第23筆 祈りのその前に
「夜通し、月神へ祈りを捧げる……」
ナルキの呟きに、そうだとノール大神官が頷く。
「陛下の体調回復を願ってだ。断るわけにもいかない」
「どなたの発案ですか?」
客間の椅子に座る、フィルバード公爵が顔をしかめた。
「ラウル殿下だ。同席もする」
「フィルバード公爵」
ナルキの声が尖る。
「これは、夜に一度、点眼しないと効果がないのです」
ナルキが懐から点眼薬を取り出す。
小指ほどの、黒い小瓶。
「わかっている」
フィルバード公爵が眉間を険しくした。
「儀式の前に、させばよかろう」
「そうですね。……身辺には、今以上に護衛をつけてください」
「わかった」
椅子から立ち、フィルバード公爵が窓辺へ移動する。夏盛りの庭が見下ろせる。セルランタの青い小花が見えた。
蜜を求めて蝶が舞う。
夕刻、ナルキは王城で湯浴みをする。
広い大浴場に、ため息が出る。
五十人は入れそうな湯舟。豊かな湯量。ドーム形の天井は高く、湯気に霞む。天窓から降る陽光で、茜色に染まっていた。
――ニーナ神殿とは違う。
殺意にも似た黒い感情に、ナルキは息を吐く。
湯舟を出て、湯衣の上から体を拭く。脱衣の間に移動すれば、黒髪の青年侍従が待っていた。ナルキの湯衣を脱がせ、丁寧な手つきで体を拭いていく。
衣を纏い、ナルキは続きの間に案内された。長椅子に、神官の儀式の衣が揃えられている。
「私の着ていた服はどうした」
「はい。こちらにございます」
青年侍従が壁のクロゼットを開けた。服が吊してある。
「お気に入りの御召し物ですか?」
「ニーナ神殿の窮状は、知っているだろう」
穏やかな表情を崩さず、青年侍従が頷いた。
「たかが服一着、と思うだろうが、贅沢はできない身でね」
白々しい言葉を口にしながら、ナルキはクロゼットに近づく。
上着に触れる。
懐の、僅かな膨らみ。命綱である点眼薬が入っていることに、安堵した。
「物を大切にする御心。さすが、月神に仕える神官様でございます」
青年侍従が頭を下げる。
自嘲的な笑いがナルキの顔に浮かんだ。
「君、名前は?」
一瞬、青年侍従が目を見張る。
「ヤマセと申します」
「覚えておくといい、ヤマセ」
ナルキは彼を一瞥した。
「私は神官見習い、だよ」
――それで終わるつもりはないが。
続く言葉は、胸の内で呟いた。




