第一章⑥
時刻が十三時を回り、授業が始まるからか、キャンパス内を歩く大学生の数が一気に減った。一人の生徒が走りながら建物に入っていった。寝坊か、電車の遅延か。
スーツに身を包んだ人物も時折見かけることがあった。今は五月、就職活動の最中なのだろう。明らかにスーツに慣れておらず、ネクタイもズレていた。
頑張れ、青年。
伊藤麻衣の親友であるらしい溝口愛と会う十七時まで、あと四時間ほどある。
私は早應キャンパスの正門から外に出て、ロータリーのような広いスペースから多方向に伸びていく道の一つに進んでいった。
車道の両側に店が並んでいる。大学近くとあって、大衆的な飲食店が圧倒的に多かった。
適当に見つけた食堂でステーキ定食を食べることにした。量が多いのは、やはり常連客は大学生が多いことが理由か。これで並なら、大盛りはどれほどのボリュームになるのだろう。
無事完食し、お冷も全て飲んで、私は席を立った。味も充分で、これほどの満腹感とは。外食でこのコスパの良さは、大都会では見られないものだろう。ここによく通う大学生たちに私は感謝した。
店を出て、重い身体を引き摺るようにして最寄り駅であるW駅を目指した。
その途中、早應大学付属の中学校と高校の校舎が見えた。
早應キャンパスから歩いて五分もない場所だ。二つは隣接しているようで、校舎のプレートはカビが生えているかのように古びていた。若々しい声が聞こえてくるのは、校庭で体育の授業でもしているからか。
見えない若々しさに目を細めた。
過去を振り払うように、私はこれからのことを考えた。時間の余裕は充分にある。
私は依頼人である伊藤夫人のことも調べるつもりだ。
伊藤和子という教育ママ。
貴婦人といった知的で上品な印象もあるが、全てに理解を示すようなタイプではない。
依頼内容を伺っていた時の落ち着かない様子。娘が失踪して不安になっているのみならず、どことなく興奮している様だった。
娘の麻衣がいなくなったからといって、原因は母親にはないとは限らないのだ。
伊藤麻衣の失踪に伊藤夫人が直接的にも間接的にも関わっている可能性は充分にある。その関与が意図的なのか意図せずなのかは判別がつかないが。
私は足を止めた。
不吉な予感が浮かんできた。
まさか探偵に依頼を出すことそれ自体がパフォーマンスではないだろうか。
実のところ伊藤夫人は伊藤麻衣がどこにいるのかを知っていて、その上で狂言として私のところに来たのでは。
さすがにフィクションの読みすぎか。
狂言だったとしたら、一体何のためにそれをしているのかが分からない。
であれば、伊藤夫人が悪側の可能性だ。
伊藤麻衣は迫られる形で、行方を晦まさざるを得なくなった。伊藤麻衣はいわば逃亡中の身なのか。
歩みを再開して、私は伊藤夫人に記入してもらった住所に向かった。路線情報のアプリで調べた上で、W駅で電車に乗る。乗り換えは二回だ。
平日の昼過ぎとあって車内は空いており、座ることができた。電車に揺られながら私はスマホを開き、ネットで「奨学金 行政機関」と検索を掛けた。
調べてみたところ、どうやら学生に対する奨学金事業を担っているのは「日本学生支援機構」という独立行政法人らしい。
その後、いつものアプリケーションを起動した。とっくに使い慣れたものだ。
消しゴムのように真っ白なスクリーンをタップして、テキストを入力していく。黒文字で「独立行政法人 日本学生支援機構 橘圭太」と打ち込んだ。この偽名は誰かの苗字と誰かの名前を組み合わせたものだ。誰かさんにあやかって惣田空などという苗字にでもしようか、と考えたが、珍しすぎる苗字は強く覚えられてしまうのでやめておいた。
その画面を一時保存し、私は「日本学生支援機構」と検索した。画像を調べると、簡単に同機構のロゴを手に入れることができた。英語でJapan Student Services Organizationというらしい。ロゴにはその略語でJASSOと書かれていた。
画面をスクリーンショットしたうえでロゴの部分を切り取り保存し、一時保存していた名刺データ画面の左上にそのロゴを配置した。
ロゴに所属、そして氏名。その下に段を揃えて連絡先を打ち込んだ。Mailの横には普段から使用しているフリーメールアドレス、そして「緊急連絡先」と厳めしい字体で電話番号も記入しておいた。あまり電話は掛けてほしくないのだ。
これで、役人らしいシンプルな出来栄えの名刺データが出来上がった。
突貫工事ではあったが、悪くない。この名刺と私の容姿を以てすれば、役人に成りすますことなどハンバーガーの注文をするくらい簡単なものだ。
電車を降りてコンビニに入り、店内のマルチコピー機を探した。店内に入って左奥へ、左手に雑誌、右手にコンビニコスメや電池、イヤホン等が並べられているのを眺めながら進んだ先に、それは設置されていた。
厄介なことにグレーのスーツを着た六十代ほどの老人が、ジグソーパズル並みにコピー機に手間取っていた。
私はその老人の後ろに立った。
後ろから覗いてみると、その老人はプリントのサイズ指定に四苦八苦し、硬貨の投入口を見つけるのに時間を掛け、「印刷」ボタンを押さずに印刷した気になっていて、無駄な時間を過ごしていた。
あまりにも遅いので声を掛けて手助けしようとしたところ、狙ったかのように印刷を終えて私に番を譲ってくれた。
何だか肩透かしを喰らった気がした。
私はマルチコピー機の画面に手を伸ばした。プリントサービスでスマホから送信するものだ。
手順通りに画面をタッチしていく。
画面にSSIDとパスワードが表示されたので、私はスマホを開いてWi-Fiのネットワークを調べ、マルチコピー機のを接続した。
アプリで作成した名刺データの画面を開き、「プリントする」の項目をタップした。
マルチコピー機の画面に番号が表示されていたので、それをスマホに入力して「送信」ボタンをタップした。
マルチコピー機の画面に名刺データが表示された。白黒に設定し、印刷サイズを調整して部数を決めた。
あとは料金を入れるだけだ。
印刷したのは一セットだけだが、それは名刺十枚なので裁断が必要だった。
私は印刷した紙を持ってレジまで行き、レジ内をグルグルと動き回っていた店員に「コピー機で名刺を印刷したので、はさみを貸していただけませんか?」と丁寧に頼んだ。
その店員は四十過ぎの主婦で、私の頼みを聞いてくれた。
レジの奥には卓上タイプのセロハンテープ台が置いてあり、百均で買えるようなはさみが台とセロハンテープの隙間に挿しこんであった。
それを手に取って店員は「イートインスペースでお使いください」と渡してくれた。
手先を使う仕事は嫌いではない。
久しぶりの工作だ、と意気揚々にイートインスペースに入った。
私以外に四人ほど、等間隔を開けてコーヒーなりサンドイッチなりを目の前に置いて座っていた。年齢も二十代から六十代とバラバラだ。六十過ぎの人は競馬新聞を読みながら、コンビニコーヒーをちびちびと飲んでいた。
空いた席に座って手早く裁断した。
出来上がった名刺は、名刺入れにまとめて入れた。これから配ることになるだろう。
コンビニを出て暫く歩き、「田」という漢字を上空から沢山見つけられそうな住宅地に入った。スマホの地図アプリを頼りにグネグネと進んでいき、伊藤家へ向かった。
太陽は出ているものの、五月なので暑くはない。
良かった。
夏だったら大いに汗を掻いて、不快感に顔を顰めていたことだろう。
暫くして、伊藤家の正面に着いた。
まさかこのタイミングで伊藤夫人が家から飛び出てくることはないだろうが、それでも私は周囲に気を配っていた。私の服装はオフィスカジュアルだし、革靴を履いている。獲物を狙っている空き巣には見えないので、通報はされないだろう。
伊藤家は白の外壁とやけに西洋風で、何だか懐かしい気がした。敷地面積もなかなかで、長方形を横にしたみたいに大きいが、奥行きはあまりないようだ。正方形だったら豪邸の部類に入っていたかもしれない。それでも立派な一軒家だった。
周囲を見回しても、真っ白の外壁と大きさとで、伊藤家は目立っていた。
オフホワイトのタイルが張られた玄関アプローチに、その左右にはラインを引くようにこれまた真っ白の小石が敷き詰められていた。踏めばいい音がしそうだが、アプローチよりも若干位置が低い。小石を追加しなければいけない気がした。
アプローチと玄関を正面に見て、右手にはガレージがあり、そこにはシルバーのベンツのVクラスが一台、中央に停められていた。それでも充分にスペースが余っていた。
左手には人工芝と思われる緑の庭とカーテンの掛かった大開口窓、その先に物置と思われるグレーの倉庫と水道があった。
自宅のファサードだけで、住人のレベルを推し量ることができる。
伊藤家はハイソ寄りだ。
私は伊藤家の正面に立ったまま、二階部分に目を向けた。
ガレージの上にフロートガラスの窓とカーテンが掛かっているのがここからでも見える。
防犯面は大丈夫だろうか。ガレージの上によじ登ったら、その窓に容易に手が掛けられそうだ。あそこは誰の部屋なのだろう。麻衣か、亜由美か、それとも夫婦の寝室か。
いや、ここは娘二人がいる世帯なのだ。一般の親なら防犯意識を高く保っていることだろう。クレセント錠はしっかりとは見えないが、二階といえども窓に鍵を掛けていないはずがない。
その窓から水平に左へ行くと型板ガラスがあった。右にあるフロートガラスと大きさは同じだが、型板ガラスは凸凹の型模様が光を乱反射するため、外から中を覗くことができない。恐らく、あそこは風呂場だ。
家の正面に立ってあれこれ考えたりしていて、私は空き巣と同じだった。家族構成から、家が無人のタイミングから、侵入経路から。
そんなことはどうでもいい、と私は地図アプリでここら一帯の確認をした。
このあたりは一軒家が林立している地区で、高級な新築住宅の伊藤家といえでも裏庭はなく、玄関の反対側にはブロック塀を挟んで別の家があるようだ。
少し歩いて、伊藤家と背中合わせの家に来た。
どういう付き合いがあるかは分からない。今時では近所付き合いが希薄だと聞いたことはあるが、ここは果たしてどうだろうか。親密だとそれもそれで困るわけだが。
距離にして一メートルもない石畳の玄関アプローチを進んだ。左手にトヨタのミニバンが大開口窓を背にして駐車してあった。
ドア横の表札を確認した。
「神木」と書かれている。
建物の大きさでいえば伊藤家よりもやはり小さいが、ファサードの印象では、迫力で劣ることはない。視界を遮るものがなく、正方形に玄関ドア、大開口窓にミニバン、二階のベランダに小さな正方形を四つ、縦横に二つずつ配置した窓など、一望することができた。
表札近くのインターホンを押し、名刺を取り出した。ピーンポーンと小さく音がする。
「はーい」
明瞭な主婦の声が返ってきた。
「日本学生支援機構の橘と申します。裏の伊藤さんの家について二、三お伺いしたく参りました」
「後ろの伊藤さんちですか?どういうことでしょうか?」
自らの身分と仕事の設定は頭の中で綿密に組み立てられている。私はそれら台本を読み上げるだけでよかった。
「奨学金の申請について、ご家庭の経済状況を秘密裏に調査しております」
「あ、はい。ちょっと待ってください」
神木夫人は身分を偽ってばかりの私を信じ込んだ。ドアチェーンを開けて、ドアを開けたまま応対することとなった。インターホン越しのままだと私は困っていただろう。
申請内容の裏を取るため、という私の嘘に騙されて、神木夫人は自身の知ることを詳らかに話してくれた。話したがりの主婦というものは、情報収集には打ってつけなのだ。
名刺信仰、というものも大きいかもしれない。身分を何一つ証明しないにもかかわらず、テロリストでもコンビニで簡単に印刷できるにもかかわらず、どういう因習かそれを行政機関が発行してくれた身分証明書のように認識している人物は多い。
再確認のため、と伊藤家の家族構成を神木夫人に聞いた。驚いたことに両親のファーストネームまで把握していた。父の弘明、母の和子、長女の麻衣に次女の亜由美、と私はメモを取った。
「麻衣ちゃんは大学生で、亜由美ちゃんは高校生じゃなかったかしら。二人とも良い子よ、物凄く頭も良くて」
神木夫人は自分の娘を自慢するように話した。子持ちの母として、変な嫉妬もないみたいだ。
そのうちの一人が行方不明になっている、とは当然伝えなかった。なぜなら私は奨学金の申請内容を裏取りするために秘密裏に調査をしている、日本学生支援機構の橘という者だからだ。
「父・弘明氏のお勤め先はご存じでしょうか?」
「えーっと、どこだったかしら」神木夫人は首を傾けた。「私はお付き合いが少ないですけど、町内会の高野さんのとこが、確か伊藤さんとこの旦那さんと同じ会社らしいのよ」
「その高野さんは今どちらに?」
「ご自宅じゃないかしら。向こう行ってすぐよ。電話して確かめましょうか?」
「お願いします」と頭を下げた。
「ちょっと待っててください」と神木夫人は一度玄関ドアを閉めた。そして暫くして、スマホを耳につけながら戻ってきた。
「今、マイナンバーカードのあれこれで市役所にいるんだって。ここから歩いて十分ほどね」
会って話を聞く以外の選択肢はなかった。
「でしたら、日本学生支援機構の橘という人物がお話を伺いたい旨をお伝えしていただけませんか?」
「分かりました。もしもし・・・・・・」
隙を見て時刻を確認した。
十四時を回っていた。
「市役所の入口向かいに喫茶店があるから、そこに二十分後で大丈夫かしら?」
「はい、よろしくお願いします」
「丸坂百貨店の大きめの紙袋を持っているって。白と赤のストライプの」
「分かりました。ありがとうございます」
電話を切った神木夫人に、私は注意事項を説明して釘を刺すことにした。そうでもしないと身分を怪しまれてしまう。「これは事前調査ですので、是非ともご内密にお願いいたします」
今一度神木夫人に礼を述べてから、私は地図アプリを使って市役所へ歩いて向かった。
住宅地から二車線道路の大通りに出て、そのまま車の流れと並行に直進する。
時間にも余裕があったので、歩道の端に植えられた街路樹を眺めていった。足元の生垣にも手入れがされていて整えられていた。ポイ捨てされた空き缶などが散乱していることもない。
このあたりは、治安は悪くないようだ。
地図アプリによると、左手に市役所が近づいているという。左方向を見渡すと体育館のような建物が立ち並んでおり、そのうちの一つが市役所だった。すぐ近くに消防署もあった。
市役所入口前の交差点を渡ると、Claireという喫茶店があった。その入口横には黄褐色の看板があり、コーヒーをイメージさせるセピア調の色合いで、シックな雰囲気を演出していた。COFFEE and CAKEの下にOPENとCLOSEの時刻、TEA TIMEやLUNCH and DINNERの下にメニュー名と写真が載せられていた。どれも美味しそうで、廃れることのなさそうな心地よいオーラがあった。
入口のドアは木製で、縦に長いダークグレーのアルミハンドルが採用されていた。光沢があって上品だ。
それを引っ張って扉を開けると、ドア上部に設置されていた金ピカのベルが、チリンチリンと甲高い音を鳴らした。
入口横の看板、木製ドア、そしてベル。
全ての喫茶店で見かける必需品だ。
没個性的だが、これでいい。
店内は予想以上にレトロだった。カウンター席が十個弱あり、背を向ける形で二人席が数個、店の奥に四人席が壁に沿うように五つほどあった。
室内灯を反射する漆塗りのテーブル、クッションのついた長時間も座れる椅子。いずれも黒柿色で、ブラックコーヒーの味をゆったりと楽しみたくなる。
店内を見渡したところ、四人席の一つに四十代の女性が座っており、コーヒーを飲んでいるのが見えた。クリーム色に近い薄いベージュのニットのセットアップに、指先で摘まめるほど小さい高級なネックレスをしていた。テーブルの上に、指定されていた通り白と赤のストライプが入った紙袋を置いてある。
「失礼します。高野さんでしょうか?」
「はい、あなたが?」
「日本学生支援機構の橘と申します」
私は高野夫人に挨拶をした。名刺を渡して偽の身分を名乗り、許可を得た上で対面に座った。
何も注文しないのは考え物なので、店員を呼んでブラックコーヒーを注文した。
「神木さんから聞いたと思いますけど、うちの主人が伊藤さんとこのご主人と同じ会社なんです」
神木夫人から聞いていた内容を重ねて確認したところ、食い違いなどはないようだ。
嬉しいことだ。
聞き込みをする中で証言が矛盾するなど、私は何度も経験している。
高野夫人が言うには、時谷総合商事に勤めているそうだ。伊藤弘明は神木夫人の夫の上司にあたるという。
業務内容について質問してみたが、具体的なことを高野夫人は知らないようだった。さして意外でもないので、私は面舵を切った。
「麻衣さんと亜由美さんのことはご存じですか?」
「娘さん二人ね。できた娘さんって聞いています」
「どうも伊藤夫人は教育熱心らしくて」
「そうね。あそこは旦那さんも奥さんもそんな感じですね」
今のところ、伊藤家の父親像があまり分かっていない。伊藤弘明という人物は、父親としてどういう人間だったのだろうか。
麻衣の失踪に、何らかの関連があるのだろうか。
「弘明氏とは面識がありますか?」
「私自身はあまり。地域で偶然会った時なんかはご挨拶もするんですけど」
「弘明氏はどういう人なんでしょうか?」
「奥さんとはちょっと違うけど、でも厳格な感じの人よ。『満面の笑み』なんて想像もできないような仏頂面の人で」
高野夫人の口調は批判めいたものではなかった。事実を淡々と述べるように、伊藤弘明の人物像を語っていた。
伊藤家の両親は、なかなかの人物だったようだ。
直接会った伊藤夫人も、顔も分からない伊藤弘明も、伊藤麻衣が行方不明である現状を考えると、その責任を投げつけたくもなる。
「奨学金関連でそういうことも調べるんですね」
高野夫人がティーカップに口を付けた。
若干、踏み込み過ぎたようだ。疑われてあれこれ照会を掛けられると面倒なことになる。
「そうですね。金額が金額だけに審査が厳しいんです。申請内容が全てフェイク、なんていう事案もあったほどで」
私は笑みを浮かべた。そして誤魔化すように、コーヒーをがぶりと飲んだ。
高野夫人が秘密主義でない主婦で助かった。悪口でキャッキャと盛り上がるタイプではなさそうだ。下世話な噂話に興じるというよりは、事実ベースであたかも情報交換をするような気質だった。
「そういえば、どこまで本当かは分からないんだけど、伊藤さんとこのご主人の昔の話、聞いたかしら?」
「弘明氏の昔の話?どういうものですか?」
「もう十年ぐらい前の話なんですけど、今でいうロジハラっていうのがあったらしくて」
「ロジハラ、ですか」
ロジック・ハラスメント。論理的に指摘をし続けて追い詰めるハラスメントの一種だ。厳格なタイプと聞いていたので、確かに起こり得るトラブルではあると思えた。
「後輩社員を退職させたって話ですよ。あれこれ指摘して相手を追い詰めて」
私の中で、伊藤弘明という父親の人間性を表すパズルが埋まっていく。未確定要素があまりに多いが、推理の参考にはなるものだ。
「でも話に尾ひれがついているだけかも」
「その退職した人物の名前や連絡先などは分かりますか?」
「うーん、確かうちの主人と同じ大学出身って言っていたので、主人に聞けば分かるかもしれませんけど、私はちょっと」
ここで引くわけにはいかない。
伊藤麻衣の失踪に両親が直接的であれ間接的であれ関与しているのであれば、伊藤麻衣同様、徹底的に調べなければならない。
「でしたら、ご主人からもお話を聞かせていただけないでしょうか」私はコーヒーカップを置いて身を乗り出した。「先ほどお渡しした名刺に連絡先がありますので。私はいくらでも都合をつけられますので、日時も場所もご主人にお任せします」
高野夫人にマッチングを頼んだ。
一旦自宅に持ち帰り、改めて話を通してくれることになった。
高野夫人の分まで会計をし、私は逃げるように喫茶店を出た。入店する時と全く同じベルの音がした。
私の身元はバレていないようだ。
怪しんでいる様子もない。
時刻は十五時を回っていた。少し傾いた太陽が街路樹の影を少しずつ伸ばしていく。暑くもないし、寒くもなかった。
やるべきことはやった。吉田有香と大津亮子の時と違って、聞き込みの相手に追及すべき違和感を覚えることもなかった。
大通りを歩いて最寄り駅まで行き、そこから電車に乗ってW駅を目指した。言うまでもなく、早應キャンパスに戻るためだ。
電車内で「伊藤和子の経歴について具体的に調べて」と中原奏にメッセージを送った。車窓から太陽光が顔面に直撃していて、ひどく入力し辛かった。
今までとこれからについて考える。
娘の麻衣を探してほしい、という依頼をしに来た伊藤和子は教育ママで、夫の弘明も論理的で厳格なタイプなのだそうだ。その二人の娘である麻衣は東都大学の受験に失敗したものの、早應大学の法学部に在籍している。
どういうわけか、この麻衣が失踪した。
「勉強合宿に行く」と告げたそうだが、どこまでが本当なのかが分からない。今のところ勉強合宿の調べはついていないが、調査しきれていないだけの可能性もある。
当然、麻衣が嘘をついた可能性もある。
伊藤麻衣と親しい間柄だった後輩、吉田有香と大津亮子のことを考えれば、後者の方があり得そうだ。
また、麻衣には高校生の妹がいて、亜由美という名前だ。勉強ができると聞いた。
そういえば、と私は思い出した。
伊藤夫人は「麻衣は大学受験に何度も失敗するし、ただ亜由美は亜由美で勉強はできるんですけど変な問題を抱えているし」と言っていた。教育熱心極まれりといった発言だと感じられるものだ。
ここでいう「変な問題」とは、一体何のことなのだろうか。
伊藤麻衣が行方不明になっている今、全てがリンクして考えられる。話を聞いた相手の中には嘘つきもいて、偽の情報も混ざっているに違いない。
どうやら、伊藤家の全てについて調べなければならないみたいだ。
キャンパスで会った吉田有香と大津亮子の二人も気になるところだ。いつ攻めるべきかをまだ決めていないが、二人から紹介してもらった溝口愛という人物にも注意をしなければならない。これから会う相手だ。
伊藤麻衣が行方不明になった。名門私立大学に通う人だ。母親は教育熱心なタイプで、父親は厳格な人。妹にも「変な問題」があったという。
伊藤麻衣自身は大学受験に二度失敗し、結局滑り止めの大学に進学した。周りより二年遅れていたそうだ。
行方不明の伊藤麻衣。
自らいなくなったのか。
それとも連れ去られたのか。
今も何かを企んでいるのか。
それとも助けを求めているのか。
ただ、ここで吉田有香と大津亮子との接触で抱いた違和感を解決するような仮説を立てると、伊藤麻衣は自ら失踪したのではないかと思われる。
吉田と大津がアレなら、それはつまり伊藤麻衣は、となる。
しかし仮にそうだとしても、ワイダニット、どうしてそんなことをしたのだろうか。
嫌なことがあっての単純な家出なら、吉田と大津の二人の違和感を説明できないことになってしまう。いや、説明できるのだが、どうも納得がいかなくなる。
伊藤麻衣は、何か大きなことを企んでいるのでは。
吉田と大津は、その全容を知っているかもしれないし、知らないかもしれない。
論理で可能性のあるケースを列挙し、思考と直感で仮説を絞り込んでいく。未だ全体図は見えないが、背後に伊藤麻衣が糸を引いている点は間違いないのでは。
それともこれは、大規模であってほしい、という私の願望が見せる幻影か。
平日の夕方前で、電車内が混雑していないのは助かった。ただでさえ電車内は吊り革に頭をぶつけやすく、騒音に苦しめられるストレスフルな空間なのだ。
これから日が傾いて暗くなり、人口密度が著しく高くなっていくことだろう。私は意味もないのに乗り換えに急ぎ、電車内でもソワソワした。満員電車は心底苦手だ。
早應キャンパスに到着したのは十六時前だった。約束は十七時、一時間の猶予があった。
ということで、キャンパス内を歩いて回ることにした。十六号館にしか入っていないので、様々な建物に入って行こう。まさか、逮捕されたりはしないだろう。
最初に入ったのは、正門から近くにあった三号館だった。十六号館よりも見るからに新しく、スタイリッシュな外観をしていた。建物の中も比べ物にならないほどで、リノリウムの廊下ではなくネイビーのフロアマットが敷き詰められていた。まるで新設された映画館のように美しかった。どこに目を向けても旧弊的な要素が見当たらず、このキャンパスで最も綺麗な号館といっても過言ではないように思われた。
これ以上があるのだろうか。
見回してみると、フロア端に設置されたエレベーターは使用を控えており、中央を貫くエスカレーターに乗る人が多いようだ。
エスカレーターに乗って上を見上げると、先々まで見通すことができた。一体、何階建てなのだろうか。
複合商業施設のようなエスカレーターで、降りている人たちと頻繁にすれ違った。誰も彼もが優秀そうに見えるが、存外キャピキャピしている女子大生が多い印象だった。大声で話している男子グループもいて、心が晴れていくようだった。
彼ら彼女らが社会人となって、様々な世界を経験していく。せめて、惨憺たる事件に巻き込まれることなく、納得のいく人生を送って欲しい、と老婆心から祈った。
二階三階と上がって行き、そのフロアをグルグルと回ってみたが、どうやら授業用の教室しかないようだ。五階で止めて、エスカレーターを今度は降りていった。
一階にはコンビニも出店していたため、そこに入ってお茶を一本購入した。コンビニに出てすぐには革張りのソファが複数設置されていて、ゴミ箱も傍にあった。
なかなか充実しているようだ。
コマが空いているのだろうか、女子大生二人組が一つのソファに座っている。二人ともスマホをいじっていて、時折画面を見せ合ったりしていた。
私は優しく声を掛けた。「すみません。法学部のキャンパスはどこにありますか?」
「法学部ですか?」一人が聞いた。
もう一人は「多分、向こうですよ。西門の方」と答えてくれた。
「ここのエントランスから出て一旦右に行くと十字路に出るんです。中央に銅像があって。そこで左に進むと法学部のキャンパスですよ。何号館かは知らないですけど」
私は二人に礼を言って背を向けた。そそくさと三号館を後にしようとしたところ、二人がヒソヒソと「カッコいい人だったね」「イケメンだった。大学院の人かな」と話し合うのが聞こえた。
悪い気はしなかった。
三号館から出て、言われた通りの道を進んだ。どうやら八号館が法学部の施設らしい。
伊藤麻衣は法学部の人間だった。
私が今、八号館を見上げているのと同じように、彼女も何かしらの考えを抱きながら、ここの建物を見上げていたのだろうか。
第一希望に三回とも敗れ、ここの建物に通うことになった伊藤麻衣。
彼女の心中はいかほどだったろうか。