12.危険な香り?
急に立ち上がった王は、訝しげな顔で言う。
「なんだ?! この匂いは」
鼻をかすめるのは、今朝、寄宿舎の厨房で嗅いだ香りだ。
──本日早朝。隅っこをお借りして、休憩時間用の菓子を焼いていると、エプロン姿の騎士部隊長が現れた。
絵の具の材料のような、鮮やかな黄色や朱、緑の粉を火にかけながら練り、調合していく。度肝を抜かされていると、いい顔で笑いかけてきた。先日、ウラノスに貰った遠い国の香辛料だという。
そういえば、その時『今夜は咖哩だ!』と言われた……。
(なんか面白ーい。空気がカラーイ)
(いい気分〜。酔う〜)
精霊たちがはしゃぎ出した。キラキラ光を放ちながら、むやみやたらと飛び回る。異国の香草が受けるなんて、予想外だ。
私は王の「なんだ?! この匂いは」に答えていないことを思い出した。
「香辛料です。寄宿舎の夕食で使っています」
「は?! 新手の火薬とかではなく? 嗅いだこともない香ばしい匂いだぞ! ……面倒なことになりそうだ。会議室に戻る!!」
いきなり準備室の扉を開け、バタバタと出ていった。
やっと帰ってくれて有難いという気持ちより、心配の方が大きくなった。
確かに、知らない人は不審に思うかもしれない。
念のため、様子を見に行くべきか。足早に会議控え室へ向かう。重々しい扉を開けた途端、鋭い罵声が飛んできた。
「奇襲か!? 特殊な爆薬が使用されているぞ」
「無音爆破とは……。どの区間だ? 損傷はどのくらいだ? 報告はまだか!!」
「他国の新兵器かもしれん。匂いから割り出せ! 最優先で当たれ。急げ!」
部下への指示が、光る魔法陣の中へ、みるみる吸い込まれていく。指令が各所に飛び回っているようだ。
しかし、そうではないのだ。ただの夕ご飯なのに……。
どうしよう。私は身分皆無のお茶係。高位の副長たちに意見するのは、かなり厳しい。
「どうした。ルウ」
紺色のもじゃもじゃ頭が、肩に触れそうなほど傍にあった。
心強いジェフリーの存在に、私はぎゅっと拳を握りしめる。頭の中のもやもやを、一気に霧散させた。
「はっ!」
王宮魔導士第一連隊副隊長に対する敬礼をする。
「恐れながら申し上げます。この香りの素は香辛料です。騎士部隊長が、今夜の夕食は咖哩だと仰っていました。ちょうど……料理中かと思います」
ジェフリーが、途端に嫌そうな顔をした。
「ウラノス様が贈ったという、例の異国の調味料か? なんと間の悪い……」
呟く声に、疲れが見える。
それでも一息吐いたあと、副隊長に相応しい佇まいを取り戻す。騒がしい部屋に響くよう、手を打ち鳴らした。
「皆様方。情報がございます」
凛とした声に、部屋がしんと静まり返る。
「この匂いは、宰相殿が入手した調味料が原因だと思われます。譲り受けた調味料を使って、騎士部隊長殿が夕食を作られているそうで……。そろそろ伝令が戻ります。直に詳細は知れるでしょう」
副長たちの形相が一斉に険しくなった。
「はあああぁぁ~?!」
「騎士ブタ、だと?」
興奮のあまり『い』が抜かされ、騎士部隊でなく騎士豚になっている。
「あんのっ! 豚!!」
いや。間違いじゃなく、悪口だったかも。
「何でこう、豚野郎は、余計なことばかりするんだ!!」
「豚肉は引っ込んでろ!!」
騎士部隊長は筋肉が非常に発達しているだけで、決して豚では……。ああ、でも。こんな話、耳に入らないだろう。
「面倒事をおかさないよう、わざわざ警備から外したのに、これか! ムカムカして……なんか腹が減ってきた」
「悪気がないところが、腹立たしい。ああ、腹が立ちすぎて、腹が鳴る」
皆様の怒りが爆発しているなか、下位の隊員たちの報告が、続々と集まってきた。
「王宮内異常ございません」
「各署無事とのことです」
「匂いの元は寄宿舎と見られます」
「騎士部隊長が厨房で大鍋を掻き回しており、隊員たちはスープの味見をしていました」
「美味かったです!」
年配者の激が飛ぶ。
「誰だ?! 最後のふざけた報告は」
「はーい。僕です」
ひらひらと手を振るのは、ジェフリーとよく似た王宮魔導士の服を着ている若い男だ。
年配者たちに元気に叱られたあと、こちらに駆け寄ってきた。
「いや〜。ジェフリーに呼び戻されなかったら、丸々一皿食べてたのにな~」
「報告が先だ。自重しろ」
「あの匂い嗅いだら、急にお腹が空いてきちゃって。職務なんて頭から吹っ飛んじゃうって!! 魅惑の香りってああゆうのを言うんだよ~」
「職務を忘れてどうする。もう少し真面目にだな……」
ジェフリーの気安い言葉とジトリと睨みつける目から察するに、同格の王宮魔導士第二連隊副隊長あたりだろう。
「またまた~。眉間にしわ寄せちゃって。ジェフリーの言う通り、ちゃんと確認してきただろう?」
第二連隊副隊長は、ほれほれと、ジェフリーの眉間を人差し指でつついている。嫌そうな彼にも、にっこにこの笑顔は崩れない。
めげない。強い。仲良しだ。……うらやましい。あんなじゃれ合い、私にはできないな。
「敵襲じゃないっていう読み、正しかったね~。流石流石。第二なんか、いきなり大規模魔法陣を展開させようとしてたんだから。止められて良かったよ──冷静なツッコミ、痛み入ります」
「確認して動くのは、普通だろう」
「いや~。そうなんだけど、うちの子たち、突っ込んじゃうんだよね。だからジェフリー。第一辞めてうち来ない?」
「はあ……。それは断ったろう?」
ずっと二人で話し込んでいたのに、ジェフリーの視線がちらりと私に向いた。
聞き耳立てていたのが丸分かりだったのだろう。マズいマズいと、その場を離れた。それでもつい、第二連隊副隊長の声を背中で拾ってしまう。
「第一なんて、王家の雑用係じゃない。宝の持ち腐れ〜。そう思うよね? エルフちゃ~ん」
ぎくりとして、思わず肩が強張った。今、振り向いてはいけないと、私の勘が告げている。
庇うようにジェフリーが遮る。
「今はそれどころじゃない。……ほら、来たぞ」
会議室側の扉が、合図ののち開かれる。
すらりと背筋の伸びた男が、琥珀色の目で見渡す。
事実上の最高権力者ウラノスの登場に、皆の首が垂れていく。波のように広がり、全員が膝をついていた。
「皆。揃っているようだな」
「はっ」
上司の王妃付き護衛騎士副官がウラノスに答える。助かった。身分無しの私は答える立場にない。
しかし本来、副長たちが集う準備室に、彼は来ないはず。理由は……?
「異臭に、戸惑っているのではないかと、説明に来た」
やはりそうだった。
「害のあるものではない。儂が持ち込んだ他国の調味料を使って、騎士部隊長に料理してもらっていた」
すでに聞いている話でも、ウラノスが話すことで確実な情報になる。かしこまっていた人々も、安心して表情が緩む。
「それで、君たち……」
不思議な間に、皆の面が上がっていく。
ウラノスは、からかうような笑みを浮かべていた。窓から差し込む光のせいか、琥珀色の目が、星を散りばめたようにキラキラ輝いている。
「腹は減っているか?」
うおおおおおおおおおお
うひゃあああああああああ
なぜだろう。無言のなか、怒声とも悲鳴ともつかない響きが聞こえるような気がする。
「香りの原因の咖哩を、騎士部隊長に分けてもらった」
その声で再び扉は開く。
食欲をそそる香りとともに、カートで運ばれてくる。お茶とお菓子だけで長時間凌いできた面々は、目の色を変えた。
「皆も現物を確認したいだろうと思ってな。一応、私も毒見をしている。無理に食べずとも良いが……いや」
みんなのギラついた顔を見て、破顔する。
「せいぜい食い過ぎに気をつけろ。パレード本番まで誰一人倒れられては困る」
「はっ!」
「かしこまりました!」
「お任せを!!!」
次々に席に着く。高貴な出身、高齢の面子も、全員が腰掛けた。
これは、食事後のお茶を用意した方がいいだろう。
苦笑しながら部屋を去ろうとするウラノスの鋭い視線が、私の顔に止まった。
煽情的で危険な香りのする微笑みが向けられ、血の気が引く。
王から聞いたな? 受け入れるんだな? と、結婚の件を問われているのだと、すぐ理解した。
周りに悟られないよう、僅かに頷く。
琥珀色の目が、満足げに細められた。途端に心をもっていかれそうな大人の色気と、甘い魅惑の香りが漂い始める。
(ああ。もう何度も見たことがある……)
ウラノスが女に憑りつくときの目だ。骨抜きして、利用し尽くす。
そんなものに、私はなってしまった。
少しだけ特別に可愛がられていた養女ルウは、彼の中で死んだ。
いっそのこと、本当に死んでしまったほうが幸せだったかもしれない。
彼との結婚は、私の全てを奪う。ようやく手に入れたロゼリーヌの護衛騎士の職務も、一緒にロゼを守ると誓ったジェフリーとの約束も。全部全部。根こそぎ、奪い去られる。
絶望しながら、ウラノスが消えていった扉を見ていた。
私の狭い視界の中に、幼馴染みジェフリーの姿が映りこむ。見たこともない怖い顔をしていた。
「ルウ。ちょっと来い」
地を這うような声に、息ができなくなる。
明日まで更新予定です。