第11筆 インク屋の本棚
トウリは声を掛けられないでいた。
主人の歩幅が大きく、歩調が速いせいではない。
珍しく険しい表情で、リットが夕暮れの城下の街を歩いている。
いつもと同じ小路に入る。インク屋の看板。
「邪魔するぞ」
扉を開ければ、付けられた鐘がカランと鳴る。
「おや、リット様。いらっしゃいませ」
木製のカウンターの奥。くせのある黒髪の青年が顔を上げた。他に客はいない。
「クード。サールド・フィルドの書物はあるか?」
「はい、ありますよ」
突然の注文でも動じない。クードが奥の棚から三冊、本を取り出す。
「王の悲劇を描いた〈アルバート王〉、身分違いの悲恋を描いた〈サンロマスの恋人たち〉、伯爵家の没落を描いた〈嵐の荒野でダンス〉。多作ですね」
クードがカウンターの上に置けば、リットがすぐ手を伸ばした。丸椅子に座る。
「ちょっと、読ませてくれ」
「どうぞ。今、紅茶を淹れますね」
やっとトウリが追いつく。
「クードさん」
「ああ、トウリ。いらっしゃい。ちょうど紅茶を淹れるところです」
ちらっとトウリが主人を見た。丸椅子に足を組んで座り、書物に集中している。
ページをめくる手が速い。
翠の目がせわしなく文字を追っている。速読。あっという間に、二冊目を手に取った。
「紅茶を準備するのと、読み終わるのと。どちらが早いですかね?」
トウリに向けて、クードが苦笑した。
ことり、と木製のカウンターの上にカップが置かれる。赤琥珀の水色から、湯気が立っている。
「うん。よくわかった」
そうリットが呟き、三冊目の本を閉じた。カウンターの上に積む。
「何がわかったんですか? リット様」
「ん? 悲劇は現実で間に合っているということさ」
カップを持ち、リットが紅茶に口をつける。
「うん。美味い」
「良かったです」
ほっとしたように、クードが微笑む。
「西領のソラド産か?」
リットの言葉に、クードが目を丸くした。
「……さすが、ですね」
「正解?」
「正解です。いま、市場で人気ですよ」
ふーん、とリットが鼻を鳴らす。紅茶を飲む。
「悲劇も城下で人気か? クード」
「そうですね。幸福な結末の〈白雪騎士物語〉も根強い人気ですが」
「悲劇ねぇ……」
木製のカウンターの上に、リットが片肘をつく。
「リット様」
「なんだ、トウリ。真剣な顔をして」
「僕はいつでも真剣です」
「そうか。それは知っていた」
気のない返事に、トウリが眉根を寄せた。
「――どうされたのですか?」
一拍の沈黙。
「どう、とは?」
翠の目が眇められる。
「なんだか、様子がおかしいです。店に来る時だって、考え事をしていました」
「俺だって考え事ぐらいするぞ」
「怖い顔で?」
トウリの切り返しに、リットは押し黙った。侍従の茶色い瞳が、真っ直ぐに主人を見つめる。
「フィルバード公爵のお屋敷で、ナルキ様にお会いしてから。様子がいつもと違います。どうされたのですか」
トウリが重ねて尋ねる。
「……どうもしていない」
リットが目を逸らした。
「はい、嘘」
きっぱりと断言したトウリに、クードがくすりと笑う。
む、とリットが唇を尖らせた。
「なんだ。笑うなよ、クード」
「ふふふ。すみません。やりとりが微笑ましくて」
クードがリットのカップに紅茶を注ぐ。
「何か、悩み事ですか?」
「……まーな」
リットが深く息をついた。
「私にお手伝いできることは、ありますか?」
クードの申し出に、束の間、リットは考える。
「そうだな……。ニーナ神殿について、知っているか?」
「フィルバード公爵の領地の近くの、月神を祀った神殿ですね」
リットが頷く。
「近くに、閉山となったニーナ銀山がある」
「ああ、シンバルの国境近くの。銀が枯渇して……二十数年経ちますね。
昔はニーナ神殿も、銀山と共に栄えていましたが。今は地方の貧しい神殿に落ちぶれてしまいましたね」
「そんな落ちぶれた神殿に、多額の寄付をする利点は何か?」
リットの問い掛けに、クードは手を口元に当てて考える。
「そうですね……、買収でしょうか?」
物騒な言葉が店内に響く。