5、病院②
紙の人影が現れた更に翌日、思わぬ見舞い客が訪れた。
「……どうも」
「ど、どうも……」
無表情の竜太がハルのベッドの足元に立っている。
袖をまくった制服姿である事から、学校から直接来たのではないかと考えられた。
(まさかわざわざ来るなんて……一体、何の用だろ……?)
彼には数日前に、いつ暇かと聞かれていた。
そして入院中だと伝えるとどこの病院なのかを尋ねられた。
まさか病室まで来るとは思わず、余程重要な用件なのではと身構えてしまう。
(っていうか、ダラダラしてる所、見られた……)
気休めに手櫛で髪を整えながらゆっくりと起き上がる。
恥ずかしがるハルを見下ろし、竜太は「それ、呪いのせいなんて思ってないよね」と声をひそめた。
それとは盲腸の事だろう。
「思ってないよ。……運が悪いな、とは思ったけど」
「なら良い」
まさかそんな事を確認する為に来た訳ではあるまい。
ハルはおずおずと口を開いた。
「それで、えっと、何の用?」
「……先週行った修学旅行の土産、持ってきた」
「え、私に?」
竜太は「次いつ会うかわからないし」と小さな紙袋を投げて寄越す。
頭も体も追い付かず、袋はキャッチし損ねたハルの体に当たり、毛布の上に落ちた。
「貰って、いいの?」
「逆にここで駄目って言う奴の気が知れないんだけど」
ひねくれた言い方が実に彼らしい。
ハルは「ありがとう」と控えめに微笑み、いつになくソワソワとした気持ちで紙袋を開ける。
袋に入っていたのは淡い桃色の御守りだった。
「可愛い……!」
「そう?」
目を輝かせる彼女に対して竜太の目は冷めきっている。
(こんなに女の子らしい物を、わざわざあの竜太君が……あの竜太君が選んでくれたんだ……)
その光景を想像するだけで微笑ましい。
ハルはフニャリとだらしない笑顔で御守りを握りしめた。
そこではたと御守りに施された刺繍に気付く。
「これ、厄除けって書いてある……」
「手遅れだったみたいだけどね」
「うぅ……」
まさか御守り一つで盲腸を回避できる訳でもなし、と分かっていながらもつい遠い目をしてしまう。
「どこ行ったの?」
「京都」
「そっか……」
私も修学旅行に行きたかったと落ち込むハルに、竜太が何かを言いかけた。
「あらあら、今日は随分と可愛い男前が来てくれてるのねぇ」
隣のベッドに座っていた老婦人から楽し気な声がかかる。
丁度カーテンを開けていた為、隣からは丸見えだったのだろう。
彼女は竜太に会釈をしながらニコニコしている。
可愛い男前というチグハグな表現が可笑しくて、ハルは口元を隠して笑った。
「……ちっ」
それが気に食わなかったのか、竜太はシャッとハル側のカーテンを閉めてしまった。
あまりに失礼な態度にハルは目を見開いて驚く。
隣からは「あらま、照れ屋なボーイフレンドなのねぇ」と相変わらず呑気な言葉が聞こえてくる。
「ちょっと、竜太君!」
抗議の声を上げるハルの耳元に、竜太はズイッと顔を近付けた。
手を付かれたベッドが少しだけ沈む。
突然の接近に反応できず、ハルはピシリと固まった。
そもそもベッドの上では身動きの取りようもない。
彼は耳に息がかかる距離で小さく呟いた。
「(隣は空きベッド)」
「──は……?」
何を言われたか瞬時には理解できず、ハルはドクドクと騒がしく脈打つ音を聞きながら頭を働かせた。
「なに、言って……」
動揺している間に竜太はスッと身を引く。
手が離れ、反発して揺れるベッドの感覚に鼓動が更に速まる。
(隣って、あのおばあさんのベッドが空き? でも、だって、今まで毎日話してた……何で空きベッドにおばあさんが、えぇ……?)
看護師が来る時、あの老婦人と話をしている所を一度でも見た事があっただろうか──
両親が見舞いに来た時、彼女と一度でも挨拶を交わしていただろうか──
そういえば、ハルが目覚めたタイミングで声をかけられる事が多々あった。
例えカーテンが閉まっていても──
何故今まで気付かなかったのか。
ハルは衝撃の事実にグルグルと目を回す。
竜太は「鈍すぎ」と半ば諦めた様子でベッドから一歩離れた。
「じゃ、渡したから帰る」
目的は達成したとばかりに帰ろうとする竜太を、ハルは慌てて引き止めた。
「ちょ、待って! ど、どうしよう!」
「何が」
何がと言われても即答は出来ない。
まだ混乱収まらぬ頭で彼女は必死に言葉を探した。
「だ、だって、私、今までずっと気付いてなくて……今更、どうしたら……」
「無視すれば」
何て事ないように言われても、あれ程人の良い老婦人を今更無視など出来ようもない。
しかし黒い人影の件も思い出してしまい、なに食わぬ顔で今まで通りに接する事も難しかった。
「ハルさんには、見分ける力が足りないんだと思う」
「見分ける、力?」
「危ないと判断しなかったから気付かなかったんでしょ。なら、もう別に良いじゃん」
竜太は隣のベッドの方を見ながら「気にしないで過ごせば」と面倒くさそうに肩を回す。
そう簡単に割り切れる程ハルの神経は太くはない。
彼女が生者ではないと気付いてしまった以上、やはり怖いものは怖いのだ。
「気にするなって言われても……」
退院までまだ日がある。
その間、あの老婦人に声をかけられたら何と答えれば良いのか、もう分からない。
竜太は少し考えた様子で腕を組んだかと思うと、ハルが声をかける間もなくカーテンの向こうへと姿を消した。
「ちょっと良いですか」
「あらあら、何かしら」
「彼女、人見知りで気疲れしやすいんです。出来るだけ放っといてやって下さい」
まさか普通に話しかけにいくとは思わなかった。
ハルは聞き耳を立てながら固唾を飲んで右側のカーテンを見つめる。
老婦人の「あらぁそうだったの」という残念そうな声に罪悪感が募る。
「すみません」
「良いのよ~。優しいボーイフレンドねぇ」
「……失礼します」
カーテン越しだが嫌そうに顔をしかめている様子が目に浮かび、ハルは別の意味で冷や汗をかいた。
竜太はすぐにカーテンの隙間から顔を覗かせる。
「じゃ、お大事に」
「えっ、あ、うん。ありがと……」
言うが早いか竜太はシャッとカーテンを閉じ、本当に帰ってしまった。
あっけない別れ方はいつもの事ではあるが、流石に今のはちゃんと礼の言葉が伝わったのかすら疑わしい去り方である。
(もうちょっと話くらいしてっても良いのに……)
喉まで出かかった「バイバイ」の行き場はどこにもない。
モヤモヤした気持ちのまま、ハルはパッタリとベッドに倒れ込んだ。
それ以降、隣のベッドから声をかけられる回数はめっきり減り、ハルもカーテンを開く事はなかった。
退院する際に隣のベッドを確認したが、カーテンの開け放たれた空のベッドがあるだけだった。
「ハル、大丈夫? 忘れ物はない?」
「大丈夫」
母親に生返事をしながら、ハルは老婦人の笑顔を思い出す。
彼女はどこかに行ってしまったのか。
それともまだこのベッドで来る筈の無い見舞いを待っているのか。
うら寂しさを胸に抱き、ハルは病室を後にした。
──あらあら、退院おめでとう。
そんな声が聞こえた気がして、彼女は思わず振り返った。
怖がった事を少しだけ後悔し、母に気付かれないよう小さく会釈する。
──また来てねぇ。
(え──?)
ギョッとしてベッドを見る。
何もない。
ハルはドキドキと騒ぐ鼓動を無視して扉を閉めた。
(……やっぱり、竜太君の言う通り、無視するのって大事なんだな……)
最後に聞こえた言葉は、果たして見舞いとしてなのか、患者としてなのか。
やけに不穏に聞こえたあの老婦人らしからぬ口調から、ハルは後者として受け取った。
もう来たくないと御守りを握りしめ、彼女の入院生活は幕を閉じた。




