2、母子
オギャア、オギャアァァ、アァァ──
ハンドベルの澄んだ音色など全然耳に届かない。
泣き声はじわじわとハル達の方へと接近していた。
(参ったな、そろそろ七里さんの奥さんが出るのに……)
一度席を外すか、我慢してやり過ごすか……
ハルはスマホに付けた御守りをこっそりと握りしめる。
どうしようかと悩んでいる間にフラダンスの番が回ってきてしまった。
こうなっては忍の御守りを信じて鑑賞を続けるしかない。
(……大丈夫。聞こえない、見えないふり。いつもと何も変わらないじゃない)
ハルは涼しい顔でステージを眺める。
フラダンスのチームは皆同じ髪型とメイクのせいで誰が七里の妻か遠目には判断出来なかったが、ゆったりとした笑顔のダンスは実に楽し気である。
これで泣き声さえなければ……とハルは仕方なしにクリスマスカラーのハワイアン衣装を楽しむ事にした。
隣の志木はフラダンスに興味がないらしく欠伸を噛み締めている。
ギャァァア、オギャアァ、ァアァァ──
(……精神的にキツいなぁ、これ)
いい加減うんざりしていると、泣き声に混じってボソボソと低く呟くような女性の声が聞こえだした。
(何? 泣き声が邪魔でよく聞こえない……何て言ってるの……?)
呟きは赤ん坊の声と同じ方向から聞こえるようだ。
うまく聞き取れずもどかしさが募る。
オギャアァ、ギャアァァ、オギャアァァァ──
──……ません、この子……わた……代わ……お願……ます……
(何だろう?)
声はハルの後ろの列を練り歩いているようだ。
オギャアァァ、ァァアァ、ギャアァ──
──……の子……私の……わりに……願い……ます……どうか、代わ……に……すみま…………
(……あぁ、『すみません、どうかこの子を私の代わりにお願いします』って言ってるのかな?)
ハルは女性が泣き止まない赤ん坊に困り果て、あやすのを手助けして貰おうとさ迷っている姿を想像した。
しかしここで振り向くつもりはない。
ハルは少し申し訳なく思いながら無視を続けた。
赤ん坊の癇癪が鼓膜を荒々しく刺激する。
いよいよ泣き声が真後ろまで来た時、フラダンスの曲が終わった。
多くの拍手が送られ、十分間の休憩が入るとアナウンスが入る。
ホール内が席を立つ人々の音で騒がしくなると赤ん坊の泣き声はピタリと止んだ。
(良かった……良いタイミングだったみたい……)
志木が両手を上げて伸びをする。
「ん~~っ。肩凝った! やっぱ私じっとしてんの苦手ぇ~!」
「はは……一旦外出る?」
ハルの提案に志木は「賛成~」と荷物を手にして立ち上がった。
どうしても気になってしまい、ハルは立ち去る前に右隣の男性に声をかける。
「あ、あの、大丈夫ですか……? その、具合いが悪そうですけど……」
人見知りのハルが動いた事に志木は目を丸くする。
男性はビクリと肩を跳ねさせると脂ぎった顔でハルを見上げた。
「あ、あぁ、はい、だ、大丈夫、大丈夫です……」
どう見ても大丈夫ではない顔色だ。
ハルは意を決して言葉を繋げる。
「えっと、一度、外の空気、吸ったらどうですか……? ここ、少し籠ってるし……」
男性はハッとした様子で額の汗を拭った。
そこまで頭が回らないほど混乱していたらしい。
「いやぁ、ホントそうですね、そうします、そうします」
彼はそそくさと立ち上がると足をもつれさせながらホールの出入り口へと向かって行った。
志木が心配そうに「あのオッサン、汗ヤバくなかった?」と眉根を寄せる。
あの様子ではもう戻って来ないだろう。
ハルは気持ちを切り替えて鞄を持ち直した。
「うっわ、混みすぎ!」
ホールを出たハル達は早々にトイレを諦める。
トイレの列は通路まで並ぶ混雑ぶりだった。
ここに居ても仕方ない。
二人がホールに引き返す途中、通路の端に先程の男性が所在なさげに佇んでいるのが目に入った。
彼もハルに気付いたのか会釈をしている。
無視する訳にもいかず、ハルは小さく会釈を返した。
「あのオッサン、大丈夫かな?」
「……どう、だろ?」
あれほど怯えていたのに帰るつもりはないらしい。
誰かの演目を観る為に残っているのかもしれない。
ハル達がホールに戻ろうと彼の前を通りすぎると、男性は何かを決心したように後を付いてきた。
ギョッとする志木と視線を交わし、ハルはぎこちなく男性を振り返る。
「あ、の。大丈夫、ですか? あまり、無理はしない方が……」
「……ありがとうございます。大丈夫、声が、声だけだから、大丈夫。妻を、妻を観るまでは、帰れないんで……」
まだ少し取り乱しているようだが、やはり帰れない理由があるらしい。
志木は男性からは見えない角度で頭に向かってクルクルと人さし指を回した。
ハルは苦笑しながら志木と男性の間を割って歩く。
「そう、ですか……」
「はい。声が、言ってる事がアレですけど、大丈夫。大丈夫。……今日は別居してる妻の晴れ舞台なんです。どれに出るか分からないから、全部観ないと……声なんか、何て事……」
真っ青な男性に同情はするが、何をどうしてやる事も出来ない。
ホールに入ると男性は前の方の立ち見が出来そうな場所に足早に行ってしまった。
彼が居なくなった瞬間、志木が大きく息を吐く。
「なーんかヤバそうな人だったねぇ。色んな意味で」
志木は「付きまとわれたらどうしようかと思ったよ」とおどけた。
「あ、ハル! 由羽子! こっちこっち!」
大和田が待ってましたとばかりに手を振る。
ハル達とは入れ違いに客席に来ていたらしい。
二人は大和田が左右に確保した、前から二列目の右寄りの席に向かう。
「おぉ、カスミ、席取りあざす!」
「お疲れ様、カスミちゃん」
「こっちこそ、来てくれてありがとね」
はにかむ大和田に「聞こえなかった」などとは口が裂けても言えない。
ハルは気まずい思いで大和田の右隣に座る。
(次は静かだと良いなぁ……)
切に願うハルだったが、残念な事に休憩が明けると赤ん坊の癇癪も再開されてしまった。
サンタ衣装の園児達が歌う可愛いクリスマスソングも台無しである。
オギャアァァァ、ギャア、ァァアァ──
泣き声は先程声が止んだ地点から聞こえているようだ。
恐らくまた左右に移動しながら前に詰め寄ってくるのだろう。
(アカリちゃんの劇、聞こえるかな、これ……)
恐怖よりも煩わしさの方が勝っている。
泣き声がじわじわと移動するにつれて北本の出番も近付いてきていた。
「あ、次、アカリ達だ」
大和田がデジカメを取り出す。
今回も動画を撮るらしい。
後で見せて貰おうと心に決め、ハルもスマホを準備した。
(そういえばアカリちゃん、子供向けの短い劇って言ってたっけ……)
ハルは赤や青の三角帽子の小人衣装を着た演劇部員達を眺める。
プログラムの紹介によるとこの劇は「黄色い小人と雪の舟」という、部員が一から書き下ろした作品らしい。
ギャアァァアァ、オギャアァァ、ァァ──
(……うん、全然分からない)
もはや諦めるしかない。
近付く泣き声に混ざり、また女性の声が聞こえ始める。
酷く陰鬱な声だ。
(また近いなぁ……)
主役らしい北本が黄色い小人の格好で動き回っている。
しかしそれに集中出来ない程、女性の声がハッキリと聞こえるようになっていた。
オギャアァ、オギャアァ、ァァアァ──
──……ませ……どうか……私の代わ……の子を……て下さ……お願……ます、すみま……
(お願いって言われてもなぁ……)
仮にこの母親が生者だったとしても、赤ん坊のあやし方などハルには分からない。
声はハルの後ろの列を移動し始めていた。
さっさと通り過ぎるのを祈っていると、ハルの真後ろに来た声がハッキリと聞こえた。
アァァァ、オギャアァア、ギャアァ──
──すみません、この子を、どうか、私の代わりに殺して下さい、お願いします。どうか、この子を殺して……
(…………は?)
耳を疑う言葉に、ハルは先程の男性と同じように固まった。
不穏な言葉を繰り返す女の声はハルの後ろを左に通り過ぎていく。
(代わりに……殺……? 何で、えぇ!? どういう事?)
これは気付いているとバレたらまずい奴かもしれない。
思わぬ方向から浴びせられた恐怖が今更になって危機感を刺激する。
思わずうつ向くハルに気付いた大和田が、その顔色を見て驚いた様子を見せた。
慌てて「何でもない」と口パクをするが何かあったのは一目瞭然である。
大和田は左手でデジカメを構えたまま、右手でハルの膝をトントンとあやすように叩いた。
そこで初めて自分の体が僅かに震えていた事を自覚する。
(ありがとう、カスミちゃん……)
彼女の兄が怯えていた時もこうして励ましていたのだろうか。
優しい手つきはハルの心を勇気づけるには十分だった。
とうとう泣き声がハル達の列にまでやってくる。
ハルは遠い目をしながらステージ全体を眺めた。
意図的に焦点を合わせないようにする。
視界の左端にグレーのワンピースを着たガリガリに痩せた女性が入ってくる。
(来た……!)
けたたましい泣き声が頭にガンガンと響く。
視界の端で、女性が座席に座る一人一人に向かって頭を下げているのが確認できた。
──すみません、お願いします、どうか、この子を私の代わりに殺して下さい、お願いします……
女性が志木の前に立つ。
筋の浮き出た細腕には黄ばんだおくるみが見える。
赤ん坊の姿までは確認出来なかったが、明らかに異様な空気を纏う女性に悪寒が走った。
(どうして、この人は、こんな事を言う人になっちゃったんだろう……)
女性が志木に向かって頭を下げた瞬間、ホール内に拍手がわき起こった。
ハルの体がビクリと反応する。
丁度劇が終わったらしい。
志木が「あれ、アカリの出番、もう終わりぃ?」と肩を回している。
女性の動きが鈍ったのが分かった。
「……あの、カスミちゃん、悪いけど……」
ステージを見つめながら呟くハルに、大和田は「オッケー」と笑いながらデジカメをしまった。
「由羽子、劇終わったし、ちょっと出ない? 今ならトイレも空いてるだろうし」
「お、良いねー。アカリと話出来たらどっかで食事でもしよう!」
次の出演者が出るまでの間にハル達はさっさと席を立つ。
「──っ!」
その場を離れる際、一瞬だけおくるみの中身が見えてしまった。
そこに包まれていたのは人間の赤ん坊ではなかった。
赤ん坊を抱く女性と全く同じ顔の首が真顔で泣き声を上げていたのだ。
ハルはオギャアと泣き喚く声を背にホールを出る。
今頃あの女性はハル達を飛ばして次の座席に座る者に頭を下げているのだろう。
「ハル、大丈夫?」
「うん、ありがとう。カスミちゃん……」
志木が居ない合間をぬってトイレの洗面台で短い会話をする。
「良いよ、別に。兄貴もビビってる時はしょっちゅうあんな感じで固まってたから、さ」
「そっか……凄いね、カスミちゃんは。気が利くし、優しいし」
「そんなんじゃないって!」
人間、怯えると硬直してしまう物なのかもしれない。
大和田との会話は「お待たせ~」と個室から現れた志木によって中断された。
あの男性は大丈夫なのかが気がかりだったが、やはりハルにはどうする事も出来ない。
(私は、優しくないな……)
遠くで男性の悲鳴が聞こえた気がする。
幻聴かもしれなかったが、しばらくの間ハルの良心が痛んだ。
作中に出てきた「黄色い小人と雪の舟」の元ネタは同作者の短編童話作品です。
https://ncode.syosetu.com/n5451fd/
お子様に読み聞かせられる短いお話となっております。
ご興味のある方はそちらもどうぞよろしくお願いします。




