――さきほど語ったように、シャルはこの当時、自分の名前を知らないからだ。
もしかしたら、自分には名前などないかもしれない。
シャルはしどろもどろに、「ボクは……ボクです……」と答えると、ラバーは状況を察してくれたようで、こう提案した。
「そうじゃな……では、君は『シャル』と名乗りなさい。今日から君は、ワシの屋敷のメイドとして働く、『シャル・マッドガク』じゃ」
初めて与えられた名前に、シャルは目を輝かせた。
「シャル……」
「ああ。……実は、昔飼ってた猫の名なんじゃがな」
「ううん、それでもいい。お気に入りです」
こうしてシャルは、偶然の出会いからラバーと共に暮らすこととなったのだった。