7、裏側
二月にもなると中学三年生の会話の殆どが受験や進路の話で持ちきりとなる。
「あいつは私立に合格した」だの「一般で落ちたらどうしよう」だのとどれも実のない話ばかりだ。
竜太は勝手に耳に入ってくる会話に辟易しながら頬杖をつく。
包帯の巻かれた左手を軽く握ったり開いたりしてみると、痛みはあるが問題なく動いた。
一見ズタズタに切り裂かれた派手な傷口だったが、深さが大したこと無かったのは幸いだった。
痕が残るかまでは分からないものの、この程度の怪我なら数日の内に包帯も取れて絆創膏で事足りるようになるだろう。
二週間後に控えた入試に影響はなさそうだ。
そんな事をぼんやり思案していると机に一つの影がかかる。
竜太の隣には何故か戸田愛奈が仁王立ちしていた。
「天沼さぁ、受験前にそんな大怪我するとかバっカじゃないの!?」
「戸田には関係ない」
露骨に顔を背ける竜太の態度が癇に障ったらしい。
愛奈はバンッと勢いよく机を叩いた。
「何よ! 人がせっかく心配してやってんのにさ!」
「頼んでない。いらない」
キンキンと怒鳴り付ける彼女は悪目立ちする。
竜太がしまったと思う頃には時すでに遅し。
面白がった友人達がワラワラと集まりだしてしまった。
「出たぁー。戸田のツンギレ」
「かーらーのー、天沼の塩対応~」
いつの間にか前の席の男子生徒も振り返りながら友人達と一緒になって騒いでいる。
愛奈が「何よー!」と地団駄を踏んで怒れば怒るほど彼らは盛り上がっていく。
一体何がそんなに面白おかしいのか理解できず、竜太は置いてきぼりを食ったように頭を掻いた。
ふいに前の席の男子が竜太の机に出しっぱなしだった黒いシャープペンシルに目を落とす。
「あれ、天沼のシャーペン、すげぇカッケーのな」
「本当だ、高そー」
それはハルがクリスマスに贈ったシャープペンシルであった。
ジロジロと見られるのはあまり気分が良いものではない。
竜太は曖昧に返答してペンをしまおうとする。
ところが、前席の彼の動きの方が僅かに早かった。
彼は竜太のペンをつまみ上げるとクルクルと器用に指先で回しだす。
「いーなー、コレ。なぁなぁ、オレのシャーペンと交換してくれよ」
「は? 嫌に決まってんだろ」
周りの友人達も「何言ってんだか」と笑いながら突っ込んでいる。
誰もが冗談だと思っていたが、どうやら彼は本気だったらしい。
彼は素早く自分の筆箱から深緑のペンを取り出すと竜太の眼前に差し出した。
「いやぁ、マジでさ。オレのシャーペンもほら、すっげブランドもんだし! 中学の入学祝いにって、親戚のオッサンが買ってくれたチョー良いヤツ!」
「お、おいおい……」
悪びれなく「ほらよく見てみって!」と言い放つ彼の発言に突っ込めず、周りの人間の笑顔が引きつる。
「嫌だって言ったのが聞こえなかったの? そんなに良いヤツなら、自分で大事に使えよ」
竜太の声のトーンが低くなり、不穏な空気が漂い始める。
「だぁってよぉ、三年も使って飽きちまったんだよ。あ、大丈夫! 傷も汚れも全っ然ねぇからさ」
心配すんなって! と明るく笑う彼に我慢できず、愛奈が怒りをぶつけた。
「あんたねぇ、さっきから何なの!? 天沼断ってんじゃん! 良いからそれさっさと返しなよ!」
愛奈が頬を膨らませて詰め寄るが、空気の読めない彼は少し楽しそうに「えぇ~、でもよぉー」と態とらしくペンを振る始末だ。
ガンッ
「キャッ……!」
前触れ無く竜太が机を蹴り、前席の彼の椅子にぶつかった。
勢い自体は大したことなかったものの派手な音が教室内に響き渡る。
突然の乱暴な行動に一同は静まり返った。
「そのペンはお前の親戚がお前の事を思って選んで買ってくれたんだろ。なら、俺にそのペンは相応しくない」
「んーだよ、シャーペン位ぇでんな固ぇこと言うなってー」
「しつけぇよ。良いから返せ。それをくれた人は、俺の事を思って俺の為にそれを贈ってくれたんだ。お前に相応しくない」
あまりの剣幕に恐れをなしたのか、お調子者の彼も流石にたじろぐ。
「えぇ~、何だよぉ、そんな怒んなよぉ。天沼ちょっと怖ぇんだけどー」
怯えを混じえながら彼はやっとペンを返す。
その行動を見届けた周りの者達はホッと表情を緩めた。
この大事な時期に喧嘩などあっては洒落にならない。
気を抜いた誰かが「天沼も物に執着すんのなぁ」と言ったのを愛奈は聞き逃さなかった。
口をへの字に結んだ彼女は、右手だけで器用にペンをしまう竜太を見下ろす。
「……もしかしてそのペン、御守りの人に貰ったの?」
何も答えない竜太の代わりに友人達が「誰それ?」「もしかして前に噂んなった年上の彼女?」と色めき立つ。
あまりの煩わしさに「別に彼女じゃない」と言おうとした竜太だったが、口をついたのは「お前らには関係ない」という言葉だった。
放課後、何故か愛奈は竜太の後をつけてきた。
途中まで帰る方向は同じだが一緒に帰る程親しい間柄ではない。
「何。いい加減鬱陶しいんだけど」
竜太は立ち止まると同時に冷たく言い放つ。
愛奈は忙しなく目を泳がせてから、意を決したように口を開いた。
「あ、あんたってさ。世与高、受けんだよね。その……高校の先輩の事、す、好き、なの?」
「はぁ?」
何故そうなるのか、何を言っているのかと、竜太は怪訝な顔で彼女を振り返る。
正直、彼は世与市内の高校ならどこでも良かった。
世与高校を選んだのはただ単に自宅から一番近かったからというだけの話である。
いつになくしおらしい彼女は「違うの?」とコートの裾を握りしめている。
その瞳は僅かに潤み、頬は林檎のように赤い。
何ともいじらしい仕草の愛奈を目前にしながら、彼の思考は明後日の方を向く。
(何でこう、同年代の奴って、すぐに好きだの付き合うだのって面倒くさい話になるんだろう)
竜太とて当然、源一郎や七里達を好きな気持ちと特定の異性を好きになる気持ちが違う事は理解している。
理解はしているが、今一つピンと来ないのだ。
それが人とは少しズレた感覚だという事もそれなりに自覚している。
(俺ってそんなにおかしいのかな)
人と違う劣等感なのか、焦燥感なのか──
チクリと刺す胸の痛みを、彼は単純に「苛立ち」だと捉えた。
「下らない事ばっか言ってんなよ」
愛奈を振り切って帰ろうと歩きだした瞬間、どこからともなく強い視線を感じた。
不快としか言い様のない、舐め回されるような気配が纏わりつく。
しかも気配は一つではないようだ。
空気が質感を持ったように重苦しい。
(……これはまた、随分とタチの悪そうな奴が来たな……)
埃が充満する密室にいるような息苦しさを感じる一方で、竜太は胸の奥から沸き上がる確かな高揚感を感じていた。
思わず緩む口元を抑えきれず、彼は咄嗟に愛奈に話しかける。
「俺、もう帰るから。戸田も早く帰れよ。……じゃ、また学校で」
そのまま自分を見張っている何者かの目を誤魔化すようにニコリと笑う。
「……え、えぇぇ!?」
愛奈はあり得ない物を見たかのように目を丸くして、どこか機嫌良さ気に立ち去る竜太の背を見送るのだった。




