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やっとの思いでダンジョンの地下10階にたどり着いたばかりだというのに、軍の兵士たちは予定どおりに朝も早い時間からドラコリッチ戦に向けた準備を始めていた。
すでにギルドから提供を受けた薬品や道具を使った体力と疲労の回復は限界まで行っている。その上で傷んでいた装備も修繕し、状態の良い物から順に前線に立つ兵士へと配られていく。鎧を身につけ、武器を身につけ、体の動きを確かめていつでも戦場に立てるように備えていくのだ。回復しきれず支援に回ることになった兵士たちもまた、装備を身につけ、配って歩くことになるポーションや予備の武器をそろえていく。
決戦に向けた準備は着々と進んでいた。
「全快まではいけませんでしたね」
「仕方がなかろう。この強硬手段もまた中央の発案だ。どうすることもできん」
「案内人からの情報収集は」
「相手が何かは冒険者からの聞き取りで判明している。それ以上はなしだ。準備に時間をかけるわけにはいかんよ」
「やむを得ませんか」
「可能な限りの全力で当たる。それだけだ」
「それで、問題の相手は?」
「ドラコリッチだ」
十字路の中心で外の方角を見つめながら、マリウス将軍から広場の魔物が何なのかを聞いたアエリウスさんが天を仰いだ。
わたしの知る限り、この国で、あるいは周辺国のいずこかで、ドラゴンが倒されたという記録はない。この国での対ドラゴンとなると、その戦果は追い払ったというところまでだ。確か数年前に、集落を襲ったブルー・ドラゴンを軍が総力を挙げて追い払ったというものが一番最近の記録だったと思う。もしかしたらマリウス将軍や、それ以外の兵士の中にも参加していた人はいるかもしれない。
今回はダンジョン踏破が目的であって対ドラゴンが目的ではなかった。大型の魔物もあり得るかもしれないという想定はしていても、そこまで大型で強力な魔物が登場することは想定していなかったと思う。それでも、相手が何であれ、広場の魔物とやれというのが中央の指示で、国の軍隊である以上はやるしかないだろう。繰り返すけれど、それでも、やっぱり対ドラゴンは厳しいのではないでしょうか。
もちろんドラコリッチはドラゴンではない。そう言うことはできるし、その意見はそれはそれでいいだろう。でも元になった素体はドラゴンで、それはリッチ化したドラゴンのことで、やっぱりドラゴンじゃないか! という気持ちになるだろう。もちろんドラコリッチを撃破したなんて記録は見つけられなかった。
いざ戦うその瞬間まで相手を知らずに準備をすることの善し悪しはわたしには分からないけれど、覚悟を決めているのだろうマリウス将軍と、今まさに覚悟を決めたアエリウスさんがそろって外、ドラコリッチがいる方を見ている。何とか一撃を入れて中央を満足させられる実績を作り、そして無事な内に撤退を選択してほしいと願っています。
「仕方がありません。持ってきた道具だけでどうにかできるものなのか、やるだけやってみますか」
ため息とともに方針が決定され、アエリウスさんが部隊の編成のために休憩所へと移動していった。それを見送ったマリウス将軍はその場で首を回し、肩を回し、自ら前線に立つ覚悟なのだろう、体の状態を確かめ始めた。
しばらくして装備を身に付けた兵士たちが外へ続く通路に並び始める。
プレートメイル、シールド、ロングソード、スピア、ロングボウ。組み立てて使用する新式だという射出式のジャベリン。火炎瓶や毒瓶、ヒーリング・ポーションなどの薬品。貴重な魔道具としてファイアーボールのような現象を起こすというブラスト・ボール、それから防御用に使うのだというバリア・ストーンなど。
そんな装備で大丈夫かと言いたくなるけれど、言われるまでもなくそんなことはマリウス将軍も承知の上だろう。前線に立つ兵士が22人、支援に回ることになった兵士が6人。完全に脱落している兵士が2人。この人数にこの装備でドラコリッチとやるのだ。
軍の兵士といえども大型の魔物との戦闘回数はそこまで多いものではないと思う。そのつもりはあっても、本当に本気の大型の魔物との戦闘が始まるのだ。並んだ兵士たちの表情にも緊張が見えていた。
いくらここが勝負所、ドラコリッチを撃破ともなれば戦闘に参加した兵士たちの評価はとても高いものになるだろうとはいっても、そんな楽観的な想像だけで乗り越えられるほど魔物との戦いは楽なものではないことも知っているのだろう。
マリウス将軍の部隊が正面、右翼クウレル、左翼パキ、弓手は全員広場周辺の木立の中へ入って攻撃を仕掛ける。初手は射出式ジャベリン、ロングボウ一斉掃射、続いて火炎瓶と毒瓶の投てき、そこからはスピア組による突撃、そして近接攻撃を重ねと続いていく。その手順を再度確かめたところで、いざ出発となった。
『それでは私たちも準備をしましょう』
そうね、どうせすぐに終わる。いつでも救助に行けるようにしておきましょう。ルーナも大丈夫ね?
『はい。すでにモドロンたちは壁際に箱形に姿を変えて配置済みです。いつでも起動し、出られようになっています』
よし、それではわたしたちも部屋を出て、塔の前で待機することにしよう。
「トーリさん、申し訳ありませんが、セルバ家で買い上げますのでギルドにある残りのポーションも全て提供をお願いします。費用は後ほど文書で出していただければそのままお支払いしますので」
「もちろんです。他の方法もありますが、本当に買い上げでよろしいのですか?」
「はい。そのためにお金はあるのです」
貸し出し、という方法もあるにはあるらしい。いわゆるローン、借金、出世払いだね。でもいいんだ、お金には困っていないからばっちり現金一括ですぐにでも支払うよ。今回のドラコリッチ戦に関してはセルバ家でお金も物もバンバン出す、全力で支援する、そういうつもりで用意してきているのだから。
「皆さんも、救助の方、よろしくお願いします」
「おお、分かっているさ。まかせろ」
クリストさんが力強く言ってくれる。今回は彼らは完全に観戦のみだ。軍に手を貸すことは取り決め上できはしないし、それにドラコリッチの戦いっぷりを見てみたいだろうからね。わたしと同じように今は待機だよ。
「今回はわたしたちがどれだけ助けられるかも重要なことですからね。あ、ポーションはセルバ家の方でも出しますので、箱のまま外まで運んでいただければ」
冒険者さんたちやギルドの職員さんにも協力してもらってポーションや塗り薬、痛み止め、包帯だとかの普通の医薬品も箱のまま塔の外へと運び出し並べていく。すでに軍の姿は木立の向こう。そろそろ畏怖すべき存在効果の範囲に入るだろうか。怖いだろうけれど、頑張ってほしい。わたしにはこっそり応援しているくらいしかできないけれど。
木立の合間を縫って広場に向かう兵士たちの表情はスタートした時からさらに一段と厳しいものになっていた。額に汗が浮かび、口が開いて呼吸は荒く、足取りは重く明らかに震えている者もいる。どこかから聞こえてくるゴウッ、ブシュウッという音がするたびにビクリと身をすくませる者もいる。
そして木立を抜け、広場が見とおせる場所へと出る。頭上には青空が広がり、風は涼しく穏やかで、耳を澄ませばどこかに鳥の鳴く声も聞こえただろう。ただ、その広場には爽やかな雰囲気にそぐわない異様で巨大な魔物がいた。
巨大だ。巨大な骨の塊に朽ちた皮や濁った色の肉が貼り付いていて、一見すると死体のようだ。トカゲのような形をした頭部、牙が並ぶ大きな口、太い腕と脚には鋭い爪があり、長い尻尾を持ち、そして大きな翼があった。
そしてそれは死体ではなかった。骨の塊、大きな死体のように見えたとしても、それは動くものだった。暗い黄色に濁った眼球がぎょろりと兵士たちの方を見た。牙の隙間からは紫色や灰色や黒色やさまざまな色をした煙が漏れていて、ブシューという音をさせては立ち昇っていった。
ゴリゴリと音をさせながら頭をもたげると、暗い黄色い眼球がぐるりと回り紫色へと変わる。胸の崩れた肉の向こうで紫色の煙のようなものが沸き起こり、それが首の骨に沿って昇っていって口の中にたまる。大きく開いた口からその紫色の煙がゴウッと音をたてて広場にまき散らかされた。
この時のために準備してきた、これが本気のドラコリッチ。
兵士たちはすぐに動くことができなかった。まだ門前の広場に展開すらしていなくて、ただちょっと頭をもたげて紫色の煙を吐いただけのそれに圧倒されていた。
マリウス将棋は気合いを入れ直すように自分の胸をバンとたたき、目の前のドラコリッチをにらみつけた。
「総員、戦闘準備!」
大声で指示を飛ばし、自分自身も武器を手に構え直す。
「予定どおりに展開しろ! 弓手は木の間から狙え! 正面には入るな! 散らばれ! 囲め!」
アエリウスさんもまた自分を鼓舞するように大声を出して指示を出す。
全員が大盾を持ったマリウス将軍の部隊がドラコリッチの正面に展開してターゲットを取り、遊撃となるクウレルさんの部隊とパキさんの部隊が左右に広がっていく。
「用意! 構え、撃て!」
号令に合わせて射撃式ジャベリンが広場に引き出され、ドラコリッチの正面から発射される。組み立て式で持ち運びやすく、しかも強力なバネの力で撃ち出せるので威力もなかなかという新しい兵器だそうで、2台並べたそれから発射されたジャベリンが見事にドラコリッチの胸を捉えて深く刺さった。
撃ての号令で発射されたのはジャベリンだけではなく、周囲の木立に展開した弓手から一斉に放たれた矢、さらにはスリングを使って火炎瓶と毒瓶もまとめて投げつけられた。大量の矢がドラコリッチの体に突き刺さり、体に足に翼に命中した火炎瓶によって炎が発生し、毒瓶によって体中に毒液がまき散らかされる。
初撃成功。ここまでは良かった。
やはりドラコリッチは様子見から入ったのだ。出番を待って待って暇を持て余していたドラコリッチは受けるところから入ってくれたのだ。
軍も一撃を入れることには成功したのだから十分でしょう、これ以上は危険だからもう撤退してほしい。
そんな願いが聞き届けられることはない。
出番を待ち望んでいたドラコリッチはやる気がみなぎっていて、そして軍にとっては初撃がきれいに成功しすぎてしまった。確かな手応えがあった、誰もがそう思ってしまったのだ。軍の兵士の顔にやったという興奮の色が一瞬広がった。これがいけなかった。