3、変化
二月に入り、世間ではバレンタインに向けての話題が多く取り上げられるようになった。
それはハルの周りでも例外ではない。
女子生徒達は互いに何を渡すか、誰にどう渡すかで盛り上がっていた。
「やっぱハルは桜木に渡すん?」
「……えっと、渡すとしても皆と同じ義理だよ?」
「え! マジで? 何で?」
悪気なく聞いてくる志木を大和田がたしなめる。
北本の生温い視線を浴びたハルは「何ででも、だよ」と俯いた。
ややあって、志木は「あ!」と思い出したかのように手を叩く。
「もしかして、楽与祭の時に来てたあの子がハルの本命だったりして!?」
「もう、そうやってすぐからかうんだから……」
困り果てる反応が面白かったのか、志木はケタケタと腹を抱える。
「ごめん、ごめん。ま、頑張って! これでも応援してんだからさぁ!」
「ユーコちゃん、声でかいって……」
志木は全然反省していない様子でハルの肩をバシバシと叩く。
それ以上言い返す気力もなく、彼女はやれやれと肩を落とすのだった。
その日の放課後、ハルは知らない女子生徒に呼び止められた。
上履きの色で同学年という事は分かったが、見覚えがないので隣のクラスの生徒ではなさそうだ。
気の強そうな顔立ちをしており、広めのおでこを出したポニーテールが印象的である。
彼女の目は何故か怒りに燃えていて、ハルは逃げる事も出来ずに校舎裏に連れていかれてしまった。
「あんたさぁ、随分調子乗ってるみたいだね」
ひと気のない校舎裏に着くなり言われたのがこの言葉である。
もしやと思ってはいたが、こんな漫画やドラマのような呼び出しが本当に行われるとは思わなかった。
複数で取り囲むのではなく一対一な所はまだ良心的なのかもしれない。
「あの、一体どういう……?」
「とぼけないで、陸斗の事よ!」
「……桜木君?」
ようやく止まっていた思考が再稼働し始める。
恐らく彼女は桜木に惚れていて、自分と彼との仲を疑っているのだろうと推察する。
ならば誤解さえ解けば解放される筈だと、ハルは慌てて首を振った。
「私達、そんなんじゃなくて、ただの友……」
「はぁ!? 私達ぃ!? 仲良いアピールのつもり!? ざっけんじゃねーよ!」
ガッとすぐ横の校舎の壁を蹴られ、ハルはヒッと小さな悲鳴を上げる。
冷静さを欠いている彼女には何を言っても伝わらない雰囲気だ。
「陸斗をどうたぶらかしたのか知んないけどさ、もう二度と彼に近付かないでくれる?」
「いや、だから、ただの友達で……」
「るっせーよ! いちいち言い訳すんな!」
ガッガッと続けざまに壁を蹴られ、次は本当に自分が蹴られるのではないかと危機感を抱く。
女子生徒は竦み上がるハルを見下すように「へー、そうやって大人しいフリして色目使ったんだ?」と冷たい目を向けた。
「人の男取るとかマジサイテーなんだけど! 騙されてる陸斗が可哀想。私にも悪いとか思わない訳!?」
「そんな……」
無茶苦茶に言われている内に、だんだんハルも腹が立ってきた。
大体相手は彼女一人だ。
見た目だけなら先日険悪になった八木崎の方がずっと怖い。
ハルは声が震えないよう気を付けながら努めて冷静に口を開いた。
「桜木君は、ただの友達です。なにも騙してなんかないし、それに私、あなたが誰なのかも知りません!」
「はぁ!? 言い逃れすんじゃねーよこの泥棒猫っ!」
(泥棒猫なんて、本当に言う人居るんだ……)
目をつり上げて興奮しきりの彼女に反し、ハルの頭に上った血がスゥっと下がっていく。
何でこんな目に遭わねばならないのか──早く帰りたいものだと遠い目をしてしまう。
完全にヒートアップしてしまった彼女は止められそうにない。
「アタシはねぇ! 陸斗と、」
ズズ……と重苦しい気配を感じ、うつ向き気味だったハルはハッと顔を持ち上げる。
彼女の背後には二メートル程の大きなモヤのような黒い人影が立っていた。
(いつの間に……!?)
どこかで視たような気がするそれは、彼女に覆い被さりながらハルに向かって両腕を伸ばしてくる。
避ける暇がない。
「……ぅ、ぐ……っ」
女子生徒は何事かを吐き捨てると鼻を鳴らして立ち去ってしまった。
酷い暴言だったが今のハルの耳には届かなかった。
(ヤバ、苦し……)
人影がハルの体を包み込む。
まるで中に入り込む隙を狙っているかのような執拗な纏わり付き方だ。
「うぅ……ぅ」
体が動かない。
以前遭遇した首吊り男の時と似て非なる感覚である。
ハルは胸を押さえ、呻きながら抗う。
(入って、来ないで……! 来ないで!)
足がガクガクと震えだし、その場に崩れる。
何かがヌルリと入ってくる感覚を最後にハルの意識は途絶えた。
翌日。
ハルは何も言わずに朝食をとり、無言のまま家を出た。
両親は何事かと怪訝な様子で彼女を見送るが、嫌な事でもあって元気が無いだけだろうという認識に留まる。
しかし学校ではそうもいかない。
能面を思わせる無表情ぶりに、彼女をよく知る友人達はその異様さに凍りついた。
北本が何を言っても、大和田がいくら声を荒らげても、志木がどれだけ肩を揺すっても、何の反応も示さないのだ。
いくらハルが大人しい性格とはいえこの無反応ぶりは明らかにおかしい。
この日の彼女は全ての意思と感情を無くした人形のようであった。
行動は他の者と足並みを揃えている。
授業で指されれば答えられるし、教室の移動も出来る。
だが、それだけだ。
私語は一切発しない。
不気味なまでに大人しいハルに業を煮やした大和田は、昼休みになると同時に桜木を教室の隅へ引っ張り出した。
「あんた、ホントに何も知らないの!? アレ、どう見ても普通じゃないよ!」
「本当に知んねぇんだって!」
他の生徒の視線を気にしながら小声で問いただす大和田に、桜木は相当参った様子で肩を落とす。
彼もまた、朝からハルに無視され続けて凹んでいた。
話題の当人は周りの視線などお構いなしに黙々と弁当を口に入れている。
その行為は食事というよりも、ただ弁当を処理するだけの「作業」にしか見えない。
北本は少し考えてから、思いきったように八木崎に声をかけた。
「ね、ね。八木崎君。ちょっとハルに近付いてみてくれる?」
「は? 何でだよ」
急に話を振られた彼は心底嫌そうに引いてみせた。
北本は言いにくそうに口に手を当てて「実は……」と声をひそめる。
「前に私が調子悪かった時なんだけどね。八木崎君が近くにいる時だけ、体が少し楽になるって事があったんだよ。もしかしたら八木崎君、不思議な癒しパワーとかあるんじゃないかな? って……」
「それマジ? 八木崎すごいじゃん。ちょっと試しにやってみてよ」
「くっだんねぇ」
茶化し気味の志木を睨み付け、彼は露骨に顔を背ける。
その話に目を輝かせて飛び付いたのは桜木だった。
桜木は藁をも掴む思いで八木崎の両肩を掴み、ハルの方へと押しやる。
「ばっ! 何すんだ桜木!」
「いや、そこを何とか! 人助けだと思ってやってくれ!」
大和田も「やれる事はやってみよう」とハルの肩を八木崎の方に押しやった。
ギャーギャー騒ぐ一同に、クラスメイトは珍しいとは思いながらも特に気に止める者は居ない。
ただふざけ合っているだけだと思われたようだ。
根負けした八木崎が「わぁったから押すんじゃねぇ」と抵抗を止めると、桜木と大和田も押し付けるのを止める。
彼は意味分かんねぇとブツクサ言いながらそっとハルの肩に手を伸ばした。
バチッ
「痛ぇ!」
突然、何かが爆ぜるような乾いた音と衝撃が走り、八木崎は反射的に手を引っ込める。
まるで見えない何かが拒絶したようだ。
不可思議な現象を目の当たりにした一同は何が起きたか分からず静まり返る。
唯一視えてしまった桜木だけが額に汗を浮かべて後ずさった。
桜木の目にはハルの顔付近から黒い「何か」が飛び出して八木崎の手を弾いたように見えた。
位置的に顔のどこから飛び出したのかまでは見えなかったが、どうしても嫌な光景を想像してしまう。
微妙な空気が漂う中、北本は「やっぱダメかぁ~」と頭を抱えた。
八木崎は痛々しげに手を擦り、「もうやんねぇかんな」と教室を出ていく。
ハルは頭を微動だにせず、ただ黙々と咀嚼を繰り返している。
これ以上はお手上げだと、北本達は渋々自分達の昼食にありつくのだった。
教室を出た八木崎は一人廊下の片隅でスマホを眺める。
画面には兄である「七里忍」の名前が表示されており、彼は電話の発信画面で指をさ迷わせていた。
結局発信する事無く画面を戻すと、次は竜太の名前を選択する。
「チッ……気に入んねぇ……」
しばらく迷った後、彼は「宮原がヤバい」とだけ打ち込み、送信した。




