3、引き留める
寒空の下、ハルは休日にも関わらず制服にコートという出で立ちで自転車を漕いでいた。
まだ夕方の五時過ぎだというのに辺りはかなり暗い。
家まではあと十分位か。
帰り着く頃にはもっと暗くなっているだろう。
通り慣れない道はやけに鬱蒼として見え、自然とペダルを漕ぐ足に力が入る。
(塾かぁ……嫌だなぁ……)
ハルは以前から「成績が落ちたら塾に行く」と両親と約束していた。
先日の学期末試験の結果が散々だった為、彼女は塾選びを余儀なくされたのだ。
今は少し遠方の大きな学習塾の体験授業を受けてきた帰りであった。
いくらリナの事で落ち込んでいたとはいえ、それを成績不振の理由には出来ない。
落ち度は自分にあると、彼女は泣く泣く塾に行く決意を固めていた。
(分かっていた事だけど、やっぱりこの暗さは怖いなぁ……)
用水路の横を走りながらチラリと辺りを見渡す。
ひと気は皆無で道沿いには民家もない。
枯れ葉が残る木々がザワザワと音を立て彼女の不安を煽る。
(早く、帰ろう……)
高めのフェンスと植木のせいで用水路の中は見えないが、さざめく水音がその存在を強く主張している。
ぽつぽつと灯る外灯だけでは心もとなく、ハルは必死に違う事を考えた。
(そういや、この先をずっと左の方に行くと七里さん家だ。今度、髪を鋤いて貰いに行こうかな。また伸びてきたし)
重くなってきた前髪を一撫でし、意図的に気持ちを明るい方に持っていく。
怖いと思うから怖い事がやって来るのだと何度も自分に言い聞かせる。
(そういえば、竜太君や七里さん、あと忍さんにも、何かお礼しなくちゃって思ってたんだった。重くならない程度の物で……どんなお礼が良いかな……難しい……)
うーん、と考えていると突然ガコンと自転車が止まり、ハルは大きく前につんのめった。
「いっ……た……! 何?」
咄嗟に両足を地面に着いたので転びはしなかったものの、ハンドルに上体をぶつけてしまった。
(チェーンが外れた? それとも枝か何かに引っ掛かった?)
ハルは胸の痛みに顔をしかめながら振り返り、後輪を見下ろす。
真っ先に目に飛び込んできたのは皺だらけの老人の笑顔だった。
性別も分からない程の枯れた肌のそれは、アスファルトの道路に仰向けに横たわり、ヘドロにまみれてニタニタと歯を見せている。
明らかに悪意のある不快な笑顔だ。
「ひっ!?」
ハルは小さな悲鳴を上げ、反射的にペダルに足を乗せた。
しかし自転車は固定されたように全く動かない。
(やだ! 何で!?)
パニックになりながらもう一度振り返ると自転車の後輪が異様に細長い指でガッチリと掴まれていた。
皺くちゃの笑顔と目が合う。
薄い髪には藻が絡み、歯は泥水でお歯黒のように黒く染まっている。
ドブのような生臭い臭いが鼻を掠め、彼女の思考が一瞬止まった。
(に、逃げなきゃ……逃げなきゃ!)
ガコガコとペダルを踏むが動く気配はない。
後輪からガガガ、ギギギと嫌な音が聞こえ始め、ハルの気は更に動転する。
力では到底敵わない。
この強い力の矛先がいつ自分の足に向くともしれない事に危機感が募る。
(もう、無理……そうだっ!)
ここでようやく自転車を捨てて逃げれば良い事に気付く。
ハルはハンドルを押す力を緩めず、場を脱するべく片足を持ち上げた。
しかし老人は彼女の意図を察知したのか、ほぼ同時に自転車を手放してしまった。
「きゃっ……!」
急に軽くなった自転車にバランスを崩し、ハルはガシャンと派手に転倒する。
受け身を取る事も出来ず、左半身が勢いよく地面に叩きつけられた。
「う、痛っ──」
あまりの痛みに悶絶していると、ベチャリと水分を含む何かが這い寄る音がした。
体勢を整える暇も無く、何かが近付いて来るのがわかる。
ベチャ グチャリ
(に、逃げなきゃ……逃げ、)
焦る気持ちとは裏腹に体は動かない。
身体中がズキズキと痛む上、左足は倒れた自転車の下敷きになっている。
ヌチャリ
冷たい手が右足に触れる。
このまま掴まれると思った瞬間、パチリと静電気のようなものが走った。
嫌な気配が消えたのを感じ取り、怖々と右足を見る。
老人の姿はどこにもない。
一体何だったのかと固まっていると「おい、大丈夫か!?」と前方から誰かが駆け寄ってくるのが分かった。
(人だ……助かった……)
ハルは痛みに呻きながらも何とか上体を起こし、駆け寄って来た人物を見上げる。
「あ……」
「何だぁ、宮原かよ。……随分派手にすっ転んだなぁ」
そこにはやれやれと肩を竦めた八木崎がハルを見下ろしていた。
こんな人通りのない道で知り合いに会う確率はどの位だろうか──
ハルは気まずく視線を逸らし、起き上がろうともがく。
八木崎はヒョイと自転車を立て直すと彼女の手をひっ掴んで無理矢理起き上がらせた。
「あ、ありがとう……」
「うわ、すげぇワンパクな足んなってんな」
八木崎に指摘され足を確認すると、左足は膝から脛にかけて大きく擦りむいていた。
よく見ると左手の側面も擦りむいている。
外灯のおかげで暗がりでも浮かび上がる血がはっきり見えてしまい、ハルは改めて動揺した。
今まで事故などに遭った事のない彼女にとって、人生で一番の大怪我である。
「あ、えと、かえ、帰るね。起こしてくれて、ありがと」
ハルは挙動不審に自転車のハンドルを握り、ふと自転車の後輪を見てしまった。
「ひっ……」
「あ? 何だぁ? これ」
自転車の後輪の一部がボコボコと無惨に変形していた。
当然パンクもしている。
その形はまるで握り潰したかのような手の跡のように見えた。
もしこの力で足を掴まれていたらただでは済まなかっただろう。
そう思い至った彼女の顔からサッと血の気が失せる。
何かがおかしいと気付いたのか八木崎が自転車のハンドルを奪った。
「……こんじゃ帰れねぇべ。近くに俺のじいちゃん家があっからよ、とりあえず寄ってけ」
「あ、ちょっと……!」
言うが早いか八木崎はガコガコと変な音を立てながら自転車を押して歩きだす。
こんな恐ろしい場所に置いていかれては堪らない。
傷口はジクジクと熱を持ち、掴まれかけた右足はじっとりと湿っている。
ハルは痛む体をふらつかせながら、慌てて八木崎に続いた。
振り返る勇気は無かったが背後には何の気配も感じられない。
(……良かった、憑いて来てはないみたい……)
行きずりだったのだろう。
恐らく居なくなったのだと判断し、ハルはそっと肩の力を抜いた。
八木崎の案内で辿り着いた場所は彼女のよく知る場所であった。
「え……ここが、八木崎君のおじいさん家、なの?」
「おう。まぁ上がれや」
そこは紛れもない、ナナサト床屋だった。
扉には閉店中の看板が掛かっているが店の明かりはついている。
ブラインドから漏れる白い蛍光灯の明かりが眩しくて頼もしい。
(七里さんのお孫さんは、忍さんだけじゃなかったって事? あ、もしかして八木崎君って忍さんの従兄弟?)
八木崎は自転車を停めるとハルの腕を掴み、無遠慮に店の扉を開けた。
カランコロンと軽快な音が鳴り響く。
「じいちゃん、ちょっと良いかー」
「おぉ? 何だ浩二、忘れ物かぁ?」
最後の客の散髪中だったらしい七里が、血を流すハルを見て驚きの声を上げる。
「どうしたんだぁ、ハルちゃん! そん怪我ぁ!」
「……は?」
その声に反応したのは散髪中の客だった。
パッと振り返ったその人物は竜太だった。
八木崎以外の全員が各々驚きの表情を浮かべる。
「なんかチャリでコケたらしくってよぉ」
八木崎は話しながら強引にハルの腕を引き店の奥へと向かっていく。
七里は「大丈夫なんか!?」と慌てて鋏を置いた。




