第一章②
五月下旬、私が首吊り死体を発見してから一週間と少しが経っていた。
あれ以来も山歩きを自粛することなどなかった。首吊り死体の映像がフラッシュバックすることもない。いつも通りの日常が翌日から戻っていた。
「街外れの探偵屋」の二階の居住スペースである。私はベッドからのそのそと動いて、ベッドサイドテーブルに置いてあるスマホに手を伸ばして時刻を確認した。
朝の八時二分前だった。
あと二分が経つとアラームが鳴ってしまうので、二度寝をしないようにわざわざ起き上がってから、改めてアラームを切った。
アラームが鳴る直前に目を覚ますことが時折あるが、何か得をしたような気分になれる。
音で起こされるよりも自然に目を覚ます方が睡眠の質が高い、と聞いたことがある。太陽光で目を覚ますのも良いらしいが、生憎この部屋の窓にはカーテンを掛けたままだ。
ベッド下のスリッパを履いて、自室から出て、隣にある洗面所に入った。自室と洗面所は繋がっていないので、わざわざ廊下に出る必要があるのだ。
白いタイルの洗面所で、ドアを隔てた浴室と繋がっている。ひとまずうがいをして顔を洗った。シャワーを浴びるのは朝食を食べてからにしているのだ。
横にあるステンレスのタオルラックから真っ白のタオルを手に取って顔を拭いた。毎度のこと、生き返るような感覚があった。
真っ白な洗面台の両端を手で掴んで、乗り出すような姿勢で真正面を見た。
鏡に、見知った顔が映っていた。
三十歳で細身の男。短髪に整えてあり、睫毛が長い二重。身長は六フィートを超えているため、この洗面台も正面の鏡も、高さを調整してある。彫りが深く鼻が高いのは血のお陰か。
Hay que trabajar duro.
「街外れの探偵屋」の建物は別荘ではないのだが、二世帯住宅のように一階にも二階にもトイレやキッチンに冷蔵庫などがある。探偵事務所として使用しているのは一階だ。
気持ちの切り替えとして一階と二階の用途を区別しようとしているのだが、これがどうもうまくいかない。とりわけ、二階に仕事を持ち込むことが多かった。
反対に地下に足を運ぶことは滅多にない。地下室には非常用発電機と隠し部屋があるだけで、わざわざ行く機会がないのだ。そもそも地下への入口が分かりづらいところにあるのだ。しかし、念には念を入れて、その入口には鍵を掛けてあった。
今一度、自分の部屋に戻った。自室ドアはオートロックで、指紋認証をしたうえで八桁のパスコードを打ち込む必要がある。ドアを閉じても再入力が不要となる数秒の猶予を設けることもできるのだが、それすらも設定していない。万全を期す必要があるからだ。
これは、私の部屋には壁に埋め込んだ金庫があるためだ。その中に、地下室の鍵とUSBが眠っている。過去の依頼やその調査の内容、その他明らかにしてはならない様々なモノ・コトに繋がる二品なのだ。
防犯のため、窓にも見えない位置に突っ張り棒を強固に取り付け、年がら年中カーテンを掛けたままだ。
侵入はできないようにしてある。
まさかそれを狙う人物がいるとは思えないが、しかしこの地球上で生活している以上は、防犯に意識を向けなければならない。
全て、なくなりさえすれば意識する必要もなくなるのだが、わざわざ焼却処分をする理由もない。
ベッドサイドテーブルにスマホが放置されていた。それを手に取って部屋を出、廊下奥のダイニングキッチンへ行った。
朝食はトーストとコーヒーに決めている。このルーティーンは大学生の頃からあまり変えたことがない。トーストにはマヨネーズを掛けてハムとチーズを、コーヒーには砂糖もミルクも入れない。
朝食を抜くということは、私にとってありえない行為だ。
食事とはエネルギー摂取であり、これを怠って体を動かすのはガソリンを入れないで車を走らせるのと同じことだ。車を運転している時、私はチラチラとガソリンメーターを頻繁に確認するタイプだ。スマホの残バッテリーもたびたび気になる。
トーストを焼いている間、ブルーのラインが入った白のマグカップに熱々のインスタントコーヒーを淹れ、私はスマホのアプリケーションMETUBEを開いた。世界最大の動画投稿サイトだ。動画をアップロードすることなどないが、日常ニュースなどをこれで確認することも多い。
特に各国のテレビ局もMETUBEで公式アカウントを開設しており、様々な言語の様々なニュースを、検索すれば一瞬でかつ無料で視聴できるのは素晴らしい。
せっかく鍛えた言語力を無駄にしたくはないのだ。外国語学習の環境は恵まれていたというのに、それら全てを忘れてしまったら過去の努力が無駄になってしまう。勉強はし続けなければならない。といってもニュースで鍛えられるのはリスニング程度のものだが。
私は再生リストの「クラシック」を選択して、ランダム再生をタップした。音量を調整して、テーブル端にスマホを置いた。
ピアノの旋律に耳を傾ける。
再生リスト「クラシック」に入れている曲は、いずれもピアノ演奏である。
始めに流れたこの曲は、リムスキー・コルサコフの『熊蜂の飛行』だ。bumblebeeというのは何とも語感が良い。
ピアノの演奏をBGMに、私は優雅に朝食の時間を満喫した。
トーストを齧って、コーヒーに口を付ける。時折手を止めて背凭れに寄りかかり天井を眺める。
時間がゆっくりと流れていくように感じた。その時流れていた曲がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『エリーゼのために』だったのも大きかったのかもしれない。
慌ただしい朝は嫌いだ。
なるべくのんびり過ごしたい。
今日は十時過ぎから来客がある。
それまで、モーニングタイムを満喫しよう。
ブラックコーヒーを口に含んだ。適切な苦みが舌先からじわりと広がっていく。
喫茶店で飲むコーヒー、安物のコーヒー、高級なコーヒー。
私が感謝していることといえば、舌がうるさくない、ということだ。あれこれ難癖をつけるようなお嬢ちゃんではなく、ある程度の味が保証されていれば何でもその美味しさを楽しむことができる。
批判をすることは、自身の地位を高めることに繋がらない。大学生になってから自称ワイン通や自称ウィスキー通が増えるが、やっていることは見様見真似の文句だ。
「自分は分かっている」という主張。
私にとって、それに価値はなかった。
街に降りて買い出しをすることもあるが、激安スーパーの商品もコンビニ商品も、いずれにも私は素晴らしいと感心している。
幸せだ。
私は色んなものを受け入れることができる。
食事を終えて、使用した食器類をシンク底に置いた。シンク上水切りラックに置いてある直方体のスポンジと食器用洗剤の細長い容器を使って、ごしごしと洗った。
「街外れの探偵屋」一年目は食洗器を購入しようかと悩んだが、私はここに一人で暮らしているため、食器洗いに時間は掛からない。今のところ購入は見送っていた。
泡立ちがイマイチということで洗剤容器を手に取ってスポンジに向けて出そうとしたところ、中身が空になりかけていた。必死な私を嘲笑うかのように、液体と混ざってブクブクの気泡が出てきた。
CMか何かで見たことのある商品だが、なかなか満足していた。オレンジ色のパッケージに柑橘類のイラストが添えられている。そのデザイン通りにフルーツのような爽やかな香りが気に入っていた。
コンビニか薬局にでも寄って、洗剤を買わなければならない。洗濯洗剤やトイレ用洗剤は、残りはどれくらいだろうか。
そう頻繁に購入するものでもないので、まとめて購入したいと思った。しかし頻繁に買わないからこそ、忘れてしまいそうな気もした。
食器洗いを終えてから、曲を流しているスマホを持ったまま洗面所に行き、ひとまず歯を磨いた。アントニオ・ヴィヴァルディの『秋』が流れていた。
シャワーを浴びた。
コーヒーを飲んだうえでの朝シャワーで、目は完全に醒めた。
スマホのピアノ演奏を止めて、髪の毛を乾かした後、洗面所横の棚からカラーコンタクトを取り出して、両目に装着した。使用するようになったのは去年からだ。始めは装着するのに時間が掛かり何度も失敗したが、今では慣れたものだ。
着替えるために自室に戻った。クローゼットの扉を開いて、足元の収納ボックスからクルーネックの白Tシャツを取り出して着た。
ハンガーに掛かった服を吟味して、コーディネートはどうしようかと悩んだ。結局、紺のセットアップスーツを選んだ。
ジャケットの胸ポケットに隠しカメラ付きのボールペンを挿した。探偵の七つ道具と称して、スパイショップで購入した色々なものを私は持っているのだ。フラップポケットには黒の手帳を入れた。メモを取ることもあるからだ。ジャケットの内ポケットに名刺入れも忘れない。
クローゼット横の姿見で、今一度全身を確認した。汚れもゴミも無いが、ジャケットの肩の部分を癖のようにパッパッと手で払った。
身なりを整えて、私は一階に降りることにした。二階の階段部分には沓脱があり、シューズラックとマットもある。一階は土足OKなので、ここに住む私も分けるようにしているのだ。
黒の革靴を履いて、一階へ降りた。
一階の廊下奥には来客スペースがあり、ソファにテーブル、そして所長席がある。
所長席の椅子に座って両手を机に置いた。
来客スペースはスチールラック本棚に囲まれており、書類をまとめたファイル等が入れられている。勿論、機密書類は一切ない。
整理整頓された来客スペースを所長席に座って一望するのも、これまた気分がいい。
時刻が九時三十分になったところで、誰かが庭に入ってくる音がした。ザ、ザ、ザという砂を踏みしめる音で、自然の為すものではなかった。
私は今一度スマホを確認した。
今日は来客の予定がある。しかし、時間は十時過ぎからのはずだ。
三十分も前に来るとはなかなか考えにくい。それに、車の音などしなかった。歩いてきたのだろうか。
私は所長席から立ち上がって、相手に気付かれないように窓から庭を見た。来客スペースの窓には木製ブラインドがつけてあり、ウェンジ色のソファと調和している。
一人の女性が玄関にまで歩いて近づいているところだった。予定されている依頼者は五十代の女性だ。
歩いてきているのは十代か二十代くらいの若い女性だった。髪は肩に掛かる程度の長さだ。
何を食べたら五十代があんなに若く見えるのだろうか。世界中の女性から連絡が殺到するに違いない。
依頼者ではないなら、では誰なのだろうか。
その時、インターホンが建物全体に響き渡った。スピーカーを各所に設置しているのでどこにいても聞こえるようにしているのだが、急かされているようで微妙な気持ちになった。
相手は一体何者なんだ。
「街外れの探偵屋」にやってきた、謎の若い女性。
若い女性が予約もせずにうちに訪れる理由などない。仮に相談があったとしても、何の検索も掛けずにここに飛び入りでやってくることなど今までなかった。
普通、そういうものだ。
アポを必ず取る。
今までにない経験だ。依頼内容は多岐に渡って興味深いが、それ以外のパートで特殊なことが起こるとは。たとえ「道に迷った」と言われても、絶対に信用はしない。
私は来客スペースから出て、玄関へ行った。
一呼吸をして、扉を開けた。
目の前に、先ほどと同じ服装の女性が、少し驚いた表情で立っていた。扉を開けた勢いが、少し強かっただろうか。
その女性と目が合った。
何か思うところがあったが、それが何なのかは分からなかった。
私は気を取り直して「こんにちは」と声を掛けてから、彼女の全身を確認した。
背の丈は五フィート一インチほど、つまり百五十五センチあたりだろう。平均的な日本人女性よりは若干細い体格をしている。握力は二十前半といったところか。
紺のカットソーに紺ブレザーを肘元まで捲っており、小まめなハートモチーフのネックレスをしていた。丸みのある白のバレルパンツにベージュのショルダーバッグを片手に持っていて、靴は白のスニーカー、髪はセミロングのベージュブラウンで、女子大生と推定した。
反乱分子には見えない外見だが、あくまで外見評価に留まり、思想までは推し量れない。
その女性は少したじろいでから「あ、こんにちは」と言った。時間帯でいえば「おはようございます」かもしれないが、徹底されていないのは愛嬌だ。
「都築翔太郎さんですか?」
驚いたことに、彼女は私の名前を知っていた。いや、「街外れの探偵屋」と調べるだけで出てくるのだが、こんな若い女性が私のような探偵を必要としている理由が分からなかった。今まで、依頼者に年端も行かない女性はいなかった。ヨボヨボならいたが。
「そうですが、ご相談ですか?実はインターネットでの事前予約が必要なんです」
私はその女性に正直に告げた。
こればっかしは譲れない。アポ無しの依頼を受けるほどチャレンジ精神などないし、何よりも十時過ぎから依頼者がやってくるのだ。申し訳ないが、退散してもらわなければならない。
「いいえ、違います」
ぴしゃりと告げられた。その女性はバッグを持っていない方の手を前に出して振った。
依頼人ではないということか。
相談でなかったら、じゃあいよいよ何なのだろうか。この女性は間違いなく私の知人ではないし、名前も分からない。
従業員と関係のある人物だろうか。
今現在、「街外れの探偵屋」には私以外に二名の従業員がいる。色々とワケがあって拾うことになった二人だ。
非常に優秀な従業員たちだ。
二人は連絡をなおざりにするようなタイプではない。しかし、あの二人から何も言われていない。
つまり、警戒をしなければならないということだ。
外見に惑わされて人物評価を誤るほど私はボケていない。ハニートラップに引っかかるほど私は間抜けではない。
この女性に何かを話すというのは幾何かのリスクを伴うということだ。
秘密厳守、探偵として当たり前のことだ。
「私、大学生なんですけど」とその女性はバッグから財布を取り出し、一枚のカードを渡してきた。
あるいは私の指紋を奪うことが目的か、と疑い、私はそのカードに指の腹をべったりとつけることはしなかった。ペラペラの紙とは違うので、カードの端を挟み込むだけでどういうものか知ることができた。
クレジットカードと同じような厚みのカードに「慶稲大学学生証」と書いてあった。
日本に来てから大学の序列などを学んだが、確か私立の大学の中では早應大学に並ぶ最難関大学だったはずだ。日本では大学のパワーバランスが私立ではなく国立に傾いているらしいが、それにしても名門大学の人物であることに間違いはないのだろう。
学生証にもう一度目を落とした。学生証などそう頻繁に目にかかれるものではない。
慶稲大学学生証、学籍番号、交付回数、理工学部数理科学科と書いてある。
氏名には早坂紅葉とあり、フリガナで「はやさかくれは」と記載されていた。
勿論、聞いたことのない名前だ。聞いたことがあるのなら、これほど珍しい名前を忘れるはずがない。
二〇二〇年入学、つまり今現在、大学三年生か。
生年月日から計算すると、今は二十一歳だろう。
偽造カードには見えない精巧な作りだった。しかし、私は慶稲大学の学生証など一度も見たことがないのだ。本物を知らないので、この学生証が偽物か本物か識別することはできない。
つまり、私の警戒心は全く緩まなかった。鞄から突然ナイフを取り出しても対処できる。
とは思うものの、ここで「運転免許証と保険証とマイナンバーカードも」と提示を求めるのも大人気ない気がした。仮にそれら全てを提示されたところで尚も疑いは晴れないのだが、もしかしたら彼女は何か本当に悩みがあってここに来ているのかもしれないのだ。
事前予約さえしてくれれば、私は歓迎するつもりだった。
「早坂さんか。慶稲大学の学生さんが、一体何の御用で?」
彼女に聞いた。
「・・・・・・にして欲しいんです」
「ん、何て?」
難解な事案に対する専門的な説明を受けても、例えそれが母国語であったとしても、聞き取ることができない。同じように、私には彼女が何と言ったのかが分からなかった。
勿論、単語だけを見れば小学生も知っている程度の語彙なのだが、いかんせん初めて言われた言葉であり、そして全くの予想外であったこともあり、思わず聞き返してしまった。
「弟子にして欲しいんです」
私はその場で立ち尽くした。
弟子というのは、あれか。俗にいうdiscipleというやつか。で、誰が誰の弟子になりたいというのだろうか。
誰が、は確定だ。この早坂紅葉という清楚系の美人さんが、だ。
では、誰の弟子になるというのか。
彼女の他にいる人物といえば、もしかしたら私しかいないかもしれない。
もしも私の弟子になりたいというのなら、それはそれは、衝撃的なことだ。
私には許嫁などいないし、私には弟子などいない。
早坂なる女子大生は当然のことだとばかりに私の顔を見返していた。コンビニでチキンを注文するかのように当たり前の要求をしている、そんな表情だった。
私は無様にも、もう一度聞き返すことになった。
「えーっと、どういう意味だい?」
それから十分間というもの、「街外れの探偵屋」の玄関前で私と早坂の押し問答が続いていた。いや、蒟蒻問答の方が適切か。
「だから、アルバイトでもいいので雇ってくださいって言っているんですっ」
「だから、従業員は既に足りているから君の労働は必要ないと言っている」
早坂という人物は何とも頑固で「弟子になりたい」というワガママを、どんなことをしてでも実現させようとしていた。
対応するのが本当に面倒くさい。
私は時刻を確認した。
依頼人がそろそろ来てしまうのではないか、と不安だった。こんな場面を見られたらどうなってしまうのか。依頼する先の探偵が口論しているのを見て、頼もしいと思うはずがない。
「女子大生のアルバイト先として『探偵』って、一体何を考えているんだ?」
冷静に諭した。
「確かにレアかもしれないですけど、でもない話じゃないですよね」
「そもそもここをどう知ったんだ?」
繰り返しになるが、およそ女子大生に探偵業は身近だとは思えない。探偵が必要になるようなシチュエーションとは無縁な年齢のはずだ。
「今はSNSの時代です。去年に難事件をいくつも解決したとして『街外れの探偵屋』は密かに話題沸騰になっているんですよ」
「『密かに話題沸騰』って、それ矛盾していないか」
早坂の言っていることは的外れではない。現に、「街外れの探偵屋」ホームページのアクセス数も、信じられないほどに急増している。二年目ながら、依頼を選ぶことができるほどにはなった。
「とにかく、私にもできることがあるので、はい是非私を助手に」
「助手だか弟子だか、表現に揺れがあるな。で、今のところそういうのは受け付けていない」
改めて、早坂の容姿を観察した。
綺麗めで俗にいう清楚系といったタイプだ。爪にも派手なマニキュアを施しているわけでもない。髪で隠れているため完全に判別できないが、ピアスは一つも空いていないと思われる。セミロングのベージュブラウンも室内灯にあててようやく染めていることが分かりそうな、黒髪に近いものだった。
服装から判断してもブランドものを買い漁っているようには思えず、しかし身なりに気を遣っているのを考えると、今現在は実家に住みながら大学に通っていると思われる。しかも、なかなか裕福な出だろう。
バレルパンツの先から、細い氷柱のような白い足首が覗いていた。
「何ですか、そんなにジロジロ見て」
早坂は腕を組んだ。
驚いた。
相手には気付かれないようにプロファイリングをするのが常道なのだが、彼女はそれに気が付いたのだ。
私の目も鈍ってしまったということか。それとも、早坂は察しが良いのか。
「別に、身体にタトゥーなんて入れてませんよ」
早坂が身構えるように身体をよじった。性的な目で見られた時に恥じらいながら身体を守るような、そんな動きだった。
どういう勘違いをしているんだ。
「え、この場で脱いででも確認させろってことですか?」
「そんなことは一言も言っていないが」
「でもジロジロ見てたじゃないですか。えっと、都築所長は私の容姿に釘付け、と」
私は頭を抱えた。
早坂は、私の大学の同期に非常に似ている。彼女は医学部の人間で、様々なことを話し合ったのだが、いつもこういう態度だったのだ。明るい、といえばその通りなのだが、かき乱されるのは性に合わない。
面倒くさくて腹立たしい。だが、どことなく憎めない。信頼関係が築けていない状態でそうなるとは、一体どういうことだろうか。早坂のパーソナリティに依るものか、それとも何か他の要因があるのだろうか。
不思議なものだった。初対面で面倒事を持ち込んできたワガママ早坂を、しかし完全に敵対視しているわけでもなかった。
何故だろうか。私はその事実に驚いていた。
「なぁ、とにかくもう帰ってくれないか」
「これから依頼人でも来るんですか?さっきも時間を確認してたし」
どうやら観察眼はあるようだった。私の視線にも気付いたことだし、そのあたりはアンテナがしっかりしているのか。
手塩にかけて育てられたお嬢様、と甘く見ていると痛い目を見るかもしれない。
面倒な目には既に遭っているが。
「分かっているのなら、帰れ」
「そんなに無下にすることないじゃないですか。私の身体を視姦しておいて」
「表現に悪意しかないんだが」
「分かりました、脱ぎますよ。それでいいんでしょ。全くこれだから男子って・・・・・・」
「おい待て、迷惑だ」
私は溜息を吐いて視線を落とした。面倒くさい論法を採る人物だ。相手に迷惑を掛けることで自分の要求を通そうとするタイプだ。
どうやったら早坂を帰らせることができるだろうか。私には時間制限があり、こんなところで時間を潰している余裕はない。
「何で足元を見て、え、靴から脱げってことですか?」
「いい加減にしてくれないかな」
私は早坂の前に立ちふさがった。論理的な指摘をしてどれだけ有効か、自信はなかった。
「探偵業は人の秘密を扱う。つまり、この事務所に入る人間には、信頼が絶対不可欠ということだ。君が産業スパイでないとは言い切れないし、身辺調査も済んでいない人間を『はい雇います』と迎え入れるわけないだろう。この建物の中にどれほどの秘密があると思ってるんだ?」
「でも、そんなに重要な資料を放置してるわけないですよね。金庫にでも入っているなら安全じゃありませんか」
その通りだった。機密情報が入ったUSBと地下室への鍵は、オートロックの自室の、壁にある埋込式の金庫に入っている。
反対に言えば、その中身以外なら警察でも公安でも、あれこれ見られて全く問題ないようになっているのだ。
「私を雇うことにデメリットはないですし、メリットもありますよ」
「何だメリットって」と反射的に聞いてしまったが、聞かない方がよかった。相手の話に耳を傾けてしまうと、それは相手のペースに呑まれることになるからだ。
「『従業員はいる』って言ってましたけど、私の応対を都築所長がしている時点で『ここには都築翔太郎一人きり』ってことじゃないですか。嘘をついたのか、それとも本当に従業員はいるものの、わざわざこんな山の中にまで来ないでオンラインでやりとりをしているかのどっちかです」
その通りなので話さず「それで?」と促した。
まるで面接だ。早坂がどれだけの人物かを試すテストになっていた。
「依頼人の気持ちにもなってみてください。初めて訪れる探偵事務所は山の中にあるし、そこの所長と二人きりって状況ですよ。それって結構緊張します。依頼人が女性ならなおさらです」
それは有り得ない話ではなかった。
かといってそのためだけに女性従業員をわざわざここに来るよう指令するのもどうかと思い、気にしないようにしていたのだ。
「そこで私の出番です」
「どういうことだ?雑用でもするつもりか?」
「勿論。依頼人のお迎えもお茶の用意も、何から何まで私がやりますよ」
実家では両親かお手伝いさんに全てを任せて家事もしたことがないようなお嬢さんに見えるが、意気込みだけは立派なようだ。
「男性と女性のペアって結構便利なんです。二対一になったとしても相手に威圧感を与えないですし、傍から見ても自然ですしね」
確かに早坂の言っていることは的を射ていた。私一人で対応しても問題はないのだが、それは私の主観に過ぎない。悪い印象に繋がりかねないものは、排除しなければならないのは事実だ。
しかし、だからと言って見ず知らずの人間をその場で採用するわけがない。一次選考だけの職場は大抵ブラック。よく言われていることだ。
そう伝えたところ、早坂は意地悪そうな表情をした。
もう嫌な予感しかしない。
「でも私のことジロジロ見て、人間性の分析は済んでいるんでしょ。後はタトゥーのチェックですか、やだやだ」
私はもう一度時刻を確認した。十時になるまで、あと五分すらなかった。依頼人が来るのは十時過ぎの予定だが、それよりも前に来る可能性もある。
こんなところで押し問答をしている余裕はない。かといって早坂は一向に帰ろうとしない。
どうするべきか。
「ほら、来客があるんでしょ。お試しとばかりに私を雇ってください。試用期間でいいですよ、何なら無給でいいですわ」
「なぁ、待て。つまるところ君は一体何が目的なんだ?」
「目的ですか?」
「そう、あるんだろう?」
才色兼備の女子大生が突然探偵事務所にバイト応募をするはずがない。
「んー・・・・・・」
肘に手を当てて、早坂は考え込んだ。相手が答えないので、私は彼女の顔を見ていた。
「探偵の助手として働いてみたい、じゃダメなんですか?」
「ダメだな、何を考えているのかがさっぱり分からない。君が指名手配犯だったらどうするんだ」
「私に前科はありません。それに、ここの従業員は大いなる志でも持って働いているんですか?」
私はすぐに回答することができなかった。従業員の二名、彼と彼女がどういうことを考えているのかはまだ分からない。なんせ、去年出会ったばかりなのだ。
「色々気になることはあると思います。ただ少なくとも私は迷惑を掛けませんし、とにかく私を雇ってください」
「はっきり言おう」
私は人差し指を早坂に突き付けた。
「指差さないでください。失礼ですよ」
「私はこれから依頼人の応対をしなければならない。ので、どう考えても君は邪魔だ。ので、どう考えても追い払いたいと考えている」
「無理ですね。聞いてくれないならここで大騒ぎし続けますよ。どう考えても依頼人の方に迷惑が掛かりますし」
「はた迷惑だな、警察を呼ぶぞ」
「どうぞご自由に。何か悪いことをしているわけでもないですし」