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体育の授業に苦情を申し立てに来たのは音楽の先生だった。
つまり次の授業は音楽ということで教室を移動するのだけれど、さすがに音楽の教室にこの人数を詰め込んで授業を行うというのは難しかったようで、早く着いた順に先頭から第1、第2と分けられていく。てっきり第1の方が音楽の先生がそのまま担当するのかと思ったら助手さんにではそのまま指導をと言って自分は第2へ。当然移動がゆっくりなわたしたちが第2なわけで、こうして苦情を言ってきたのが音楽の先生だったのねと知ることになったのだね。
「――あの先生は以前は最前線で魔物相手に武勲を立てたとかで、人材の育成に熱心なのは良いのですがそれを急ぎすぎるのです。学園の方針は学力の底上げと拡大です。1年生に求めるのは多くの経験を積み視野を広げることです。それをあの先生は――」
いきなりぐちから始まってしまった。
ポーンと隣の第1音楽室の方からピアノの鍵盤をたたく音が聞こえ、これではっと気がついたのか咳払いを一つ。では授業を始めましょうとなった。
「この国ではいま、音楽や絵画、工芸といった芸術への意識が非常に高くなっています。特に背景美術や衣装に贅をこらし、演奏、歌唱、舞踊を組み合わせて物語を演じる総合芸術への取り組みが活発です。音楽の授業ではこの演奏、歌唱、舞踊に取り組むことになりますね。もちろん学問としての音楽も重要ではあるのですが、多岐にわたる知識や高度な思考が必要で難易度が高い。まずは音楽に親しむことから始めましょう」
ほお。てっきり学問としての音楽が優先されるのかと思っていたのだけれど、実際過去の7教科の時はそうだったのだけれど、今は現代的な音楽の授業に近いものになっているのかしらね。
「何も最初から全てをこなせとは言いませんよ。まずは親しむことからです。貴族であればもちろん、市井の者であっても見に行く機会はあるでしょう。そういうときに何も知りません分かりませんというわけにはいきませんからね」
そうね、知っていた方が断然格好いい。特に貴族であれば国が推進しているというのにさっぱり分かりませんではお話にならない。最低限、話しについて行けるくらいにはなっておかないとね。
さて、そんな音楽の授業が始まったわけだけれど、さすがに初日からがっつりやるわけではなかった。
先生の「この中に楽器の演奏をした経験のある人はいますか」という問いに何人かがぱらぱらと手を上げる。後ろからリリーエルさんの「はい、はい! ギター弾けます!」という声が聞こえる。うむ、元気があってよろしい。
「――今後はみなさんに演奏してもらう機会もありますからね。ギターは確かリュートに似た楽器ね、あったと思いますよ――」
リリーエルさんはギターを弾ける、そうね、バードを持っていたわね。聞いてみたい気持ちもあるけれど、さすがに初日から生徒に弾かせるようなことはなく、先生はピアノの方へ歩いて行く。
ピアノ、第1の方にはグランドピアノがあったけれど、第2はアップライトだね、時代がまったくもってそぐわないけれどどこかの誰かさんが知識か技術か現物かを持ち込んで普及させたのか、まあとにかくピアノだ、それを先生が紹介する。
これはピアノという楽器で、鍵盤をたたくことで音が出る。弦楽器や管楽器と比べて音を正しく出すことが容易なことから普及が始まっている。そしてこれが楽譜。音と記号を配置し、それを楽器を使って正しく再現することで曲が奏でられる、つまり曲の設計図ですね。この楽譜をピアノという楽器で演奏するという形になります。この設計図の書き方も学ぶことはできますが、まずはそういうものだと知っておくことです。それではこの楽譜をそのまま演奏しますよ。
ぽーん、ぽーん――
さすがに先生ともなれば手慣れたもので、さささと弾いていく。
分かりますか、この楽譜を今ピアノを使って再現しました。これが吟遊詩人の即興詩や口伝の曲との違いでもあります。この楽譜があれば誰が演奏しても同じ曲になるのですよ。そしてこの楽譜の音に合わせて詩が書かれていれば、音に合わせて詩を読めば、それが歌になるのです。誰が歌っても同じ歌になる。分かりますか。
ここで先生がピアノから立ち、教室正面の黒板の前へ、そして天井近くにつり下げてあって丸めた大きな紙、紙か? 布、じゃないよな、たぶん紙、それを結わえていたひもに棒を引っかけてほどき、広げた。
なるほど、と思う。そうきたか、と。
それは楽譜だった。五線譜と、それに詩が加えられている。歌の楽譜。何の歌かって、それは建国記の冒頭の詩だった。これはたぶん国歌だ。愛国心を高めるための教育の一環として、国歌の普及を試みているのだと思う。総合芸術って言っていたのも、建国記を翻案して使おうというのではないかな。この一見古代ローマのように見えるのに中性や近世の技術や文化が導入されている、この世界、この時代にすらそぐわない発想。今の国の中央には確実にそういう考え方を持ち込んでいる人がいるのだろうね。
それからは特に言うことはない。
建国記の冒頭の詩の一節だということが説明され、楽譜に合わせて読むことで歌になるのだと説明され、先生が楽譜を読み、音を説明し、詩をその通りに読んで歌のようになるのだと言う。そしてひととおり読み終えたところで、みなさんも一緒に読んでいきましょうとなる。
音楽というものに触れたことがあるのならそう難しくもない授業で、そして全員が一つのことに取り組める内容で、学問というよりも音に親しむといったことに焦点を当てていて、国歌の普及ではないかなという点を除けば良い授業だったと思います。
次は絵画と工芸、ということで教室を移動。
この授業、「なぜ美術、絵画だ工芸だというものを学ばなければならないのかと疑問に思っているものも多いだろう――」という言葉から始まった。
音楽はたしなみとしてみなすこともできるけれど、絵を描くだとか物を作るだとかが貴族に必要なことなのかという不満の声は教室を移動している段階ですでに聞かれていた。当然そんな疑問はこれまでにも散々生徒や親から出されてきたことだろう。
「これはな、言ってしまえば今後は必須の知識、技術になっていくことだからだ。今のうちから学んでおかなければならないと国が判断したからだ。文句があるのならば国に言えということだ」
なんという暴論。でも正しい。頭が柔らかい、感性が豊かなうちに学び始めた方がいいに決まっているからね。
続けてされた話もわたしには興味深いことが多かった。
最近になって、国王一家の肖像というものが中央でお披露目されて、それを機に中央だけでなく各地で肖像画の需要が高まっているのだそうだ。しかも王妃様が絵画にとても興味を持たれて、なんと絵を描くお勉強を始めてしまったらしい。
同時に公開された王城の庭園を描いた風景画、テーブルに置かれた果物を描いた静物画とともに、その精緻な線、緻密な描写、多彩な色といった、それまで知られていた絵とは一線を画す素晴らしい芸術性が評価され、絵画というもの自体の評価も同時に急上昇しているのだという。授業に絵画が取り入れられたのも、画家の発掘、才能の発掘という側面があるのだそうな。
そうね、専業の画家なんてほとんどいないだろうからね。生徒の中から絵画に目覚めるような人が出てきたらそれこそ大歓迎されるわけだね。
工芸という面では、扱う素材が木材、石材、土に金属、さらにガラスなどなどあって、日用品としてはもちろん、芸術としても確かな評価と需要がある。授業で扱うことで才能を発掘したいという点は同じだけれども、それ以外にも重要なことがあった。
そんなもの工房の職人が扱えばいいものじゃないかと声を上げた生徒に対して言われたことだ。
おまえは軍の、前線の部隊に配属されてもそれも言うのか、目の前に傷んだ武器や防具があってもそれを言うのか、修理をしなければ戦えない現場でそれを言うのか。
おまえの手元に折れた剣があり、目の前には手頃な太さの木の枝があったときに、おまえは折れた剣のままで戦うのか。木の枝の先端を削り槍を作って戦った方がましだ。
工芸という言葉にだまされるな。素材を知るのだ。扱い方を知るのだ。おまえは自分の武器や防具が何で作られているのかを知らないままで済ませるのか。木に金属塗装を施した物と、金属で作られた物を見極められるのか。金属の質の違いを理解できるのか。武器防具の善し悪しを、選択を人任せにするのか。どうだ――
これはもう黙るしかないと思うよ。わたしもいつだったか、ギルドの職員さんが持っていた盾を金属製だと思っていたら実は木製だったという時があった。金属塗装なんてぱっと見ではまったく分からないのよ。
それにな、軍の新入りが修理作業をやらされないかといったらね、絶対やらされるよね。そういう時のためにも木や石や土や金属や、とにかく扱い方はひととおり知っておかないと人に聞くことすらできないからね。
もっとも先生はその後、そんなことは軍に行ってからぼろぼろになるまで鍛えられながら覚えたらいいことだ、授業ではそんなことよりも職人や芸術家の卵を育てることの方が重要だという一言を放って、台無しにしたのだけれどね。
その日の授業は木工はこういうもの、石工はこういうもの、陶工はこういうものっていうことをひととおり見せていって、まずは木工からだぞと説明されたところで終了。絵画はと思ったら、木工で作ったものや石工で作ったものだとかに色を塗るところからスタートだってさ。絵画は道具がお高くて数も少ないみたいよ。なるほどね。
そんなこんなで本日の全ての授業は終了。明日は大問題の魔法の授業だそうな。学問としての魔法には興味があるけれど、実技が絶望的だからね、期待半分不安半分だよ。
まあとにかく今日のことはこれでおしまいで、明日は明日の風が吹く、と。ご飯を食べたりお風呂に入ったり明日の授業の用意をしたりが済んだらベッドの上へ。さあここからはお楽しみの時間だ!