4、再遭遇
その日の夜、ハルは散々迷った末、桜木に下半身の女について知らせる事にした。
やたらとハルの身を案じる桜木に余計な心配をかけるのは本意では無かったが彼もいつアレに遭遇しないとも限らない。
桜木に電話をかけても大丈夫かとメッセージを送ると、すぐに着信が鳴り響いた。
スマホには桜木陸斗の名前が表示されている。
(早っ……)
ハルはあたふたと姿勢を正し、スマホを耳に当てた。
「も、もしもし。こんばんは」
──おぉ、どうしたよ?
遅い時間帯だからだろうか。
いつになく落ち着いた声量の桜木にどぎまぎとする。
はたして彼はこんなに低い声だっただろうか。
「あのね、今日……」
あくまで実害は無かったと強調しつつ異様な下半身を視た事を説明する。
始めこそ驚いていた桜木だったが、静かにハルの話を聞いていた。
普段の彼らしからぬ反応に少し戸惑う。
──なるほどなぁ、そりゃきめぇモン視ちまったなぁ。
「う、うん。だから、一応、桜木君にも教えておこうと思って……」
──おぉ、サンキュ。
(もしかして私、何かしちゃった?)
いよいよ不安が募った頃、桜木は意を決したように声を上げた。
──あ、あのさ、宮原! 明日は一緒に帰らねぇ!? やっぱ、ほら、何かあってからじゃ遅ぇし、早めに帰ろうぜ!
「え!? でもまだやる事残ってるし、桜木君だって、テニス部での準備があるんじゃ……」
──今日俺に仕事押し付けやがった浦がやるから、大丈夫だろ。
「けど、桜木君が居ないと、他の人達も困るんじゃないかな?」
彼には浦のように周りの迷惑を顧みない人間になって欲しくはない。
何より今日見た浦の働きぶりからして桜木と同等の仕事が出来るとも思えなかった。
渋る彼女に桜木も少し冷静になったのか「うーん」と唸る。
──そうだ! 宮原の作業が終わったら連絡くれよ。そしたら迎えに行くからよ。それまでは俺も自分の作業するし、それなら問題ねぇだろ?
「うーん……」
正直、またあの下半身と遭遇したとして彼が居た所で何が変わるとも思えなかった。
しかし一人でいるよりは心強いのも事実である。
「……じゃあ、そうしよっかな……」
──おぅ、それが良い! 俺も早く帰れるように頑張るからよ、宮原も頑張れよ!
「うん、分かった。迷惑かけちゃってごめんね」
──いーって、いーって、俺が勝手に心配してるだけだから。あー、ほら、宮原は命の恩人だしな!
(義理堅いなぁ……)
彼はまだこっくりさんの件でハルに感謝しているらしい。
いつの間にか普段通りの声量に戻っている桜木にホッとしながら、ハルは「大げさだよ」と笑った。
──……あー、じゃあ、また明日な。
「うん。おやすみなさい」
──おぉ……おやすみ。
通話を切ると自室の静寂がやけに沁みた。
桜木の声が耳に残っていなかったらあのハイヒールの靴音を思い出していたかもしれない。
彼の明日の予定を変えてしまったのは申し訳なかったが、やはり電話して良かったと思い直す。
(っていうか、あれ? ちょっと待って。桜木君が迎えに来るって事は……)
最近こそ落ち着いたものの、周囲からは桜木との仲を勘ぐられていた事を思い出した。
(……まぁ、桜木君がフレンドリーなのは今更か。彼に他意が無いって事は皆も、もう知ってるだろうし……)
ただ、多少からかわれるのは覚悟しておいた方が良いかもしれない。
ハルはうだうだ考えるのは止めてさっさと寝るべく電気を消した。
翌日、ハルはいつもより気合いを入れて作業に取りかかった。
彼女の「頑張る」の方向性が「早さ」ではなく「完成度」に注がれている事を桜木は知らない。
(やった、清書した資料、全部貼り出せた)
全体がなんとか形になり、見えてきた完成にクラスメイト達と喜び合う。
後は本番に向けての接客練習、そして当日に行う仕上げのみである。
随分早く終わったと皆が喜び勇んで帰りだす中、ハルは桜木に作業が終わった旨を連絡した。
「宮原ちゃんは帰らんの?」
普段仲良くしている友人の一人、志木由羽子が中々帰ろうとしないハルに声をかける。
答えに詰まっていると、たちまち志木の目が輝きだした。
女子の察知能力とは恐ろしいものである。
「何々? 誰か待ってんの? あ、もしかして、さく」
「おーっす、宮原! お疲れ!」
桜木が教室に入るなり元気良くハルの元へと駆け寄ってきた。
いつだったか北本が「桜木君って大型犬みたい」と言っていたのを思い出す。
彼も間の悪い時に来たものだとハルは額を押さえた。
志木は他のクラスメイトを引っ張りながら「じゃ、ごゆっくり!」とやけに楽しげに教室を出ていく。
彼はクラスメイトのお節介など気にする事なく「すっげー! めっちゃ完成してる!」と教室の変貌ぶりにはしゃいでいた。
「俺、最初の買い出ししかしてねぇんだよなー……なんか皆に悪ぃなぁ」
「一度も参加してない人も結構いるし、気にする事ないよ」
桜木は教室内のパネルや飾られた資料をぐるりと見渡す。
世与の歴史に興味が無くとも、クラスの皆が作った物には興味があるらしい。
ざっと見回した後、彼は「帰るか」と呟いた。
「俺もクラスの出し物、宮原達と準備したかったなぁ」
昇降口に向かう途中、桜木がポツリと漏らす。
どういう意味かと見上げるハルの目から逃れるように彼は視線を泳がせた。
「あー……なんか宮原が一緒だったら、怖ぇ奴が出ても、どうにかなる気がするんだよな、俺」
何それ、とハルは苦笑する。
買い被りすぎだと談笑していると突然耳に違和感を覚えた。
周囲の音が完全に消えたように感じたのだ。
桜木もほぼ同時に黙り込む。
互いに同じ異変が起きたのだろうと察し、二人は歩みを止めた。
「何だ……?」
カツーン、カツーン……
ハッと顔を見合わせる。
「これか」と口パクする桜木にハルはコクリと頷いた。
カツーン、カツーン、カツーン……
足音は二人のいる廊下の向こう側から近付いて来るようだ。
この廊下を曲がった先は旧校舎に繋がっている。
(もしかして、旧校舎から来ているの?)
少し歩けば下駄箱は目の前だ。
しかし足が動かない。
逃げる為とはいえ、少しでも足音の方に近付くという行動を体が拒絶していた。
「くそっ」
突然、桜木がハルの手を引いた。
ハルの体は壁に寄せられ、申し訳程度に桜木の体で隠される。
カツーン、カツーン、カツーン……
廊下の突き当たりから下半身が姿を現した。
ヒュッと息を飲んだのはどちらだろうか。
人らしからぬ質感の下半身は、スカートをふわりと揺らしながらハル達の方へと曲がって来た。
(やだ、こっちに来た! 怖い怖い怖い! それに寒い!)
ハルは堪らず桜木の背中をギュッと掴む。
動けないのは彼も一緒らしく、カタカタと震えているのが服越しに伝わった。
カツーン、カツーン……
下半身はツルリとしたマネキンのような足を器用に動かしている。
これが人間の足だったならかなりの美脚と言えただろう。
それは二人のもう目の前まで迫っている。
肌に刺さるような冷気に当てられ、二人は身を寄せて固まった。
カツーン……
女の下半身が二人の前でピタリと止まる。
ハルは一貫の終わりだと目を瞑った。
カツーン、カツーン……
下半身はゆっくりと二人の横に立つ。
「……?」
ゾワゾワと鳥肌が止まないが、何かをされる様子はない。
「な、んだ?」
桜木が掠れた声を振り絞る。
下半身は少し歩き出したかと思うと、再び止まりこちらを振り返る動作をした。
(何? どういうつもり?)
無機物じみた外見に反して明らかに意思を持った動きである。
恐怖に震えながらも二人は面食らった。
「……付いて、来いってか?」
下半身は再度ゆっくりと歩き出す。
顔を見合わせながらも動けずにいる二人を、下半身は何度となく振り返った。




