1、ご厚意
年末年始は大きな事件もなく過ぎ去り、三学期は比較的平和に始まった。
平和といってもあくまでハル基準としての話である。
変なモノは相変わらず毎日視えていたし、彼女なりに怖い思いもしていたのだが、これまでの怪異が強烈過ぎた。
今までの恐怖体験を乗り越えてきた彼女にとって、ちょっとやそっとの恐怖は寝れば忘れる程度の些事となっていた。
竜太とはクリスマス以降会っていない。
事件も無ければ用事も無い上、相手は受験生である。
一般入試を控えた大事な時期に連絡を取るのは憚られた。
ハルも負けじと勉強に力を注ぐ日々を送る事となる。
桜木からは冬休み中に一度だけ、市外のプラネタリウムへ行こうと誘われた事があった。
ハルは彼の事を親しい友人として大切に思っている。
しかし周囲が煩いのもあり、二人きりで会うのは気が進まずにいた。
その思いに応えるかのように、当日は待ち合わせ場所で黒い人影に出くわしてしまう。
人影は妙にしつこく付きまとい、結局プラネタリウムは行けずに終わる。
激しく落ち込む彼の姿には胸が痛んだが、彼女としてはある意味ホッとしたのは秘密の話である。
(気のせいか桜木君と出掛けると、クセの強いオバケに当たる気がする……)
そんな事を考えるハルに、彼は「宮原と二人だと、なーんか怖ぇのによく当たんだよなぁ」と漏らした。
不運の原因がどちらにあるのかなど知るすべもない。
こうしてハルの人間関係は良くも悪くも何ら変わり映えのないままであった。
そんなある日の事である。
(うぅ、寒い……)
北風が吹き付ける中、ハルはマフラーで口元を隠し、塾に向かって歩いていた。
週に四日も通っていれば道もすっかり慣れたものである。
「おーおー、こん寒ぃ中、今日もお疲れさんだぁなぁ」
「あ、こんにちは」
いつも通る家の前で、よく見かけるチョビヒゲの老人が車を拭いていた。
どうやら洗車していたようだ。
その老人は小柄だがふくよかな体格をしており、ハルが通る度に挨拶をしてくれる人の良さそうな人物である。
名前までは知らない。
表札を見れば分かるのだろうが、帰りは夜も遅い為、わざわざ確認した事がなかった。
彼女は赤い鼻を誤魔化すように会釈すると、足早に塾を目指した。
(うわっ!? ビックリした……!)
ある曲がり角で彼女は危うく躓きかける。
曲がった先の足元に若そうな男がうつ伏せで倒れていたのだ。
正確には人のような「何か」である。
その人物はブロック塀に沿うように、両手両足をピシリと真っ直ぐ揃えて伏せっていた。
(病気とかで倒れてる……って訳じゃなさそうだよね……何だか不自然過ぎる)
危うく足を踏む所だったとヒヤヒヤしながら距離をあけて通り過ぎる。
倒れている人物は剃り込みの入った金髪で、龍の描かれた気合いの入ったスカジャンとボロボロすぎるダメージジーンズを履いていた。
やたらと先端の尖った靴が見えた事で、彼女はあぁ、と一人納得する。
(まっすぐ過ぎるから不自然なのか……)
普通にうつ伏せになった場合、足首は立っている時のような角度にはならない。
この人物の姿勢は重力を無視して、まるで浮いているかのようにあまりにも真っ直ぐな姿勢で倒れていた。
(よく分からないけど、怖そうな見た目だし、関わりたくないなぁ……)
どう見ても一昔前の不良のような格好をしている為、別の意味でも恐怖する。
彼女はそのまま振り返る事なくその場を離れた。
問題は帰り際だった。
ハルは塾を出た瞬間心臓が飛び出すのではという程驚いた。
玄関を出て足を踏み出そうとした先に、来る途中で見かけた金髪の男が横たわっていたのだ。
慌てて跨いだ為踏みつける事はなかったが、前のめりに転倒する所であった。
(あっ……ぶな……!)
地面に片手をつき、激しい動悸に襲われながら息を吐く。
刺すような冷たい空気の中、背後にいる筈の足元の気配は弱い。
チラリと確認するも金髪の男は微動だにせず、ただ真っ直ぐな姿勢で地に倒れていた。
(動かれても怖いけど、全然動かなくても不気味……)
ハルはゾワゾワと鳥肌が立つ腕を擦りながら逃げるように帰宅した。
その翌々日、学校が終わった彼女は少し重い気持ちで塾へと向かった。
(また居たら嫌だなぁ……)
もう御守りは持っていない。
それが妙に心もとなく感じ、ハルは身震いしながら鞄を握りしめた。
「おーおー、まぁたお勉強かぁ、偉ぇなぁ」
「こ、こんにちは」
いつもの家の前を通りかかると、いつものチョビヒゲ老人がいつものように道を掃いていた。
ギクリと強張るハルの様子に、彼は不思議そうに太い首を傾げている。
彼の足元には先日視た金髪の男が例の如くうつ伏せで倒れていた。
(やっぱり、まだこの辺に居るんだ……)
老人はニコニコしながら「大丈夫、頑張って勉強してこいよぉ」と片手を振る。
適当な愛想笑いだけ返し、彼女はそそくさとその場を後にした。
(無害なら良いんだけど、気味が悪いんだよなぁ……)
また思わぬ場所に移動していたらと考えると怖いが、対処法は何も思い浮かばない。
ただ何事も起きないよう祈るばかりだった。
嫌だと思う時間程すぐに訪れる。
講習を終えたハルは心細い思いで塾を出る。
今回は玄関前に横たわる者はいなかった。
(良かった……でも、安心出来ない。いつだって、予想外な事が起きるのが一番怖いんだから)
彼女は足元に注意を払いながら帰路につく。
夜の住宅街は灯りが点々と灯っている為、かえって物がよく見えるのが恐ろしい。
ただのごみ捨て場のネットですら一瞬怯んでしまう。
(あれ? あの家の前に、誰かいる……?)
ハルはチョビヒゲ老人の家の前に立つ人影に目を奪われた。
(……は?)
「おーおー、お疲れさん」
まだ少し距離があるものの、シルエットと声からしてあの老人だというのが分かった。
なぜこんな夜遅くにいるのかと疑問に思う彼女だったが、近付いて初めてその異様さを理解する。
「こーしてりゃ動けねぇで、大丈夫だっかんなぁ。安心して帰れよぉ」
彼はいつものように人の良さそうな笑顔で金髪男の背中の上に立っていた。
両者共にびくともしない。
男も老人も、まるで浮いているかのように不自然にそこに居た。
ハルは何も言えず、顔を伏せて彼らの横を走り抜ける。
老人はふらつきもせず「こーしてっからもう平気だで」とカラカラと笑った。
(何がどうなってるの!?)
踏みつけているから、移動出来ないから大丈夫という意味なのだろうか。
なぜ人の形を成している者を踏みつけて平然としていられるのか──
まさか自分が塾で勉強している間、ずっとこの寒空の下あの男を踏みつけていたというのか──
考えれば考える程、その異常さに背筋が凍る。
老人のまるで善意の塊のような笑顔が頭から離れない。
あれが百パーセントの親切心だったとしても、それは彼女の常識では考えられない物だった。
老人が何者なのか嫌な予感に心臓が激しく脈打つ。
(……あのおじいさんには悪いけど、これ以上考えるのは、やめよう……)
軽い頭痛がして眉間を押さえる。
何も考えないようにしながら彼女は夜道を駆け抜けた。
その翌日、あの家に住む老人の葬儀が十日程前に行われていた事を知る。
彼がいつから生身でなかったのかハルには見当もつかない。
あの家の前を通る事を止めてしまった為、まだ居るのかさえも分からない。
もしまだ居るのだとしたら、あの老人はいつまであの金髪の男を踏みつけるつもりなのだろうか。
わざわざ「もう大丈夫です」と言いに行く度胸は彼女には無かった。




