第一章③
不吉な未来が見えた。
私が警察に通報して、警察官が駆け付ける。警察官は早坂のペースに呑まれ、そして私があれこれと詮索される側に回る。
言うまでもなく、警察と距離を置きたいと私が思っていることを早坂は知る由もないだろう。
それにしても、何とも痛いところを突いてくる。
「いいじゃないですか、今話題の『街外れの探偵屋』が美人秘書を雇っても、何の不思議もありません」
「弟子だの助手だの秘書だの、君は一体何者なんだ?」
「身分は明かしましたし、もっと知りたいことがあるならどうぞ聞いてください。セクハラは駄目ですけどね」
自己申告など何一つ信用できないので、質問するのはやめておいた。
彼女が私の事務所に眠る秘密を明かそうとしている産業スパイの可能性は、想像するに限りなく低い。
前職でいくつか知的犯罪絡みの事件を扱ったのだが、産業スパイは誰よりも目立たないのだ。
こんな正々堂々と押しかけてくるスパイがいてたまるか。
早坂を追い払うことはできなさそうだ。
かといって彼女を雇うつもりなど毛頭ない。
どうして彼女を雇わないのか。
決まっている。
アポ無しに突撃してきた人間を雇うわけないからだ。ここは人手不足に喘ぐ飲食店でもない。
「それはさておき、このプレート、結構オシャレですね」
早坂は玄関横の真鍮プレートを指差した。
「『街外れの探偵屋』って。一行下の英語は何て書いてあるんですか?」
私は溜息を吐いた。
雇うか雇わないかの話をしていたのに、論点がズレてしまっている。
「筆記体も読めないのか」と悪態をついた。
「読めないですよ。読める人の方が少ないでしょ。もしかして、アメリカ出身?」
私は無視した。「たった三単語だけなのに。素晴らしい英語教育を受けてきたんだな」と皮肉で返した。
不遜な態度を取ることで不興を買うことができれば、と期待した。こんなところで働きたくない、と思ってくれれば万々歳だ。
が、全くの無意味なようだ。
早坂は少し残念そうな顔をしたものの「あ、もう十時ですよ。依頼人が来ちゃいます」と私を急かした。
「依頼人が来ちゃうので、今すぐどっか行って欲しいんだが」
「無理です。はい、私がお茶を淹れますから。そうしないと『都築所長に朝っぱらから全裸で捨てられた女』をここで演じますからね、依頼人の前で」
早坂は胸の前で両手をクロスさせた。上目遣いで睨んでくる。まるで私が彼女の胸を覗き見ていたかのような防御策で、もう溜息しか出なかった。
「試用期間です。私の力量が論外だったら是非ともクビにしてください。その時は諦めますから」早坂の声量がだんだんと上がっていった。「ただ試されてもいないのに断られるなら、絶対に諦めませんよ」
力量を試す。
確かに早坂の洞察力には素人とは思えない何かがあり、一般人よりも勘が鋭い点は私も認めていた。本当に探偵としての才能があるのかもしれない。
これから先、早坂が私にもたらす災厄を想像する。
産業スパイでないとすれば、ではどうして「街外れの探偵屋」で働こうとしているのか。あるいは私個人に関係しているのか。
例えば、これから数か月後にどこぞの富豪が「街外れの探偵屋」に相談を持ち掛ける噂を彼女が聞き、弱みを握るつもりでここにやってきた、とか。
例えば、彼女には生き別れた姉妹がいて、その人物が「街外れの探偵屋」と繋がりがある、とか。
しかし、価値のある情報を握りたいのであれば、やはりもっと自然に潜入するに違いないのだ。正面衝突などの面倒事は避けるはずだ。騒動に発展したら、自らの素性を怪しまれかねないからだ。
ところが、彼女の振る舞いや立ち方はどこをどう切り抜いてもワガママな女子大生のそれだし、訓練を受けてきたようなオーラもない。
ここで面倒事を起こされるよりも前にひとまず雇用を認める。何かトラブルを持ち込みそうだったら、私が誰よりも早く察知すればいい。
それで済むことだ。
私はそれほど愚鈍ではない。
「私を雇うつもりになりましたか?」
言い負かされたかのようで癪だったが、認めるしかなさそうだった。それに、雇ったところで行動の全てを一緒にしなければならないということでもない。
「雑用アルバイトとして、だな。はっきり言って君の能力を認めていないし、単なる雑用係以外の何物でもないことを忘れるなよ」
「やったー、はい雑用でも何でもこなしますよ」
玄関のドアノブに手を掛けると、早坂が真後ろに立つ気配がした。まるで、私がスルリと入り込んで勢いよく扉を閉めることを警戒しているかのような。
警戒心も強いようだ。
閉め出したところで大騒ぎするのだから、もうどうにでもなれ状態だった。
私は怒鳴ったり暴力を振るったりするタイプではないので、つくづく甘いと自分でも思ってしまう。
「いやぁ、中も綺麗ですね」
玄関に入ると右手に階段、目の前に廊下が奥へ伸びている。床やドアは茶色に統一していて、木や大地を思い起こさせる。精神的にリラックスできるデザインにしているのだ。
早坂は私の後ろから室内を覗いていた。
「掃除を週一でしているからな。君は必要ない」
「またそんなことを言って、って、あれ」
玄関右手の階段を、早坂は覗き込むようにして見上げた。まるで何かを見つけたかのように、ちょこまかと動いた。
「はー、二階に住んでいるんですか?」
「何故そう思う?」
「だってほら」と早坂は階段上を指差した。「あそこに沓脱があるから」
私は答え合わせをする代わりに「一つ聞いていいか?」と質問した。
「はい、何なりと。猥褻なのはダメですが」
早坂の軽口を無視して、私は単刀直入に聞いた。「どこかで会ったことあるか?」
それは、早坂の顔を直視して漠然と感じていたことだった。
どこかで会ったか、誰かに似ているかのどちらかだ。
人の顔も名前も覚えるのが得意な私だが、コンピューターほど正確ではない。
大きな目に長い睫毛、整った鼻筋に桜色の唇。「可愛い」「綺麗」という形容詞が当てはまる造形をしていて、そのうちの何かが私の記憶に引っ掛かるのだ。
早坂に対して微かに覚えている親近感も、それが友情など長い付き合いからくるものではないものの、どこかからやってきているような気がしてならなかった。
しかし、早坂に対して思う「何か」が何なのか、私にはまるで分らなかった。
「偶然ですね」
「偶然?何がだ?」
意味が分からなかった。
「いや、なんていうか、それって古い口説き文句ですよ。都築所長は運命的な出会いの演出を目論んでいるんですね」
それは「偶然」と何の関係もない説明だった。文脈に合っていない返答だ。
が、深堀りすると「雇った途端にナンパですか?」と眉を顰められそうだった。
早坂は私を追い抜いて通路を進んでいった。階段を通り抜ければ左右にお手洗いや洗面所、物置などがあり、そしてその奥が本格的な来客スペースとなっているのだ。
早坂は勝手にその先へ、ノックもしないで入っていった。
図々しいにもほどがある。
私も慌てて後を追いかけた。
「あまりウロチョロするな。やはりスパイか」
「またそうやって脱がせる口実を作ろうとして」
早坂は溜息を吐いて、部屋の中を見渡した。
来客スペースに入ってすぐのところにソファが二つ、向かい合うように置いてあり、長いテーブルを挟んでいる。その奥には所長席、つまり私の定位置があり、背後にキャビネット等が壁に設置されている。
ソファ横で壁を覆うスチールラック本棚の中身を見て回る早坂を無視して、所長席について引き出しのパスコードをプッシュした。開錠して平たい引き出しから薄いノートパソコンを机に置いた。
これから依頼人が来るので、いつも通り再生リストから音楽を流すのだ。一階の来客スペースの壁端にスピーカーがあり、クラシック音楽を流せばまるでクリニックの待合室かのように落ち着いた雰囲気になるのだ。
ピアノ曲が流れた途端に、早坂は驚いたように背筋をピンと伸ばして声を発した。「あ、『ジムノペディ』だ」
「知っているのか?」私は思わず聞いた。
「勿論、私は良家の娘ですからね。エリック・サティは良いですね」
「特に『ジムノペディ』は傑作だな。聞いたところによると、音楽療法としてこの曲を採用する精神科医もいるとか」
「確かに、一種のヒーリング効果もありそうですね」口喧嘩をしていたのが嘘のように、話が盛り上がってきた。「トリビアを聞かせましょうか?」
「トリビア?どんなのだ?」
「エリック・サティを日本に持ち込んだ人が複数いましてね、そのうちの一人は早坂文雄っていうんです。まさかの同じ苗字っ」
「血縁があるんじゃないのか?」
「どうでしょうね。あったとしても物凄く遠いでしょうけど」
不可抗力的にも会話が弾んでしまった。
が、少しだけ楽しかった。
やはり趣味の話ができるというのは嬉しいものだ。
「さて、都築所長は現役の女子大生をアルバイトで雇ったわけですが、して欲しいことはありますか?」
話を切り替えるように早坂が言った。ヒーリング効果が薄れ、私は現実に戻された。
「まぁ、君にできることはないな。本音を言えば、今すぐにでも不法侵入で通報したいぐらいだし」
「全くもう。じゃあ掃除でもしますよ」
「必要ない。お掃除ロボットもフルで稼働しているのでね」
私は潔癖症というわけではなかったが、それこそ誇張無しに週に一度、一階も二階も掃除をするようにしている。年末の大掃除ほど徹底的にやるわけではないのだが、去年「街外れの探偵屋」を開業してから、一度たりとも欠かしたことのないものだ。
「でもこれから依頼人が来るって言ってましたよね。そういう時は改めて掃除するべきなんですよ。直前だと埃が舞ったままになっちゃうので、本当なら数十分前にね」
何故こんな生娘に家事についてレクチャーとは名ばかりの説教を受けなければならないのだろうか。それも、無理やり押しかけてきやがった新人に、だ。
早坂は、忌諱に触れることを恐れない生意気な娘だ。許してしまう私にも責任はあるが、いつか痛い目を見そうな気がする。
「依頼人の方が来るのは何時ですか?」
さも当然かのように質問してきたので、私はもううんざりとばかりに答えた。
「一応十時過ぎということになっている」
「じゃあ今すぐしましょう。本棚のところに埃とかが溜まってると幻滅しちゃいますよ」
埃など溜まっていないのだが。
早坂は良家の娘だと自称していた。それは私のプロファイリングの結果とも適合するのだが、そんな令嬢が掃除のあれこれについて言うのは珍しい気がした。
「良家の人間は家事も一級レベルなんだな」私は早坂に言った。
「それはもう。花嫁修業は終えていますから」
雑用さえも厭わないわけだ。
私は音楽を止めた。そして所長席の背後のキャビネットから、ハンディタイプの小型掃除機を渡した。
「君にあれこれ言われるよりは、掃除機の騒音の方がマシだ」
「あら、これが初仕事ですね。任せてください」
そうして早坂はスチールラック本棚の上段からテキパキと掃除機を掛けていった。
高い位置からオフィスの隅々まで、スイスイと進めていく。
掃除機の喧しい吸引音を聞きながら、私は来客スペースから廊下に出て物置へ行き、ビニール袋を被せていた扇風機を来客スペースへ持っていった。
依頼人と向き合うためのソファのすぐ横の壁に、本棚と本棚との隙間が十二インチほど空いている。埃が溜まりやすくなってしまっているが、いかんせんここにダブルのコンセントがあるのだ。
二口あるうちの一つに、扇風機の電源コードを繋げた。
「これから六月ってのに扇風機ですか?」
一通り掃除機を掛けた早坂は電源ボタンを押してから質問してきた。
「地球温暖化をバカにしてはいけない。エアコンをつけるまではないが、必要だと思った時に扇風機がすぐ傍にあれば助かる」
私は所長席について、スマホを操作した。セキュリティが特に高いと言われているメッセンジャーアプリのテレグラムを開き、「街外れの探偵屋」のグループチャットを開いた。ここは依頼内容や調査結果を従業員たちと共有するための場だ。
私はコンピューターの天才である中原奏をメンションしてメッセージを送った。
「慶稲大学理工学部数理科学科三年の早坂紅葉という人物について、素性を簡易的にでも調べてほしい。可能なら学生証の画像データも」
中原奏は「街外れの探偵屋」の女性従業員で、テクノロジー系のスペシャリストである。
我々は警察とは違うので表立って捜査をすることはできず、強制力も持っていない。記者になりすまして取材費を渡すという手法も採ることも警察官に成りすますこともあるが、基本的な情報をインターネットから抜き取る方が合理的なケースが多い。
そんな時、私はいつも中原を頼るようにしている。ネットを活用した情報収集なら、間違いなく彼女だ。
ちなみに「街外れの探偵屋」ホームページを作成してくれたのも運営しているのも中原である。依頼予約もアポも何から何まで、スクリーンを介する行為には彼女が関わり、分かりやすくまとめてくれているのだ。
「街外れの探偵屋」ホームページは、厳めしいモノクロのデザインで、親近感はあまり湧かないテイストになっている。どことなくレンブラント・ファン・レインの『三本の木』に似た雰囲気だが、これは意図的に模倣しているものだ。
サイト訪問者にとっては、少し圧力があるかもしれない。が、探偵業なのだからこれはこれで問題ないだろう。訳の分からないヒッピー的なホームページだったら、誰がその探偵に依頼を出すだろうか。
当然、私はタレント気取りでもないので、所長である私の写真なども掲載しないことにしている。これは、そこら辺の弁護士事務所などとは違う点だ。一応、目立つ箇所に「所長・都築翔太郎からのご挨拶」を載せているが、従業員の名前さえも記載していないのだ。
私はふと顔を上げた。
早坂紅葉と中原奏。
陽気な早坂に対して、中原は大人な女性で落ち着いており、性格は真逆に思える。
早坂は二十一歳で、中原は二十五歳だ。
早坂はベージュブラウンのセミロングを下ろしていて、中原は黒髪のポニーテールだ。背も、中原の方が大きい。
しかし、私に対して小生意気である点に着目すれば、存外二人は似たり寄ったりなのかもしれない。
とりわけ中原は、私のことをあれこれ知っている可能性が高い。
勿論私から話したわけではない。が、彼女ほどの技術者なら、私の経歴も納税記録も年単位で徹底的に調べることは、造作もないことだろう。
早坂が中原と会ってしまったら、どんな化学反応が起こるのだろうか。
なるべく仲良くして欲しくない、と心から思った。
所長席のノートパソコンを操作して、改めてクラシック音楽を来客スペースに流した。
爽快な旋律がゆっくりと通り抜けていく。聞き流しているだけで、思わずうっとりしてしまうほどだ。上品なイギリス人が好みそうな気高い曲だ。
「良い曲だ。名曲なだけある」
「はい。『G線上のアリア』ですね」
「ピアノはどれくらい弾けるんだ?」
知識がある良家の令嬢ということで、一つ決めつけて聞いた。
「難易度の高い曲もできますよ」早坂は両手を挙げて、指をタラタラと揺らして空中でピアノを弾くフリをした。「ジュウノヨンって分かりますか?」
「ショパンだな」
十の四、フレデリック・ショパンのエチュードだ。英語圏ではtorrentで知られている。日本語に訳すとしたら「激流」といったところか。
「難曲もある程度は弾けます」
「コンクールに出たことはあるか?」
「小学生と中学生の時はハードに頑張っていましたね。高校生になってからは趣味程度になりましたけど」早坂は残念そうに顔を歪めた。「都築所長はどうですか?」
期待されるのも嫌なので、きっぱりと断言した。「全く弾けない」
「え、弾けないんですか?」
「弾けない人間の方が圧倒的に多いだろう。何の不思議でもない」
「なのに聴くんですね」
「弾けないからこそだよ。西洋絵画が好きだからといって絵を描けるわけではない」
「はー、なるほど」
早坂はちゃんと理解していなさそうだったが、一応の納得はしてくれた。
趣味の話だったら早坂は理解者なのかもしれない。認めたくはないが。
沈黙の中、暫く二人でピアノ曲を傾聴していた。太陽光が燦燦と降り注ぐテラスで紅茶でも飲みたくなった頃、ようやく外から車のタイヤが砂利道を進んでいく音が聞こえた。
「来ましたね」早坂は緊張に顔を引き締めた。
「そうだな」
余裕綽々の態度で、私は悠然と立ち上がった。あれだけ意気込んでいた早坂も、ただの新人だ。「街外れの探偵屋」所長の貫録を見せつけなければならない。
木製ブラインドを指でどかして、ちらりと窓の外を覗いた。
庭の端にある駐車スペースに、シルバーのミニバンが停まったところだった。
車種はベンツのVクラスだ。
私は無言で立ち上がって廊下へ出た。スーツジャケットの肩から腕を手で払いながら、玄関へ歩いて行った。
第一印象は大切だ。少なくとも清潔感に意識を払わなければならない。
早坂が後ろからトコトコとついて来たが、もう何も言わなかった。
その代わりに、今一度、彼女のアドバイスを私は反芻していた。
男女ペア。
今までは依頼人と私との一対一だった。私は威圧感を与えないように極力配慮していた。部屋の家具やドアの色調とデザインに気を配り、クラシック曲をサラサラと流すことでリラックス効果をもたらすというのも、そのための戦術だった。
もしかしたら、彼女の言う通り一対一よりもこの方が良いのかもしれない。
自分が探偵事務所でも弁護士事務所でもを伺ったとしたら、少なくとも一対一はどうしたって緊張感が増してしまう雰囲気になる。
第三者に提言されることで、客観的に考えることができた。
可能性があるのであれば、試してみるしかない。見ず知らずの人間に言いくるめられるというのは癪だが。
玄関の扉をゆっくりと開けると、庭の向こうにスマートキーを運転席に向けて施錠している女性の背中が見えた。
手つきから察するに、車を運転することに慣れていそうだ。
裕福ではあるものの、運転手を雇えるほどではない。ベンツのVクラスという車種もその証左だろう。
その女性は振り返って、姿勢を保ったまま私の方に歩いてきた。
私は頭を下げた。
距離にして四ヤードほど離れているところで、向こうもお辞儀をしてきた。
「十時過ぎに予約をしております、伊藤と申します」
私は予約フォームの記載内容をざっと思い返した。
伊藤和子、五十代、依頼内容は「人探し」ということだった。
具体的な内容は対面で聞くことにしているため、予約フォームでは大雑把な情報に留めるようにしている。電話番号も住所も不要で、メールアドレスで予約できるほどだ。対面に重きを置くことで、一流探偵事務所としての厳格さを演出していると言っていい。
冷めた目で、私はざっと相手の観察をした。
グレーのフレアワンピースにコーラルピンクのチェーンバッグ、そして黒のパンプスを履いている。背筋もピンと伸びていて、バレエダンサーのようだ。しかし体格はがっしりしているため、男役もできるかもしれない。力も並みの女性よりははるかに強そうだ。
しかしオーラは真逆のもので、夫人といった品の良い雰囲気が全身から出ていた。年齢よりは若く見られる、実際にはパートにも出たことのない専業主婦かなと予想した。
手先は荒れておらずケアされているので、細かいところに目の届くプロフェッショナルなタイプだ。
年相応の服装をすることで、相手に不快感を与えないよう配慮もされている。実家が太いか、ご主人が高収入か。
「お待ちしておりました、所長の都築です。さぁ、どうぞ中へ」
私が案内しようとすると、伊藤夫人は早坂に目をやって「あら、お手伝いさん?」と聞いた。
こういうタイプの人間は保守的な傾向にあり、男性と女性のペアを見ると、やはり男性を優位な立場にいると考えてしまうのだろう。
そうでなかったとしても、早坂は明らかに私よりも年下なので、致し方ないことではあった。それでも「探偵」ではなく「お手伝いさん」と表現するあたり、伊藤夫人の価値観というものを測り知ることができた。
ルールやマナーに厳格なタイプだ。
タメ口を交えるようなフレンドリーさは軽蔑対象か。であれば、発言に気を付けなければならない。
早坂も頭を軽く下げた。
「早坂と言います。助手をしています」
私は何も言わず、伊藤夫人を玄関から来客スペースまで案内した。玄関から廊下へ、そして来客スペースに入るまで、伊藤夫人は無言だった。
緊張しているのだろう。
リフォーム業者を呼んだわけでもないので、意外ではなかった。家賃に言及するのを避けるように、インテリアに言及するのを控えているみたいだ。あれこれ尋ねるのを無礼と捉える人間も多いものだ。
来客スペースに掛かっている音楽はショパンの『ノクターン』だった。しんみりとうら悲しげな曲調だ。
「こちらにどうぞ」と入口に近いソファを手で示してから、私は立ったまま「紅茶かコーヒーでもどうですか?美味しいのがあるんですよ」と朗らかに聞いた。
「じゃあ紅茶をお願いします」伊藤夫人はソファにゆっくりと腰を降ろした。
私の定位置である所長席に座って来客スペースを見渡した時、左手奥には縦に長い給湯室がある。ここはソファに座った依頼人には見えない位置にあるのだが、いつも掃除しているのでリフォームされたばかりのようにピカピカなのだ。
私が給湯室に入ると、当然のことのように早坂も入ってきた。手伝ってほしいなど一言も言っていないが、かといっても依頼人と二人きりはさすがに気まずいのだろうか。
私は木製のカップボードからティーカップを、そして上の戸棚から一つの袋を取り出した。
「あら、ロイヤルコペンハーゲン」パッケージを見て、早坂は声を漏らした。
「君は物知りだな」
「任せてください」
早坂が自信満々に言うので、彼女に紅茶の準備は任せた。
私はクッキーの用意をすることにした。
その時、私の脳内にピリッとした静電気が走った。
まさか紅茶に毒でも入れないだろうな。
有り得ないとは思うが、無防備でいられるわけではない。
私は早坂の準備する様に目をやった。
ここは早坂にとっては初めて入るはずの給湯室だが、慣れているのだろう、テキパキと動いて準備を進めていた。頻繁にグルグル室内を見回して、どこに何があるのかを瞬時に把握しているようだった。
テーブルの上にはステンレス製のやかん、ガラスポット、白のティーポット、茶葉、ティースプーン、茶漉しが並べられた。
早坂は浄水器の水ではなく水道水を使った。水道のレバーハンドルを強く押し上げて、やかんに水道水を勢いよく注いでいく。
分かっている人だ。
紅茶に合う水というのは、酸素を多く含む水だ。その代表格なのが、水道から勢いよく注いだ水である。酸素がたっぷり含まれていれば、紅茶の成分をより抽出するため、味が引き立つことになる。
やかんで沸騰させるとはいえ、一人分なので時間にして一瞬だ。早坂はやかんの蓋を外して沸騰具合を確認している。指の腹ほどの大きさの泡がブクブクと出ている状態が目安なのだ。
早坂は沸騰したお湯をガラスポットに、零さないように丁寧に注いだ。それをクルクルと回してからティーポットにお湯を移し、ティーポットに蓋をした。いずれも、容器を温めるためである。
次に早坂は、茶葉をガラスポットに入れた。一人分なのでティースプーン一杯だ。
沸騰している残りのお湯をガラスポットに今度は勢いよく注ぐ。振り回したスノードームのように、茶葉がグルグルとガラスポットの中で回転しているのが分かった。そして、蒸らすためにガラスポットの蓋をした。
不可思議な動きをすることなく、むしろ使用人として雇われてもおかしくないほど丁寧かつ素早い。
花嫁修業は終えている、と言っていたが、皇室にでも行くつもりか。
蒸らすのにニ、三分は掛かる。
私には私の仕事があるのだ。
いつまでも伊藤夫人を待たせるわけにはいかない。
私は大き目の平皿にレースペーパーを敷いて、デパートで購入したクッキーを互いに少し重なるように配置した。
本当なら紅茶と同時に出したかったが、そうはいかないようだ。待たせ続けるのは依頼人の不信感に繋がってしまう。例え紅茶の準備をすると告げていたとしても、数分時間がかかるなら声が掛けなければならない。
私は平皿を両手で持って、伊藤夫人の座るソファまで行った。
「すぐに紅茶もお持ちしますので、暫くお待ちください」と言って、皿を伊藤夫人前のテーブルに置いた。
「わざわざありがとうございます」と伊藤夫人は座ったまま頭を下げた。
一言声を掛けたので、もう大丈夫だろう。私は再び給湯室に戻った。
早坂はティーポットのお湯をシンクに捨てていた。そしてガラスポットの蓋を外して洗ったティースプーンでひと混ぜし、茶漉しを使ってティーポットに注いだ。最後の一滴まで注ぎ切るように忍耐強く待っていた。
「ゴールデンドロップか」私は声を掛けた。
「よくご存じですね」
「紅茶の味が最も凝縮されている、らしい」
「はい。これがあるのとないのとでは、味の引き締まりが段違いです」
早坂は目ざとくトレイを見つけて、その上にソーサー、コーヒーカップ、シュガースティック、マドラー、綺麗な布巾を順々に載せた。棚からミルクピッチャーを取り出して冷蔵庫の牛乳を中に注いでそれも載せた。
最後に、トレイ上の空いたスペースに、火傷しないように慎重にティーポットを置いた。
早坂は胸元までトレイを持ち上げて、伊藤夫人の前にサーブした。
一連の動きに、減点要素はなかった。
「アールグレイかしら?」と伊藤夫人が聞いてきた。
給湯室での私たちの会話が聞こえたのだろうか。だとしたらもっとピアノ曲の音量を上げておけばよかった、と後悔した。
「そうです、クッキーとよく合います」と早坂が答えた。
「美味しそう、是非頂くわ」
今のところ、伊藤夫人とのコンタクトに致命的なミスはないはずだ。丁寧なもてなしに伊藤夫人も顔を綻ばせている。
焦る必要もない。
時間ならいくらでも掛けられる。