5、生霊
地に伏せる黒い女は徐々に半透明になっていく。
「何なんだよ、こいつ……」
桜木が塩の袋を握りしめたまま女を見下ろすと、声に反応したかのように女がガバリと顔を上げた。
『これは違う私じゃない違う違うんです違うの違ったのこんなんじゃない違う違うこんなの間違い違ったんですこいつは違うの本当に違う全部間違いなの最初から違ってた違う間違いなの』
いつかに聞いた覚えのある言葉の羅列だ。
映画館での苦い記憶を思い出し、桜木はウッと息を呑む。
そして薄まりゆく女の顔を確認すると、信じられないといったように後ずさった。
「お、大場……?」
竜太は明らかに見知った反応を示した桜木を見上げる。
「お兄さん、この女誰だか分かるの」
「あ、あぁ…………中学ん時の……元カノだ」
桜木の返しを聞いた途端、女は悲痛な悲鳴を上げる。
女は「違う、まだなの違ったの」と繰り返しながら霧散した。
女の消滅と同時にハルの体が力なく崩れる。
竜太の右腕だけでは支えきれない。
慌てて北本と大和田が駆け寄り、彼女の体を支えた。
ハルを女性陣に任せ、彼は左手を軽く振って桜木に向き直る。
ピッと血が地面に飛んだ。
「さっきの女、違うって言ってたけどどういう事?」
「それは、分かんねぇ。……元カノっつっても、中二の時に一ヶ月付き合っただけだし……高校上がってからは一度も話してねぇんだ」
何が何だか分からないと頭を振る桜木に大和田が食って掛かる。
女の姿は見えずとも、先程まで何かが居た事は把握したらしい。
「何でそんな昔の女が出てくんの!? 大体、大場ってウチのガッコの大場!? あいつ生きてんじゃん!」
「だぁから、知らねって!」
「ちょっとちょっと、カスミも桜木君も落ち着いてよ~」
動揺と混乱が入り交じる中、ハルが小さく身じろいだ。
いち早く気付いた北本が彼女の肩を軽く揺さぶる。
「ハル! 大丈夫!?」
「う、うん……? んぅ……」
どこかボケた反応だが、先程までの異様な様子ではない。
一気に安堵した北本と大和田は良かった良かったと抱きついて喜んだ。
状況を把握していないハルはくぐもった呻き声を上げながら目を白黒させている。
暫くの間されるがままの彼女だったが、やがて竜太が居る事に気付き悲鳴を上げた。
「り、竜太君! ち、血が!? 血が出てるっ!」
「へーきだから落ち着きなよ」
彼の左手はハンカチを握っていたものの、ジワジワと血が滲み出ていた。
割れた爪からも血が浮かび、ポタリとアスファルトに血痕を残す。
「そんな事より」と彼は再度桜木を見上げた。
あまりに痛がる素振りのない態度が不気味だったのか、桜木がビクリと肩を震わせる。
「あの女とハルさん、何の関係があるか分かる?」
「さ、さぁ……分かんねぇ。……なぁ宮原、大場実颯って奴、知ってっか? 確か、一組の奴」
「し、知らない……」
地面にへたりこんだままハルは記憶を辿る。
脳裏に浮かんだのは意識を失う直前に見た同学年の女子であった。
「……ちょっとおでこの広い、ポニーテールの人?」
「! そうだ、そいつだ!」
あの女子生徒が何者なのか把握したのは良いが、桜木との仲を誤解されて妬まれていたとまでは言い辛く、言葉に詰まる。
「っていうか、あの、私どうしちゃってたの……?」
青ざめるハルにどう説明すべきかと三人は顔を見合わせる。
完全に事情を把握している者は誰も居ないのだ。
口火を切ったのは竜太だった。
「ハルさんは所謂、生霊って奴に憑かれてたんだよ」
「い、生霊ぅ!?」
派手に驚く桜木を無視して、竜太は自身の鞄からスポーツタオルを取り出す。
手伝おうと腰を浮かせる北本を手で断り、彼は左手にタオルを巻き付けた。
「あの女、よっぽどハルさんが妬ましかったんだろうね。それこそ成り代わってしまいたい位に」
「どうして、私なんかに……」
「心当たりはないの?」
うぐ、と押し黙るハルを見て、竜太は苛立たしげに鞄を肩にかける。
「言いたくないなら別に良いけど。とにかく、あぁいうのはまたすぐに憑いてくる。生霊飛ばした本人の意識が変わらない限り、根本的な解決にはならない」
「そんな……」
怠さを押し殺して彼女はフラフラと立ち上がった。
自分の体を他者に奪われるのはこれで二度目だが、決して慣れる事はない。
大和田が悔しげに吠えた。
「じゃあ大場に頼んでさ、もう生霊出すなって言えば良いんじゃないの?」
それは名案だと北本が表情を明るくしたが、竜太は「無理だろうね」と肩を竦める。
「こういうのって、無自覚の場合が多いらしいし、頼んでどうこうって話じゃないと思うよ」
「じゃあ、どうすりゃ良いのよ! アタシはもうあんなハルは見たくないっての!」
(あんなって……私、何をやらかしちゃったんだろう……)
騒ぐ大和田を無視して、竜太はジッと桜木を見上げる。
視線に気付いた桜木は顔面蒼白でバッと頭を下げた。
「悪ぃ宮原! 多分、俺のせいだ!」
「えぇ!?」
勢いに気圧され、ハル達は一歩後ずさる。
桜木は腰を九十度に折ったままポツポツと話し出した。
中学二年に進級してすぐの頃、仲が良かった大場に告白されて何となく付き合い始めた事──
その日を境に嫉妬と束縛が激しくなり、堪えきれず半月で彼女を避けるようになった事──
一ヶ月経つ頃に別れたいと告げた事──
中々納得しない彼女を必死に説得し、とりあえず距離を置こうと言ってなんとか別れた事──
それ以来、一度も話をしていない事──
「まさかとは思うけどよ。もしかしたら、大場は俺と宮原が仲良いのを知って……それで……」
北本と大和田がそんなまさか! と顔を顰める。
「それって、中二の時の話なんでしょ?」
「自然消滅もいいとこじゃん。今更あり得なくない!?」
でもじゃあ何で大場がハルに、と三人の言い合いは白熱していく。
ハルは口も挟めずオロオロと皆の顔を見回すばかりだ。
「……多分、その大場って人の中では、まだお兄さんとの関係が終わってないんだろうね」
それまで黙っていた竜太が皮肉交じりに話す。
「だから、『今は距離を置いてる彼氏』と仲良くしてるハルさんが気に入らなかった……とか?」
なんて事だとハルは頭を抱えた。
大場に宣戦布告をされている以上、竜太の考えがほぼ正解なのだろう。
黙ったままでいる訳にもいかず、ハルは大場に呼び出されて注意された事をほのめかした。
その発言を聞き「マジかよ……」とショックを受ける桜木に対し、竜太は「やっぱりね」と自分の考えが当たった事をどこか喜んでいるようだった。
「で、でもどうしよう……私と桜木君は本当に何でもないのに。どうしたらただの友達だって、大場さんに分かってもらえるのかな……」
「お、おぅ……」
引きつる桜木の表情と憐れむ北本達の様子から何らかの事情を察したらしい。
「ハルさんも残酷だね」と目を細める竜太の同情ともとれる言葉に、桜木はガクリと項垂れた。
「俺、どうしたら良いんだ……?」
「知らない」
容赦ない切り捨て方に全員が黙り込む。
気まずいと思ったかは定かではないが、彼は頭を掻きながら「でも」と口を尖らせた。
「何とかしなきゃ、ハルさんも困るでしょ」
「え、あ、うん……」
何か策でもあるのか……その顔からは考えを読み取る事が出来ない。
戸惑う四人の高校生を気にも止めず、彼は顎に手を当て考える素振りをする。
「……その大場って人、今から呼び出したり出来る?」
「あー、いや、俺今のあいつの連絡先知らねぇや……悪ぃ」
居心地悪そうに答える桜木の肩を北本が叩く。
「フッフッフー! 私にまっかせなさぁ~い!」
スマホを片手に北本は笑顔でサムズアップする。
その画面には大場実颯の名前が表示されていた。




