表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/31

第二章⑦

渋谷駅を目指す早坂とは、K駅であっけなく解散した。

私はホーム内にある自動販売機で缶コーヒーを買い、ホームベンチに座った。ちびちびとコーヒーを飲み時折スマホをいじり、手持無沙汰に時間を潰していた。電車がやってきても、缶の中にコーヒーが残っていたので二本ほど見送ることになった。それでも、急いでいなかったので問題はなかった。

缶コーヒーを飲み終えてゴミ箱に空き缶を捨てた時、突然スマホが振動し出した。

手に取って、画面を確認する。

電話が掛かってきている。

覚えのない電話番号だ。

電話に出た。

「もしもし」

「私です。吉田有香です」

小説同好会の活動拠点である資材室のドアに、私に電話するよう吉田か大津に対してメッセージを残しておいた。それを読んだか、誰か他のメンバーが読んで吉田まで伝えたか。

中原から送られて来た音声データの内容を思い出す。私が吉田と大津を警戒している、ということに彼女ら二人は気付いていない。

ここで気付かせてはいけない。

敵には防御の構えを取らせずに、攻めの手を打つのだ。であれば、ピエロを演じることも私は厭わない。相手をあっと驚かせるために、一時的に後手に回ったっていいのだ。

「電話するようにってドアにあった、と友達が言ってたので」

「今、二人は一緒ですか?」

「はい、そうです」

吉田と大津は一緒にいるそうだ。カフェで談笑して、その後は一体どこで何をしていたのか。授業を受けていたか、それともただブラブラしていたのか。

「晩御飯をごちそうしますので、十九時から会えませんか?」

「いいですよ」

「今、どちらですか?」

「早應キャンパスの図書館にいます」

早應キャンパス近くには飲食店が乱立している。食べられない料理の方が少ない程だ。

「食べたいものってありますか?」

「えー、そうですね。私お寿司食べたい気分です」

ということで、吉田と大津と三人で、十九時に早應キャンパスの正門前で待ち合わせをすることにした。

怪しまれてはいない。

向こうは私に接近したいのだ。

むしろ、好都合である。

電話を切ってから、私はスマホで検索を掛けた。早應キャンパスの近くにあってお寿司を食べられるお店。最悪、回転寿司でもいいが、二人は納得しないかもしれない。

しかしさすが大学近辺とあって、一貫百円ほどの寿司屋がW駅の近くにあった。早速三名で予約をして、十九時から二人と会うことになった、と尾行係の井上と中原に伝えた。

頃合いを見計らって、私は新宿駅へ向かった。


電車のタイミングを意図的にずらし、そして歩くスピードを調整することで、夕方十八時丁度に時谷総合商事の本社ビル前に到着した。

白御影石の地面に十人も楽に通れそうな自動ドアのエントランス。ふと見上げても何階か数えることもできない、言うなれば一面ガラス張りの壁だ。新宿駅を最寄りとする本社ビルとして相応しい近代的な風格があった。

時間も時間なので、絶え間なくエントランスからスーツを着た人が出てくる。退勤の時だ。これから一緒に飲みに行くのか、複数でワチャワチャと笑いながら建物を去っていくグループもいた。

これから、高野秀則から話を聞くことになっている。約束は反対にあるコーヒーショップだが、エントランス横で立ったまま電話を掛けた。

催告するつもりはなかったが、向こうから電話口で謝られた。「すいません。今ようやく退勤して、これから下に降りていきます」

「私は白シャツに黒のセットアップスーツを着て、エントランスを出て左手に立っています」

それから数分待って、ようやくエントランスから出てきた四十代過ぎと思われる男性が笑みを浮かべながら話しかけてきた。

「橘さんでしょうか?」

「はい。高野さんですか?」

「そうです。お待たせして申し訳ありません」

「いえ、こちらこそ貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございます」

高野秀則は色艶のあるネイビーのスーツにブルーのシャツをノーネクタイで着ていた。四十代らしい外見だ。ブランド物の腕時計を左手にしている。スーツの光沢といい腕時計といい言葉遣いといい立ち振る舞いといい、総合商社のある程度の地位につけているのが分かる。

「立ったままなのも何ですし、向こうに行きましょう。美味しいんですよ」

促されて、本社ビル向かいのコーヒーショップ・エイハブスに入った。世界的なコーヒーチェーン店だ。言うまでもなく、店内は明るい茶色に暖色の内装だった。

私はブラックコーヒー、相手はエスプレッソを注文して、テーブル席に対面で座った。

「美味しいですね」

何度も飲んだことのある味だが、私は率直な感想を述べた。ここを指定してきた以上、味の感想を述べないわけにはいかない。

「おすすめなんですよ。本社ビルの近くにあるので、昼休憩なんかはみんなここに来るんです。これも福利厚生の一種ですね」

二人で笑った。

半分ほどコーヒーを飲んでから、私は名刺入れから「独立行政法人 日本学生支援機構 橘圭太」の名刺を取り出した。百八十度回転させて相手の前に差し出した。

「改めまして、日本学生支援機構の橘と申します。既にお聞きのこととは思いますが、現在奨学金の申請内容について財務調査を行っております」

「はい。うちの嫁からある程度は聞きました。伊藤さんのとこですよね」

「はい。伊藤弘明氏について調べを進めています」

既に高野夫人から根は回っているとはいえ、慎重を期する必要がある。のっけから伊藤弘明によるモラハラについてあれこれ聞き出すと「それ奨学金の申請と関係ありますか?」と疑問に持たれてしまう可能性もあるのだ。

私は抽象的な話から始めた。時谷総合商事のキャリア形成から、何十代でどれくらいの収入が見込めるのか、どのポジションでどの程度なのかをざっくばらんに、メモを取りながら聞いていった。

何一つ頭に入ってこないが、高野秀則は矜持を以てして答えてくれた。とりわけ、時谷総合商事の話から高野秀則個人の話に移行するにつれて熱が入っていった。

ある程度の成功を収めているサラリーマンには、話したがりの人が多い傾向にある。これは、調査を何年も続けてきた私なりの持論だ。

どういう道を歩んできたのか、どのようにして手柄を手中にしてきたのか、どういう意識で働いているのか、それを相手が喜びそうなリアクションを交えながらわざわざ聞き続けた。

楽しくはない。

退屈ではある。

まるでOB訪問かのようだった。私が就活生だ。何の役にも立たない情報をメモしていく。どうせ、家に帰ったら捨てるメモである。その辺のサラリーマンの生き方だのキャリア形成だのに私が抱く興味といえば、蟻に対する興味の程度と同じなのだ

それでも、私は笑みを絶やさずに聞き役に徹した。相手に聞き上手と思ってもらえるように。これからする質問にも的確に何の疑いも抱かずに答えてもらえるように。

高野秀則からすると、伊藤弘明は、部署は違えど上司にあたる人物だ。キャリアプランからそれとなく話を調節していき、いよいよ伊藤弘明をトピックにすることができた。

「伊藤さんはとにかく理論派ですね。無駄を省いて合理的に物事をぱっぱと進める感じです」

高野秀則なりの分析だったが、的を射ていると私も思った。

「十年ほど前には、今でいうロジハラ騒動があったそうですね」

「はい、そうです。金田くんですね。同じ中教(ちゅうきょう)大学出身ということもあって親しくしていたんですが」

中教大学は、早應大学や慶稲大学よりはワンランク下の私立大学の一つだ。そこの卒業生である金田玲治は、伊藤弘明からロジハラを受けて退職したと聞いている。

「ただ残念ながら、金田君の電話番号に連絡をしてみたんですけど、もう通じないんです」

「金田さんの再就職先などはご存じですか?」

「いいえ、知りません」

どうやら期待できないみたいだ。

しかし「街外れの探偵屋」には中原奏がいる。労働者名簿の保存期間が五年とはいえ、ネット上での人探しは彼女の十八番だ。彼女なら様々な手段を用いて見つけてくれるに違いない。

「しかし、橘さんも大変ですね。奨学金申請の調べの途中でこんなことになって」

変に誤魔化すと素性を怪しまれかねないので「これも仕事ですから」とほとほと困り果てた演技をし、調べることの意義を繰り返して強調した。「ですが奨学金は金額が金額ですので、どうしても調査が必要になるんです」

二人とも注文したドリンクを飲み終えた。空き容器を受け取って、私がまとめて捨てに行った。

「伊藤弘明さんは、今は海外に出張に行ってらっしゃるようですね?」外に出る際に聞いた。

夏前の夜らしい、羽織る何かを必要とする冷たい風が吹いていた。ビル風で強かったことも、その冷たさに関係しているかもしれなかった。

「え?伊藤さんがですか?」信じられないことを言われたかのように、高野秀則が驚いて振り返った。

冷たい夜の静寂には不釣り合いなリアクションだった。

「はい、そのように聞きましたが」身の危険を感じながら、私は善意の第三者よろしく告げた。

「誰からですか?」

どう考えても、何かがおかしかった。決定的にかみ合わない何かがあるみたいだ。

まずいかもしれない。

どういうことかを、どうにか相手に話してもらわなければならない。そして、私が知らない、という状態の不自然さを、うまくカバーしなければならないのだ。

「いやぁ、奥さん方の井戸端会議か何かですね。確かに信憑性はありませんが」

「いやいや、橘さん、全然違いますよ」

「違うんですか?」

調査の途中で食い違いか矛盾かがあったかのように演技をした。

早く、話せ。

「このことについて具体的に調べているんじゃないんですか?奨学金申請について調べていたらこの事件を知ったんじゃ?」

この事件?

何が何だか分からなかった。

ありありと思い出せる。私は伊藤夫人から「実は主人が今、海外に出張に行っておりまして」と言われているのだ。

そういえば、伊藤亜由美も父親の海外出張を知らなかったではないか。母親から「暫くは帰らない」とだけ言われた、という。

「海外出張どころじゃないですよ」

「どういうことですか?」

「伊藤弘明さんは、行方不明なんです」


新宿駅からW駅へ向かう。

橘という調査員が伊藤家の奨学金申請の調査をしている、と高野夫人から聞き、高野秀則はそれを伊藤弘明失踪に結び付けて考えていたそうだ。

つまり、奨学金申請をした伊藤家の父親が行方不明になっているため、そのことも調べなければならなくなった調査員、と私をみなしていたのだ。

鍛え上げられた弁論スキルがなかったら、高野秀則から「あなた、本当に奨学金申請の調査員なんですか?」と訝しまれただろう。

しかし、私は怪しまれないために取り繕ってどうにか窮地を脱することができた。

私も情報不足、そして相手も情報不足だったことが幸いした。何も知らない、ということがありがたいことに不自然には映らなかったのだ。

しかし、危なかった。

伊藤夫人を信頼していたわけではない。そんなわけない。むしろ信頼できない依頼主として、警戒感を持って調査をしてきたのだ。

ところが、伊藤弘明が海外出張に行っていることを信じ込んでしまっていた。

電車内でスマホを操作し、忘れないうちに中原奏に「金田玲治という人を見つけてほしい。十年ほど前に時谷総合商事に勤めていたらしい」とメッセージを送った。

W駅に降り立ち、歩きで早應キャンパスを目指す。時刻は十九時前だ。W駅から大学へ歩いていく大学生は全くおらず、大学近辺の飲食店が賑わいを見せ始めていた。路上に酔い潰れている者は幸いにしてまだいない。

その道中で考えた。

高野秀則から教えてもらったことだ。

どうやら今週の月曜日に伊藤弘明は無断欠勤をしたそうだ。今まで一度も起こったことのないことで、本人の携帯に連絡をしても繋がらないため、その日の昼過ぎに総務部から伊藤家に電話が行ったそうだ。

その電話に応対した伊藤夫人は「朝早くに出社していきましたけど」と伝えたそうだ。

そして今まで伊藤弘明の行方は分かっていない。

今日は木曜日だ。月曜日にいなくなってから四日目になる。二十歳を超えた人間が、連絡も入れずに家を離れる期間としては逸脱している。

伊藤夫人は総務部に対しては、伊藤弘明は朝早くに出社した、と告げた。

伊藤夫人は娘の亜由美に対しては、朝早くに出社して暫く帰らない、と告げた。

伊藤夫人は私に対しては、海外に出張している、と告げた。

この一貫性の欠如は、五歳児でも指摘できるだろう。むしろ感心するほどの嘘を重ねている。分析というマインドになっていなかったので、相手が嘘をついていると見破れなかったが。

こちらから質問をするだけで、どの程度かの嘘か見破ることはできる。相手の目の動き、手の動き、嘘をついている時に顕著となる違和を発見することは得意だ。私にはその能力がある。

が、相手から突然の自己申告があった場合、私は注意を払っていないことが多い。そのため、嘘を嘘だと見破れないことがあるのだ。丁度、今のように。

車道に対してあまりに狭い歩道を、向かってくる歩行者にぶつからないように気をつけながら歩いた。そういえば飲食店のみならず、不動産屋も多い。これも、大学周辺の特徴なのだろうか。

伊藤夫人の嘘を、再度分析する。

伊藤弘明は月曜日の朝早くにどこかへ行き、そして行方不明になった。伊藤夫人がこのことを正直に話さなかったのはなぜだろうか。背景には様々な事情があり、ひとえに羞恥心があったからだろうか。それとも、やはり話せない理由が存在していたか。

そして父親がいなくなった同日、伊藤麻衣は昼に「勉強合宿に行く」とだけ告げて、そして行方不明になった。

そして今日、木曜日まで二人の生死は不明。

ところが伊藤麻衣は意図的に姿を消し、裏で糸を操っているようだ。その点を考慮すれば、伊藤麻衣が「勉強合宿に行く」と言って失踪した、という伊藤夫人から教えてもらった内容に嘘はないと思われる。

伊藤弘明は人知れず行方不明になった。

伊藤麻衣は意図的に姿を晦ました。

伊藤麻衣が父親を殺害し、発覚を恐れて姿を消した?

いや、早計だ。

このあたり、表立って調べてみようか。伊藤夫人に直接尋ねるだけで済む。

しかし、質問をすることによって「依頼内容は麻衣の捜索でしたよね。どうして主人のことまで調べているんですか?」と反感を買ってしまう恐れもある。

始めから振り返る。

伊藤夫人は娘の捜索だけを依頼してきた。しかし、実際には娘のみならず父親もいなくなっていた。一家から行方不明者が二人も出ていたのだ。

盗み聞きした吉田と大津の会話からすると、娘は家出をしただけのようだ。しかし、そのことを伊藤夫人が知っているかどうかは分からない。

頭がこんがらがってきた。誰が何を知っていて、そしてどういう嘘が綯い交ぜになっているのだろうか。

それでも、私は確信していた。

何かがある。

これは、単なる人探しに終わるはずがない。

早應キャンパスの正門をくぐる前から、入ってすぐ横に大津と吉田が二人でいることに気が付いていた。二人は立ったまま談笑していた。

大津は黒のロングスカートに黒のサンダル、ライトブルーのブラウスを肘まで捲っていた。初対面時と同じく、大人らしい印象を与えた。

吉田はネイビーのフレアパンツにローファー、羽織ったGジャン全てのボタンを留めていた。首元からは白シャツの襟が覗いている。

「良い店を予約してあります。写真を見る限りはなかなか美味しそうだった」開口一番、二人に笑顔で言った。

「お寿司ですか?」と吉田が期待しながら聞いてきた。

「はい、そう伺いましたし。行きましょうか」

目指す先は歩いて十数分ほどにある寿司屋だ。イタリアンレストランで食事をしたのは昼過ぎだったが、歩き続けている私は充分に空腹感を抱えていた。

バス停を通り過ぎて真っすぐ行った。先ほどまでとは違って、歩道の幅が広かった。ので、私たちは横一線に歩いていた。

「それで、調査はどれぐらい進んでいますか?」大津が探りを入れてきた。吉田も「私も気になります」と乗ってきた。

「水曜日に始めて、今日で二日目ですから。分からないことが圧倒的に多いです」

捜査状況について質問された刑事のように私ははぐらかした。あれこれ探られるが、私は最後まで口を割らなかった。

情報を獲得するべきは私なのだ。

予約した寿司屋に到着し、大通りに面した入口から入って案内されるままにテーブル席まで行った。

回転寿司屋ではないものの、内装は大衆的な雰囲気で、タブレットで注文をするシステムだった。高級感ではなく清潔感のある庶民性を大切にしているのも、大学生にも門戸を広げているからだろう。大学近くに高級寿司屋があったとしても、実家が太い生徒と大学教授以外は誰も訪れない。

「好きなだけ食べてください。遠慮せずに」

死刑囚に最後の晩餐を振舞うつもりはなかった。私にとって大津と吉田は凶悪犯でもないので、相手を圧倒させる必要もない。むしろ、カードを切られて観念し、素直に情報を提供して欲しいのだ。

接待と似ている。

ドリンクに合わせてマグロやサーモンの三貫握り、ロール寿司、にぎりセットと刺盛りをまとめて注文した。

始めは食事に集中することにしている。ここでも同じことにした。小皿を取って醤油を垂らし、一つ一つつまんでいく。

「それで、何か話すことがあるんですか?」大津は注文したウーロン茶を一口飲んで、一息入れてからタイミングを計って聞いてきた。

「麻衣先輩のこと?」吉田は首を傾げた。

私は懐かしのカリフォルニアロールを食べてから、対面に座る大津と吉田の目を見た。二人とも緊急事態だと考えず、この場でお寿司を堪能していて頬が綻んでもいた。

ランチョンテクニックの一種だ。

カードを切る時だ。

ここで、全てを開示してもらう。

「いえ、どちらかというとあなたたちのことです」

大津と吉田は私の発言を受けて、二人で顔を見合わせた。何を言っているのだろう、とクエスチョンマークを頭の上に浮かべている。

しかし、私は見逃さなかった。

二人の目の奥に、焦燥か怯えの色が見えていたのだ。つまり、調査をしている探偵にアレを気付かれたのでは、という恐れだ。

「最初からおかしいと思っていました。あなたたち二人に資材室で初めて会った時ですよ。その場では問い質しませんでしたが」

「えっと、おかしいことなんてありましたか?」何かを支えているかのように、吉田は必死に平静を保っていた。

「ちゃんと覚えています。私は、あなたたち二人に伊藤麻衣さんが行方不明であることを告げ、同年の溝口愛さんという人物を紹介していただきました」

「はい。私たちの知らないことを愛先輩なら知っていると考えたからです」大津は物柔らかに答えた。

「その時『私も麻衣先輩のことが心配です。何か手伝えることはありませんか?』と言ったのは・・・・・・」

「私ですね」と大津は手を挙げた。

「お世話になった先輩の心配をするのは分かりますが、しかし違和感しかありませんでした」私は残念そうに首を左右に振った。

「どうしてですか?愛先輩の仲介もして、協力も申し出て、何がおかしいんですか?」吉田は分からないとばかりに言葉を繋いだ。

大津も、何がミスなのか分かっていないようだった。

二人からすると、不自然さはないのだろう。しかし、それは用意をしてしまっていたからだ。もしも本当に何も知らない状態で伊藤麻衣が行方不明だと告げられたら、あんなことにはならない。

そのことに、二人は気付いていなかった。

私は教えてあげることにした。「伊藤麻衣さんが失踪した、と私から伝えられ、伊藤麻衣さんのことを心配して、その行方を捜している探偵に溝口愛さんを仲介し協力も申し出る」

「はい」と大津が力強く頷いた。

二人とも、未だに自信を残していた。

「私は疑問に思ったんです」と、私は人差し指を立てた。「伊藤麻衣さんの失踪に心配している様子の二人は、どうして電話なりなんなり連絡をしてみないのだろうか、と」

「で、電話?」吉田は喉が詰まったかのように、二の句を継げなかった。

「考えてもみてください。目の前に探偵がいきなり現れて『あなたの知人が行方不明なんです』と言われたら、そして知人のことを心配しているのであれば、どういう行動を取るでしょうか」私は強調して言った。「ひとまず『自分の方からも電話かけてみますね』となるのが普通です」私はウーロン茶で喉を潤した。「先輩が行方不明になったと突然告げられたにもかかわらず、先輩を心配していながら、電話もしないメッセージも送らないだなんて考えられない」

「それは・・・・・・」吉田は顔を伏せた。

「加えて『麻衣先輩のお母さんも心配です』『お母さんは大丈夫でしたか?』と聞かれたこともおかしなことです」

もったいぶるように私は大トロのにぎりを、醤油をつけて口に運んだ。話す量が多いと口の中がパサパサになっていく。そんなわけで、大トロの脂が最高にマッチしていた。

「変だなって思いましたよ。『私が伊藤夫人と直接会った』ということをどうして知っているのだろうか、とね。私は依頼人が誰かなんて話していません」

白の室内灯に照らされて、大津と吉田の顔は貧血気味のように色を失っていった。ダメージを与えるつもりなどなかったが、しかし二人にとっては相当な衝撃なのだろう、嘘を論理的に見破られることが。

「私の依頼人が伊藤夫人であることをお二人は知っていた。心配するふりをしていながら、お二人は伊藤麻衣さんに連絡を入れてみることさえしない。導き出される推論は一つだけです」

私はアボカドサーモンロールを食べた。サーモンとマグロはどちらが美味しいのだろうか。日によって、店によって、異なるのかもしれない。そんな場違いなことを考えた。

「私が資材室に来る前から、あなたたち二人は伊藤麻衣さんの失踪を知っていた」

再びウーロン茶を飲むと、残りが三十パーセントに満たなくなってしまった。それでも気にせず話を続けた。

「協力を申し出ている点を考慮すれば、訪れてくるであろう都築翔太郎という探偵に接近するよう指示を受けている、違いますか?」

大津と吉田は目の前の料理を楽しめなくなっていた。大津はウーロン茶を、吉田はオレンジジュースを度々飲んで、口と頭を冷やしていた。

「探偵は尾行もするし道具もあります。今日の昼過ぎ、お二人はカフェで談笑していたそうですね。その際『麻衣先輩も面白いことするね』と発言したのはどちらでしょうか?」

一旦は、カードを出し尽くした。

交渉術として「私からは以上です」とだけ告げて、二人に余裕の時間を与えてあげた。二人にあれこれ考えさせて、沼に嵌らせてやろう。

「亮子、どうする?」困り果てた吉田は、隣に座る大津に聞いた。

「どうしようね」と大津も頭を抱えた。

二人を無視して料理に舌鼓を打った。まぐろの刺盛りも極上の味がした。醤油の風味と合わせてマグロが舌の上で溶けていく。

一分か二分が経って、二人の決意が固まったようだ。大津が代表して「実は・・・・・・」と話を切り出した。「火曜日に、麻衣先輩から連絡が来たんです。『教育狂いの母親を懲らしめてやりたいから一時的に失踪してる』って」

どうやら姿を消した翌日に、失踪の事実を二人に伝えていたそうだ。「教育狂いの母親を懲らしめてやりたいから一時的に失踪してる」というのは、伊藤夫人に対する必死の反抗か。

溺愛故の教育虐待であれば、確かに失踪することで母親を懲らしめることはできそうだ。もう支配下にはいないんだぞ、いつでもいなくなれるんだぞ、という脅迫状だ。

「それで、水曜日の昼前に電話が来て、先輩の母親が『街外れの探偵屋』ってところに依頼を出したらしくて、所長の都築って人が大学に話を聞きに来る可能性があるって言われたんです」

「麻衣さんは『街外れの探偵屋』って名指ししていましたか?」

「はい。で、『色んなエピソードとか話してあげて。可能ならその探偵と連絡を取って調査内容と母親の様子がどんなのか探ってみて』って」

伊藤夫人が「街外れの探偵屋」に依頼を出したことを、やはり伊藤麻衣は知っていた。事前のその情報を提供されていて、大津と吉田は従うことにしたのだ。

伊藤夫人に「街外れの探偵屋」に興味を持たせるように誘導をしたのか。いや、それも違う。依頼を出すだろう、という推論ではないのだ。

尾行でもしていたのか。伊藤夫人は車で「街外れの探偵屋」に来た。その後ろをついていたのか。わざわざ「街外れの探偵屋」の庭まで追いかけなくても、山道に入る手前あたりで、依頼を出す先が「街外れの探偵屋」であることは察せられる。

「麻衣さんと親しくしていたお二人だから、連絡係を引き受けたわけですね」

「はい。危険なことをするわけでもないですし」と吉田は憐憫の表情で麻衣の不遇を思いやった。「麻衣先輩が大変そうだったから」

「で、彼女は今どこに?」

二人はシンクロして首を横に振った。

「私たちも聞かされていません」大津が言った。

「じゃあ、今麻衣さんと連絡は取れますか?」

「取れますけど、でもダメです。断ります」大津は毅然とした態度で言い返した。

「麻衣先輩のところの母親は異常なんですよ。麻衣先輩も追い詰められていて、戦略的に失踪したんです」吉田は余裕を取り戻して、再び食事に手を付けだした。蒼白していた表情を、美味しそうに綻ばせた。

「私たちも善意で協力しているので」大津も再び箸を取った。「麻衣先輩は無事ですよ。何の心配もいりません」

二人の考えは金庫のように固まっているようだ。報酬をちらつかせることもできるが、通用しないだろう。黙々と食事を続けるのが、一種の意思表示のように見えた。

伊藤麻衣は連れ去られたわけでもなく、やはり自発的に失踪したのか。

大津と吉田の背後に伊藤麻衣の影は見え隠れしていた。だからこそ麻衣が犯罪に巻き込まれたとは深刻に考えていなかったのだが。

いや待て。

「あるいは、誰かが麻衣さんになりすましているのかも。メッセージのやり取りは他人でもできる」

「いいえ、メッセージでのやり取りはしていません。麻衣先輩の方から夜に電話が掛かってくるんです」吉田が返答した。

電話、か。

「電話の相手が麻衣さんだと確信できますか?」

「勿論、声とか話し方とかで」

真犯人によって伊藤麻衣は誘拐され、真犯人が伊藤麻衣になりすましている。大津と吉田の背後に見えた麻衣の影も、実は真犯人が黒子だった。

そんな考えがあったが、二人に指示を与えていたのは本当に伊藤麻衣のようだ。

合成音声などを用いるテクニックがないわけではないが、素人に扱える代物ではない。素人に対してわざわざ用いるものでもない。

伊藤麻衣は無事か。

「で、私がどれぐらい真相に近づいているのかを報告するわけですね」食事を終えて言った。「今夜は全てがバレたことも報告するんですか?」

「一応そうします」と吉田が首肯した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ