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第二章⑥

K駅から西王谷高校までは、歩いてすぐというわけではなかった。むしろ歩いて十分は掛かる距離にあり、最寄り駅ながら駅近というわけではなさそうだ。夏だったら、ジリジリと焦がす太陽光の犠牲者になりかねない、そんな道を歩かざるを得ない。アクセスがそれでも、都立きっての名門校らしいので、生徒数には困らなそうだが。

そして、待ち合わせの場所は西王谷高校のそのまた先にあるということで、私と早坂がその公園に到着した時、夕方の十六時を十分ほど過ぎていた。

なるほどその公園は住居地域の一画にぽつりと設けられた、プラスチックの青いベンチと幽霊も出そうな公衆トイレと中央の街灯しかない、しんみりした雰囲気の寂れた場所だった。

墓石をいくつか置いたとしてもそぐわないことにはならないだろう。ここは元々空き地か何かだったに違いない。放置するのはアレなので何かしら適当に設置しよう、とでも自治体が勝手に決めたのだろうか。その程度の公園だった。

公園のベンチに一人の女性が背筋を伸ばしたまま座っていた。すぐ横に紺の学生バッグを自身に立てかけている。

彼女と私たちを除いて、ここには誰もいなかった。

その女性は黒髪のポニーテールで、ライトブルーのストレートジーンズに白のスニーカー、黒のパーカーを着ている。ファスナーを首元まで上げきっているので、下に何を着ているのかは分からなかった。

それでも、シックなデザインのシンプルなシャツを着ていそうな気がした。よく分からない英字プリントのシャツなどは着なさそうな、胸元に蝶のタトゥーなど絶対に入れていない、堅実な女性に見えた。

しかしジーンズの着こなしを見るに、健康的でしなやかな脚をしている点も明らかだった。適度にフィットネスジムか何かに通えば、多くの女性が憧れるあのような美脚に慣れるのだろう。

「ここは私に任せてください」公園に入るなり、早坂に先制された。「出しゃばらないでくださいね。相手は年頃の女の子なんですから」

二人でベンチまで近づいていくと、相手も私たちに気が付いた。会話を交わさずとも待ち合わせの相手だと互いに察していた。こんな公園に入ってくる人物がいたら、それも当然のことだろう。

「伊藤亜由美さん、ですか?」早坂が屋外用の、年下の子供に話しかけるための、優しい声で聞いた。

「はい、そうです」律儀に立ち上がって挨拶をしてきた。

やや丸みを帯びた幼い顔をしていた。どことなく伊藤麻衣を思わせる雰囲気で、確かに姉妹だと言われれば納得だ。

「どうぞ、座ってください」早坂がベンチを手で示した。

伊藤亜由美はベンチ端に座り、その隣に早坂、そして私は早坂を挟んで伊藤亜由美とは反対側に座った。三人で座るだけで、ベンチの隙間はなくなってしまった。

「私は早坂紅葉っていいます。この人が都築探偵です」

「くれは・・・・・・?」

「珍しい名前よね。憶えやすくて助かるんだけど」

同じ女性同士ということもあって、伊藤亜由美と早坂の空気は、初対面ながら悪くなかった。陽気で積極的に話しかける早坂に、自ら話すことはせずに聞かれたことに丁寧に答える伊藤亜由美という対比だった。

「探偵は都築所長で、私はあくまで助手って位置づけです。あと、亜由美ちゃんと年齢近いと思うわ。今いくつだっけ?」

「十六歳です」

「ほら、ほとんど一緒よ。私は二十一歳だから」

「五歳差で『ほとんど一緒』だと?」茶々を入れるようにぼそりと呟いた。

「都築所長は静かにしててください」

私を放置して早坂と伊藤亜由美は、アイスブレイクとして長く雑談していた。学校の行事のこと、最近あったこと、趣味のこと。

それも必要なプロセスと考えて、私は口を挟まずに聞いていることにした。

伊藤亜由美の仕草を観察していると、行儀正しい彼女に面白い癖があるのに気が付いた。

伊藤亜由美はオーバーにリアクションしたりせず、声のトーンも落ち着いている。足を揃えて両手を膝の上に乗っけたままだった。手先のケアをしていることがよく分かる。早坂と同様、全く荒れておらずクローズアップマジシャンのように綺麗だった。

半分くらい握った左手を見ていると、彼女は親指の爪で、人差し指と中指の指先をパチパチ弾いたりするのだ。まるでコイントスをしているかのようだった。

ちらりと確認してみると、左手人差し指と中指の指先は、マメが出来ているように形が変わっていた。

その特徴に基づいて、私は伊藤亜由美という人物像を分析した。

「それにしても西王谷高校なんて凄いね。今は二年生?」早坂が聞いた。

「はい、来年受験です」

「もう勉強はしてる?」

「はい」

「志望校は?」

「一応、東都大学です」

「うそー、やっぱり違うね」

そういえば、伊藤麻衣が通っている早應大学や早坂の慶稲大学は、私立最難関ながら、東都大学を第一志望とする人たちの滑り止めだったりする。

そして、東都大学を楽々合格するようなタイプもいれば、海外大学を志望していて東都大を滑り止めにする人間もいる。私のように、東都大学という存在すら認識していないタイプもいる。

上には上がいるのだ。

世界は広い。

伊藤麻衣の経歴でいえば、彼女は東都大学に合格せず、三回目のチャレンジもダメで結局、早應大学法学部に在籍することとなった。

今、妹の亜由美は西王谷高校に通い、東都大学を志望している。

ここにも、伊藤家の教育が見え隠れしていた。兄弟姉妹の全員がアイビーリーグ全てを受験しまくる教育家庭はたくさんある。似たようなものなのだろう。

小学生の時から勉強浸けだったに違いない。

「亜由美ちゃん、得意科目は?」

「そうですね、理数系なら。数学とか化学とか」

「いいね!私の専攻も数学なんだよ。理工学部数理科学科」

「大学生なんですか?」興味を持ったようで、ここで伊藤亜由美が初めて質問した。

「そう。さっき言ったように二十一歳だからね。隙間時間で都築所長のお手伝いをしているの」

「いいですね、キャンパスライフ。自由もあって」

自由もあって、か。

批判めいた口調ではなかったが、伊藤亜由美の本音が言葉の端に垣間見えた。

西王谷高校に合格していても、彼女もまた伊藤夫人あるいは伊藤家の教育を強いられてきたことだろう。十六歳なのだから、未だに支配下に置かれている。

「文系だったら全休もあるしね。羨ましいよ、あれ。理系は少し忙しいかも」早坂は顔を綻ばせていた。「亜由美ちゃんは、理系に進むの?」

「多分そうなると思います。理一を」

リイチ?

言葉の意味が分からなかった。

「東都大ってあれでしょ、二年生の最後にどの学部に行くか決められるって」

「進学選択、というものですね。前は進学振分けって呼ばれていたものです」

「うちの学門制に似てるね。こっちは二年進級時だけど」

「えーっと、早坂さんは、慶稲大学ですか?」

「そうだよ。学問Cから順当に数理科学科」

各大学の制度の話をされると、途端に私は、砂漠に一人置き去りにされてしまう。かといっていちいち質問をして遮ってしまうわけにもいかない。

ここは、我慢だ。

しかしまぁ、制度の名称だけでどの大学かを言い当てるとは。これは進学校あるあるなのかもしれない。

「学部は決めてる?」

「一応、理一から理学か工学を考えています」

「数学科に進んでくれたら嬉しいな。女性が少ないから」

「確かに、そうですね」

数学科の女性。

ソフィー・ナントカを思い出した。

二人とも和気藹々とした雰囲気だ。ここで私の母校の話をし出したら、空気が凍り付いてしまうことだろう。

尚も、私はだんまりを貫いた。

「逆に亜由美ちゃんには、苦手科目とかはあるのかな。西王谷高校の秀才の苦手科目」

「買い被らないでください。それと、苦手科目は古文です」

「難しいよね。私は大学受験してない組だけど、学校のテストでさえボロボロだったもん」

「幼稚舎からなんですか?」

「そ」

「お嬢様なんですね」

「パパとママはほんのちょっとだけ過保護だけど、私はちゃんと勉強もしてるからね。その辺の推薦組とは一緒にしちゃ駄目よ」早坂は胸を張った。「亜由美ちゃんのところはどう、ご両親は?」

私は唾を飲み込んだ。

これからがインタビューだ。

「うちも過保護ですね。特に・・・・・・」

伊藤亜由美の言葉が途切れた。その先を話すことは、一家の娘として適切かどうか、思案しているところだ。言いたいことはあっても、育ててもらっていることに変わりはない。伊藤亜由美はその点を弁えているのだ。

できた娘さんだ、と思った。

早坂が「お母さん?」と明らかな誘導尋問をすると、彼女はようやく、小さく頷いた。「東都大学に行くようにって勝手に進路を決めるんです。東都大じゃないと理系に進むのもダメだって」

「理系?それって男女比率みたいなこと?」

「はい。文系でいいだろうって」

「それは理不尽だね」早坂は足を組んだ。「あれ、もしかして、お姉さんも理系志望だったの?」

「いいえ、お姉ちゃんは法律を学びたいって前から言っていました」

「そっか」早坂はフムフムと二、三回頷いた。「で、麻衣さんが行方不明だってことは知ってるよね?」

「はい」

「連絡は取れない?」

「お母さんからお姉ちゃんに連絡するように言われて。でも、メッセージを送っても電話をしても出なくて」

「お母さんにそう言われたのははいつのこと?」

「えーっと、今週の月曜日の夜と、あと火曜日です。『連絡が取れない』ってお母さんが突然言い出して」

私は明らかになっている情報を思い返した。

このあたりは、既に伊藤夫人からも聞いていることだ。月曜日の昼に、伊藤麻衣は「勉強合宿に行ってくる」と伝えたきり、音信不通になってしまった、と。

「お姉ちゃんがどうして行方不明になったか分かる?」

「さぁ、見当もつきません。何か事件に巻き込まれたか、それとも家出しただけなのかも分かりません」

「家出だとしたら、どうしてだと思う?」

「お姉ちゃんのことはよく分かりません。でも多分、お母さんの干渉が嫌になったのかなぁって思います」

「やっぱりそっか。厳しいんだね」

「お姉ちゃんは二浪しても東都大に合格できなかったから」

「らしいね。大変だよね、教育熱心な親を持つと。亜由美ちゃんは大丈夫?」

「今のところ成績は問題ありません。でも東都大に受かるかは分かりません」

伊藤亜由美は学力に関して、謙虚なだけなのか、それとも未だ不十分という事実を述べているのか、あるいは心配性で自信がないだけなのか、確定はさせられなかった。

ただ、印象でいえば、謙虚かつ心配性な気がした。最大限の努力をしているものの、失敗をすることを恐れているので大きな態度はとらない。多くを犠牲にしてでも努力を続けるのも、その実、失敗が怖いからなのだ。

恐らく、彼女はそのタイプだ。

変に反抗することもないので、伊藤夫人からすると理想の娘なのかもしれない。

「現役で受からなかったら浪人?」

「そうなるでしょうね」

早坂は顔を顰めた。幼稚舎から慶稲大学までストレートで進んできている本物のお嬢様からすると、それは衝撃的な進路なのだろう。それも、自らの意志だけで決めているわけでなく、親の過干渉によるのだ。

親によって敷かれたレール。それも、社長の後を継ぐなどという楽な道ではなく、日本一頭が良いとされる東都大学の受験を強要されるものなのだ。

「麻衣さんは普段、どんな人だった?」

「んー、普通だと思います。ただ私はお姉ちゃんと物凄く仲良いってわけじゃないので、詳しくは知らないんです。年齢も六歳離れているので」

伊藤亜由美は煮え切らない態度を取っている。あるいは、困っているみたいだ。姉のことが嫌いでなくとも、あまり好いていないのかもしれない。

勿論、彼女から心配の色は見えている。伊藤麻衣の失踪について、安心していられないのだ。そうでなければ、彼女に対しても私は厳しい目をし続けていたことだろう。

伊藤亜由美からすると、姉が家出したのか、それとも犯罪絡みかが分からない。犯罪よりは家出の方が安心なのだ。彼女はそれを心配している。

伊藤亜由美のポジションは、吉田有香と大津亮子と溝口愛とは違う。

本当に何も知らされていない。

「質問、いい?」私も割り込むことにした。

「はい、どうぞ」

「亜由美さんは今までどういう習い事をしていたのかな?今も続けているものから、既に辞めてしまったものまで」

「多いですよ」伊藤亜由美は指を折って数え始めた。「ピアノにバイオリンにお琴に、茶道と華道と書道と、後は舞踊にバレエですね」

お嬢様のオンパレードだった。私にとっては驚きだが、早坂の表情に変化はなかった。同じような道を歩んできたのだろうか。

これも、伊藤家の教育だ。伊藤麻衣も習い事を多く経験していた、と溝口愛から聞いている。あるいは、伊藤亜由美にはより強いプレッシャーが掛かっているのかもしれない。

「ピアノと琴は続けているんだね。あと、バレエも」

「はい、あとバイオリンと書道もです」

「そうか、その二つも続けていたか」

「どうして続けているって分かったんですか?」予想通り早坂が聞いてきた。

岩崎刑事にしてやったことを、もう一度繰り返すことにした。大して意味のないことだが、これはもう私の癖だ。

「亜由美さんの左手の人差し指と中指の先が硬くなっている」私は右手で彼女の左手を指差した。気付かれた、とばかりに伊藤亜由美は隠すように左手を握り締めた。「琴は、右手に爪をつけて左手で弦を押して演奏するもの、らしい。ピンと強く張られた弦を生の指で下に押しつけるんだ。素人じゃ耐えられないし、あのようにマメになっていてもおかしくない」

「あぁ。押し手、ですね」早坂は納得したようだ。「私もそうだったなぁ」と自身の左手を見つめていた。

「やっていたのか」

「昔ですよ。小学生の時に数年間」

伊藤亜由美は恥ずかしいとばかりに俯いてしまった。確かに、指先のマメを指摘されて女性が嬉しいはずがない。

「で、ピアノはどうして?」好奇心を募らせて早坂は続けた。

「琴を続けてピアノを辞めるなんて考えられないだろう?ピアノ教室は至る所にある。プラス、ベンチに座っている時の、その姿勢の良さを考えると、ピアノとバレエを今もやっているだろうと検討をつけた」

バレエに関しては脚のラインを見て察したことだが、さすがに気持ち悪いと思われるので言わずにおいた。

「そういうことばっかり考えているんですね」早坂に呆れられた。

「これも伊藤夫人の教育理念を知るためだよ。習い事も勉強も、親の影響をもろに受けるんだから」そして、私は話し相手を早坂から伊藤亜由美に戻した。「それで、伊藤夫人は、付き合っている人と別れさせたらしいね?」

「・・・・・・どうしてそれを?」

秘密を暴かれたかのように、伊藤亜由美は動揺しだした。まるで私がまずいことを言ってしまったかのように、不穏な空気があたりを包んだ。

恋愛の話はまずいのか。

「お姉さんが『付き合っていた人と別れさせられた』と友人に愚痴を言っていたらしいんだ。それを小耳に挟んだだけだよ」

取り繕うようにフォローした。あくまで伊藤麻衣はライトな愚痴で言っていたに過ぎない、と伝えた。

「あぁ、そういうことですか」

「で、強制的に別れさせられた麻衣さんの元彼について聞きたいんだけど、彼らがどういう人かは知ってる?」

彼らにもインタビューをしたいと考えていた。ストレートで進学していれば社会人一年目だろうし、色んな理由で遅れていることも考えられる。

「いいえ、会ったこともありません」伊藤亜由美は首を振った。

「じゃあ、お姉ちゃんの元彼について知っている人はいないかな?中高一貫校らしいから、麻衣さんの親友みたいな人は知ってる?」

「お姉ちゃんの親友だったら、一人なら知ってます」

その人物について、詳しく聞いてみた。

中高一貫校で伊藤麻衣と同級生だった、棚宮千晴(たなみやちはる)という女性らしい。伊藤亜由美はその女性と偶然会ったことがあり、伊藤麻衣と三人でお茶したことがあるそうだ。棚宮千晴は一浪して明政(めいせい)大学政治経済学部に進学し、今は四年生だという。

「都築という名前の探偵が麻衣さんについて聞きたいことがある、と棚宮さんに連絡をしてくれるかな?」

私は伊藤亜由美を介して、明日の朝十時過ぎに新宿駅構内のモーニングカフェで棚宮と会う約束をした。

「黒のワンピースを着てくるらしいです」

「分かった、ありがとう」

まるでたらい回しだ。しかし、情報はそう簡単には集まらない。

私は歩くだけだ。

「あの、お姉ちゃんが行方不明になってるって教えるべきですか?」

「いや、変な先入観を与えたくないし、なるべく控えてほしい」

「分かりました」

「それと、もう一つ。お姉さんが自発的に失踪したなら、お母さんの干渉が嫌になったことが原因だ、と君は考えているんだね?」

「自信はないですけど」

私は膝の上で両手を組んだ。「『お母さんの』って限定している点が気になるな。お父さんはどうだった?」

どうして『両親の干渉』と言わなかったのかが私は気になっていた。限定するということは、干渉に父親である伊藤弘明は除外されるということになる。

「お父さんも厳しいですけど、お母さんほどじゃありません。お父さんはマナーとか服装とかをあれこれ言う感じで、トップの成績を取るように圧力かけたりはしないので」

考え方が変革させられた。

伊藤弘明はそういうタイプだったのか。

いい大学に行くことよりも、礼節を弁えた大人の女性として成長することを、伊藤弘明は教育の中心に据えていたのか。勉強机に向かわせることは少なかったのだろうか。

伊藤亜由美の観点を信用するなら、伊藤弘明が教育虐待に加担していなかった可能性が出てきた。

「えーっと、お父さんは海外に出張だっけか」

伊藤夫人から聞いた話を思い出した。もっと詳しく聞いてみたかった。

「え、海外出張なんですか?」伊藤亜由美は素のリアクションで聞き返した。

そのことを初めて聞いたかのように、だ。母親から何も聞いていないのだろうか。

「そう聞いてるけど、君はお母さんから何て言われたの?」

「お母さんが言うには、お父さんは月曜日の朝早くに会社に行ったらしくて。『暫くは帰らない』とだけ言っていましたけど」

伊藤夫人は、娘には夫の海外出張を隠していた。

必要なことではないと考えて、わざわざ海外出張だとは言わなかったのか。

そんなこと、あるだろうか。一家の誰かが海外に行くのなら、お土産も持って帰ってくるだろうし、わざわざ隠すようなことではない。

海外出張ではなく、何か不名誉なことがあったのか。

だから、娘には隠した。

ポジティブでない海外出張とはどういうものか。

そもそも、本当に出張に行っているのだろうか。

出張でなく海外に行き、それを隠すとなると、その理由は何だ?

安直に考えると、高飛びだろうか。薬物の売買に手を染めていて、そうして発覚を恐れて海外に逃げた。伊藤夫人にだけは、打ち明けていた。

いや、突飛な考えだ。

そこで私は、仮面夫婦の話を思い出した。

外面では夫婦を装っている。仲の良さげな素晴らしい夫婦だ。世間体というものを考慮しての結果である。

しかし実際には、二人でダイナマイトを運搬しているのだ。互いに起爆権を持っていて、ひとたび爆発させれば名誉というスペックの全てが消し飛んでしまう。かといって協力して爆発しないように関係改善を図るわけでもない。バチバチした雰囲気を、他の誰にも知られなくない、そんな仮面夫婦。

伊藤家の夫婦にはトラブルがあった?

これもまた、考えすぎだろうか。

伊藤亜由美から聞きたいことは他になかった。これ以上聞くこともないので、私は雑談がてら「亜由美さん自身は?恋愛とかでお母さんから干渉されたことは?」と話を切り替えた。

「私は・・・・・・」恋愛の質問を受けて、伊藤亜由美は言葉に詰まった。「恋愛とかはこりごりです。そういうことをするべきじゃない、ってやっぱり思いますし」

「進学校の生徒とはいえ、華の女子高生だろう?」

西王谷高校は名門中の名門都立高校らしい。遊びよりは勉強を重視する生徒で溢れていることは想像に難くない。ゲームよりも勉強だ。FPS視点の戦争ゲームなど、やったこともないのかもしれない。

しかし、恋愛を禁忌と捉えているとは想定外だ。

人が人を愛する行為は自然発生的だ。

それを抑制するだなんて、白黒映画に登場する敬虔なクリスチャンでもあるまいし。

伊藤亜由美は立ち上がって、学生バッグを両手に持った。少し歩いてから振り返って、私たちに向き合った。「もういいですか?勉強しないといけないので」

「あぁ、うん。色々聞かせてくれてありがとう」

私と早坂もベンチから立ち上がった。

伊藤亜由美は一礼してから、会話で盛り上がった早坂に一言も告げず、公園を後にした

ポニーテールが揺れている。

背中が小さくなっていく。

「都築所長、もうちょっと気をつけましょうよ」

早坂はサラリーマンが電車の座席に座り込むのと同じ勢いで、再びベンチに座った。伊藤亜由美がいた先ほどよりも遠慮のない態度になった。言葉にも、優しさというよりも生意気さが宿っている。

「気を付けるって、何を?」

「年頃の女の子に恋愛の話をするのは無遠慮ですよ」

「そう言われてもね」

「ただのセクハラおじさんです」

「そんなつもりは一切ないが。それにしても伊藤亜由美は真面目一辺倒だな」

「西王谷高校らしい、摯実な生徒でしたね」

「何だシジツって」

「はぁ、もっと勉強してくださいね」

ただの生意気小娘だ。

時刻は十七時になろうとしていた。太陽光の輝きが落ちてきて、相応するように住居の明かりが無数の蠟燭のようにポチポチと灯りだした。

「終わりだな。今日のところは解散しよう」

私は早坂を帰らせることにした。

実のところ、十八時から時谷総合商事の本社ビルへ行き、高野秀則から話を聞くことになっているのだ。それを言わずに隠しておいた。

昨日のように放置するつもりはなかったので、今日は早坂と行動を共にしていた。が、昨日のように夜遅くまで早坂を付き合わせるつもりもなかった。

それに、夜には本田俊樹に突撃訪問する、という予定もある。

警察官のフリをするのだ。その上、元ストーカーという傷を持つ本田を、脅して怖がらせるつもりである。情報を得るためだ。

こういうグレーな行いに、早坂を巻き込むわけにはいかない。

「明日は朝から、えーっと誰でしたっけ、さっきの?」

「棚宮千晴だな。来るつもりか?」

明日の調査は平和なものだ。であれば、早坂がいようといまいと、私としてはどちらでも構わなかった。

「そうしたいんですけど、実は明日一限から対面の授業があるんですよね」

「なら仕方ない。私一人で充分動ける」

「ごめんなさいね。私がいないだなんて、都築所長が可哀そう」

「繰り返しになるが、私一人で充分動ける。今までもそうしてきた。なぜなら、私一人で充分動けるからだ。誰かと行動を共にすることの方がレアだ。なぜなら、私一人で充分動けるからだ」

「分かりましたよ、全くもう」まるで分かっていないようだ。私がムキになっているみたいだ。「でも亜由美ちゃんから結構引き出せましたよね、私」早坂は得意げなどや顔で私を横目で見た。

「どうだろうな」私としては、甘やかすつもりなど毛頭なかった。コミュニケーションなど誰でも取れるものなのだ。「私が追加の質問をしている以上、不十分だったということになるんだが」

「それに応えてくれたのも、私が亜由美ちゃんと打ち解けていたからですよ。都築所長だけだったら亜由美ちゃんは萎縮していたでしょうね」早坂は自己評価の高い人間だ。ここまで潔いと、聞いていて不快でもなくなってくる。「セクハラおじさんと女子高生が二人きり、犯罪です」

酷い言われようだった。

「総評として、悪くはなかった。良くもなかった。こんなところか」

「探偵二日目ですからね。上出来上出来」

「何も推理せずただコミュニケーションを取っていただけだが、まあいい」

「都築所長は手厳しいですね。愛のムチですか」早坂はへそを曲げてふくれっ面になった。

「無知にはムチだ」

「いや、つまらないですよ。それにどの口が私を無知だなんていうんですか」

「何だ、全知全能のつもりか?」

「そういうのを、ゼロか百かって言うんですよ。都築所長は極端」

ゼロか百か。

どこかで聞いたことのあるセリフだと思ったら、今日の昼過ぎに、私がイタリアンレストランで早坂に指摘した言葉だった。

あれを、まさか根に持っていたのか。

「まぁ、せいぜい明日頑張ってくださいね。分かったことがあったら是非教えてください」

「分かった」

揉めるのも嫌なので、表面上は了承しておいた。「努力する」とでも言おうものなら、早坂は食い下がってきただろう。

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