4、病院①
定期試験は無事に終わり、ハルはそこそこ満足のいく結果を残す事が出来た。
呪いを行っている人物からのアプローチも特に無い。
相変わらず不思議なモノや奇妙なモノを見かけたりはするものの、比較的平和な生活を送っていた。
そんな矢先、彼女にある悲劇が襲いかかる。
(ホント、ついてない……盲腸だなんて……)
五日前、ハルは突然の腹痛に襲われ病院に搬送された。
思い出すだけで脂汗が流れそうな程の痛みに、医師からは虫垂炎だと告げられる。
手術に入院とトントン拍子に事は進んだが、問題は時期が悪かったという一点に尽きる。
(修学旅行……行きたかったなぁ)
明日は修学旅行で沖縄に行く予定だった。
入院期間は十日間の予定である。
無理に退院を早める訳にもいかず、彼女は泣く泣く修学旅行を欠席する羽目になったのだ。
──絶対、お土産買ってくるからね!
──早く治しなよ、写真送るから。
北本や大和田達から届いた励ましのメッセージを思い出しては寂しさを募らせる。
考えようによっては試験後で良かったとも取れるが、本人からしたら試験より修学旅行の方が何倍も重要である。
あまりのタイミングの悪さについ呪いのせいにしたくなったが、呪いが関係ない事はハル自身感づいていた。
持ち前の不運さに嫌気がさしつつ、彼女はゆっくりと天井を見上げた。
年季の入った天井、周囲を囲う少し黄ばんだカーテン。
四人部屋の病室だが斜め向かいは空きベッドなのでさほど五月蝿くはない。
枕元の時計を確認すると午後三時を過ぎていた。
(暇だから、つい昼寝ばっかりしちゃう……生活リズム狂うなぁ……)
授業に遅れない程度に勉強はしているものの、どうにも集中力が続かない。
腹の傷口が突っ張る感覚に小さく呻いていると、カーテンを隔てた右隣から声がかかる。
「あらあら、起きたのね」
「はい、いつの間にか昼寝しちゃってました」
ハルは照れ笑いを浮かべながら三十センチ程カーテンを開けた。
隣のベッドのカーテンは大きく開け放たれており、細身の老婦人がにこやかに座っている。
彼女はハルが入院する前から入院しているというお隣さんである。
向かいのベッドの無愛想な患者と違い、品良く穏やかな口調で話す所が好印象な女性だ。
彼女は度々ハルを気にかけてくれていた。
「あらまぁ、そんじゃあ夜眠れなくなっちゃうべ」
「ですね」
彼女も毎日暇をもて余しているらしい。
月に二度、見舞いに来てくれる息子夫婦と孫に会うのが唯一の楽しみなのだと以前話していた。
彼女の口からたまに出る孫の話を聞く度に、ハルは胸を痛めた。
(おじいちゃんも、こんな感じで私に会うのを楽しみにしてたのかな……)
源一郎は入院していた訳ではなく突然ポックリと逝ってしまったのだが、孫に会いたがっていた事に違いはない。
老婦人の話に相槌を打ちながら、ハルは彼女の孫が一日も早く見舞いに来る事を願っていた。
その日の深夜、ハルは急に目が覚めてしまった。
誰に起こされた訳でもないのに何故いきなり覚醒したのかと、寝ぼける暇もなく思考を巡らせる。
(嫌だなぁ……こういう時って、大抵ろくな目に遭わない……)
チラリと枕元の時計を確認すると深夜二時を回っていた。
これまた不穏な時間帯である。
ハルは毛布を深めに被った。
向かいのベッドからは時計のカチコチ音が微かに響いている。
──ガサッ、ガサッ
(何かが、来てる……?)
廊下の方から、広げた新聞紙をなびかせるような音が聞こえ始めた。
それは直感に近いものだったのかもしれない。
音は小さい上に距離がある筈だ。
それなのに何故かこの病室に向かって来ているのだと確信した。
──ガサッ、ガサッ
(この音は……)
音が病室の前に到着する頃には、ハルの中で音の主に心当たりがついていた。
(昼間よく視る、黒い紙の人……かな……)
黒い紙の人とはハルが日中の病院内でよく見かける人影の事だ。
遠目には西洋のローブを頭から被っているような真っ黒の人影なのだが、近くで視るとクシャクシャの黒い千代紙のような表面で形を成している異形の存在である。
その黒い紙の人影は、昼間は院内の隅や廊下で佇んでいたりトイレや売店の列にじっと並んでいたりとよく分からない存在だった。
人間のような凹凸はなく、動いている所は視た事がない。
──ガサッ、ガサッ
(入ってくる気だ……!)
廊下から漏れる僅かな明かりに影がかかる。
カラカラカラ、と軽い音を立てて病室の扉が開く音が聞こえた。
ハルは毛布にくるまりながら息を潜め、必死に寝たふりをする。
(やだやだやだ、何!? こっちに来ないで……!)
ハルの祈りも虚しくガサゴソ音はゆっくりと室内に侵入してきた。
もし起きているとバレたら……と最悪の事態を想像してしまい、慌てて両手で口を塞ぐ。
──ガサッ、ガサッ
気を失えないもどかしさに震えつつ、毛布の隙間から様子を探る。
暗い室内にも関わらず、カーテンにはクッキリとローブを被ったような人影が写っていた。
(やっぱり、あの紙の人だ……)
人影はハルのベッドを通過し、隣のベッドの前で立ち止まったようだった。
彼女の頭に「死神」という言葉が浮かぶ。
カーテンが閉まっていて隣のベッドの様子は分からない。
静かな点からみて、あの老婦人は眠っているのだろう。
(おばあさんが、危ないかも……!)
どうしようとパニックになっていると、人影が声を発した。
「──っ!」
それは人の言語では言い表せない言葉だった。
言葉ではなかったのかもしれない。
腹にズンと響くようなおぞましい声は次々と発せられる。
数秒と堪えられず、ハルは強く耳を塞いだ。
(何!? 今の! これは、絶対聞いちゃ駄目な奴だ……!)
今泣く訳にはいかない。
見つかりたくない一心で固く目を瞑る。
しかし冴え渡る直感のせいで、人影がまだ何か言っている様子が手に取るように分かってしまう。
(どうしよう、どうしよう……!)
やがて人影は再びガサゴソと動きだした。
あの恐ろしい声は止んだらしい。
人影は今度はハルのベッドの前で立ち止まった。
(嘘……!)
次は自分の番かと戦慄する。
ところが人影はハルではなく向かいのベッドを覗き込んでいるようだった。
何かを感じ取ったのか「うぐぅ……」と向かいの住人から呻き声が漏れる。
(向かいの人まで……まさか、この次が私……!?)
ハルは血の気が引き、横になっているにも関わらずグラグラと目眩を感じた。
──ガサッ、ガサッ
暫くすると人影は満足したのか、向かいのベッドを離れて扉へと向かって行く。
(お願い、そのまま出ていって!)
──ガサッ、ガサッ
今度は祈りが届いたらしい。
人影はカラカラと扉を開けるとそのまま病室を出ていった。
気配が完全に消えた頃、ハルはやっと毛布から顔を出す。
新鮮な空気を吸い、右隣のカーテンを見やる。
(良かった……居なくなって……でも、おばあさんは、大丈、……)
緊張が解け、ハルは意識を失った。
翌朝、隣の老婦人に「おはよう」と朗らかに挨拶され、ハルは心から彼女の無事を喜んだ。
涙ぐむハルの様子に、彼女は「あらあら、怖い夢でも見たんかしら。そういう時はねぇ、枕を三回叩いてひっくり返すと良いんだって」などと呑気な発言をしていた。




