8.私は権力者の恩人?
私は首を九十度まで曲げてしまった。
「確かに、とても美味しい焼菓子でしたが?」
初めてウラノスに出会ってから、もう十三年になる。
孤児院で育てられた私は、厭われ避けられ人扱いされなかった。
青い目は異常に大きく、耳は尖り、額には大きな石か生えている赤子は、人の子には見えなかっただろうから。仕方ない。
そんな孤児院を飛び出したのは、五歳の頃。
魔物が棲むという森に迷い込む。精霊たちは私に興味津々だった。彼らに助けられながら、どうにか暮らし始める。魔の森に住むたった一人の人間になった。
当然、焼菓子なんてものはない。そもそも孤児院でも滅多に食べられない。だから会ったばかりのウラノスに貰ったマドレーヌに目を輝かせ、無我夢中でかぶりついた……。本当にただの食いしん坊である。
「あれを作ったのは、ロゼリーヌだ」
「えっ?!」
ロゼリーヌがマドレーヌを……。
「まだ旧王家シャルバインがかろうじて力を保っていた頃、よく顔を出していた。ある日、末娘のロゼリーヌ姫が儂の誕生日祝いにマドレーヌを焼いてくれてな。……その帰りだ。我が一族が謀叛の罪で討伐されたのは」
「濡れ衣だったと聞きました」
「いや。そういうふうに処理されただけだ。シャルバイン家が王位に返り咲けるよう、長年用意してきたことは間違いない。──当時の王は、我が息子を一番目から四番目まで殺したところで、討伐の手は緩めた。儂が国政に戻らなければ、この国は立ち行かないと知っていたからだ。儂の力を充分に削いだ頃合いに、側近たちの暴走として処理し、終わらせた」
ジェフリーは五番目の息子だ。身分が低い母の下に生まれた彼は、当時ウラノスの子どもとして扱われていなかった。七歳と幼かったこともあり、命拾いしている。
「それなのになぜ、また王に仕えたのですか? ……ご家族を殺されたのですよね?」
「ほう。不思議に思うか?」
「はい」
家族などいたことがないから、分からない。それでも、もしこのときジェフリーが殺されていたら、と思ったら背筋が凍る。
「……もちろん。儂も苦渋の決断だったさ。ただ、どうしても膝を折ることを選ばざるを得なかった。……投降すれば、旧王家シャルバインの末娘だけは助けよう、と言われてはな」
私は息を飲んだ。ロゼリーヌまでも命を奪われようとしていたとは……?!
「ロゼ様が何をしたっていうのですか? 当時七歳ですよ」
「ロゼリーヌが何をしたかは関係ない。旧王家シャルバインは当時まだ、力はあったし、支持者も多かった。王位を略奪した現王家にとって、ずっと目の上のたんこぶだった。取り潰す機会を持っていた」
またも通説とは全然違う話。私にはもう何が正しいのか分からない。
「このような話、私が伺っても良いのですか?」
表沙汰になれば、いくら権勢を誇るウラノスでも危うい。琥珀色の目が瞬き、またも私を惑わす。
「寸足らずの王にいろいろ告げ口されるより先に、ルウには本当のことを伝えておきたかった。そうか。何も聞いてなかったか」
「うっ」
ウラノスのちょっとした探りにも、そのまま反応してしまう。我ながら馬鹿すぎる。
「本当に。ルウは可愛いなあ」
よしよしと頭を撫でられる。てんで子ども扱い。私がロゼリーヌに与しても全く戦力にならない。
(ジェフ様!! 私、全然ダメでした!)
全く諜報員は向いていない。私を陣営から外そうとする王の判断は、きっと正しいのだろう。
ああ。本当にどうしよう。
所詮。若い王、王妃、息子たちが雁首並べて様々な画策を行おうとも、ウラノスの手のひらから飛び出すことは出来ないかもしれない。
「ルウは、私の幸運のお守りなんだよ」
また唐突に何を言い出すのだ。この御仁は。
しかも儂ではなく、私?! いつからか爺臭い一人称に変わっていたのに。なぜ今?
昔の私は宰相とか身分とか知らなくて、やたらギラギラしているおじさん、としか思っていなかった。その頃の彼は確か『私』と言っていた。
「初めて森で会った時のことを、覚えているか」
「あまりはっきりとは……」
五歳児の記憶など曖昧である。
「討伐の兵士に追い詰められた私は、魔の森と呼ばれるエルフの森に逃げ込んだ。それでも追撃は止まらず、武器も魔力も命も尽きかけたとき……ルウに会った」
琥珀色の目に見入られ、切ない心持ちになる。
そう。あの時、この目が色を失おうとしていた。真っ赤に染まった身体から、大量の血が滴り、地面にみるみる赤い池が広がった。
ああ、死ぬんだ、と思った。
それがどうしても許せなくて、仲良しの精霊たちに助けを求めた。生きて欲しかった。不思議な魅力に溢れる目の前の男が、どんな人間か知りたかった。
「ルウは私の命の恩人だ。お前がいなければ、今の私はなかった。感謝している。それなのに……私は恩を仇で返した。言葉巧みに連れ出し、エルフ王の宝物だったルウを森から盗み出した」
「何を……おっしゃっているのでしょうか」
「寸足らず王とロゼリーヌは知っているさ。お前の価値を。だからこそ、新人にもかかわらず王妃の護衛騎士に抜擢したのだ」
何を言っているのか。私はロゼリーヌへの忠誠が厚く、絶対に裏切らない。ロゼリーヌが私を好いていてくれている。そういう理由で彼らは無理を通してくれたのだ。
「いえ。私の意志を買ってくださっているだけです」
「心の意志じゃない。ルウの美しい青い石の話をしている」
「石? まさかこの額の石のことですか」
「はは。そうだよ。教えてもらっていないのだろう? 所詮他人はそんなものだ。ルウは素直過ぎて、すぐに利用されてしまう」
仕方なさそうな顔で、ウラノスは私の額に手を伸ばす。
同じ轍は踏まない! 動揺を抑え、目をつむり、彼の手を待った。前髪がさらさらと掻き分けられた。
「この石は、ただの美しい石ではない。忠誠を捧げた主の命を救い、永遠の力を授けてくれる奇跡の石。本来エルフの世界に属する強い魔法だ。それなのに、遠い祖先の血を強く受け継いだルウは、人でありながら石を持って生まれた」
私は目を見開き、ウラノスのどこまでも穏やかな顔を見上げた。
「ルウは人だ。そうであれば人の世界で生きていくべきだ。そう、私は願った。森から連れ出した責任はとる。ルウがどう生きようと、私はルウを大切に思う」
そう言ってウラノスは、額に顔を近づける。
感覚はない。感覚はないが、おそらく多分。石に口づけたと思う。
何を考えているのか。ウラノスの気持ちがこれほど分からなくなったことはない。
「びっくりし過ぎだ。ルウ。大切にすると改めて誓っただけさ」
カラッとした笑顔に、軽い言葉。でもそれだけではない。何かある。
「はは。魔樹の保護膜とは恐れ入る。相変わらず、かの姫は面白いな」
バレている。ロゼリーヌがかけてくれた魔法が、あっという間に見破られた。敢えて私に伝えたのも、次の一手。私が見破られたと、王たちに報告するのを見越している。
もう、無理。こんな化かし合いみたいなこと。でもロゼリーヌのために耐えなければ。例え穴だらけでも、陥落するわけにはいかない。
「そうそう。ガルティにお土産があったのだよ。渡しておいてくれ。珍しい香辛料が手に入ってな。咖哩でも作ってもらうがいい」
私の動揺など気にも止めない様子で、次の話題に移る。
「……カレー、ですか?」
「遠方の国の料理だ。臭みのある肉を食べるのに最適で、発汗作用やら体内の炎症作用を阻害するやら、なんだか色々言われている」
急に説明が雑になる。ウラノスという男は、政務に関わらないことには、急に面倒くさがり屋になる。
「取り寄せてみたが、邸の料理人は調理の知識がないと、頭を抱えてしまった。ガルティの細君はそちらの出身というから、何とかなるだろう」
なぜだろう。涙を流して喜ぶ隊長の顔が思い浮かぶ。
「ルウも食べたら感想をくれ。新しい取引国として検討中なのだ。ジェフリーに報告してくれればいい」
宰相らしい言葉とともに、『またな』と若々しい笑顔で帰っていった。
私は深いため息をつく。
次話は明日18時掲載予定です。