4、対峙
ハルは一人、橋の下に佇む。
日はとうに暮れており、辺りは夜の闇に包まれている。
この橋は以前赤いワンピースを来た女性を目撃した橋だ。
橋台と橋桁に遮られ、あまり灯りは届かない。
そんな暗がりの中、彼女は恐々と呼び出した人物を待っていた。
彼女の位置からだと橋以外にはそこそこ幅のある川と土手、一ヶ所に固められた粗大ゴミの山しか見当たらない。
穏やかに流れる川の音と虫の音が物悲しい空気に拍車をかける。
粗大ゴミの山にはその存在を隠すように大きなブルーシートが掛けられていた。
脇にはホームレスがいたと思われる痕跡もあったが、今は誰も居ない。
たまに橋や土手の上の道を自転車や車が通るが、ハルがここにいるとは誰も気付かないだろう。
ハルはブルーシートに背を向けて時間を確認する。
時刻は八時半を過ぎていた。
(もうこんな時間……遅くなるって連絡はしたけど、またお母さんに怒られるだろうな……)
重い気持ちになっていると誰かが土手から駆け寄って来た。
暗がりに加え、逆光になっていて顔はよく見えない。
その人物は「遅くなってごめん!」と息を弾ませた。
その声を聞き、ハルは待ち人である「竜太の姿をした誰か」だと判断する。
「ご、ごめんね。こんな時間に呼び出しちゃって……」
「平気平気。でも急にどうしたの?」
「夕方会ったばかりなのに」と不思議そうにする彼に、ハルは食い気味に弁明した。
「あの、その、夕方はあんまり話せなかったでしょ? それで、えっと、もう少し竜太君とお、お話、したいなって、思って……」
何を言うか予め考えていたにも関わらず、いざ本人を前にすると緊張して言葉がつっかえる。
本番に弱い自分をひっぱたきたい彼女だったが、相手は楽しそうに笑いだした。
明るい場所で見た時の笑顔とはまた違った空気を感じ、ハルは数歩後ずさる。
背中がガサリとブルーシートに当たり、これ以上彼とは距離が取れない事を悟った。
「え、えっと……?」
何となく身の危険を感じて冷や汗をかく彼女に、竜太の姿をした誰かはゆっくりと歩み寄った。
「ハルさん、そんなに俺と話したかったんだ? なんか嬉しいなー!」
「あ、う、うん……」
どこか下卑た笑い方である。
ハルは相手の顔がよく見えなくて良かったと下らない感想を抱く。
彼はすっと彼女の肩に右手を伸ばした。
「そんなに緊張しなくても、俺もハルさんの事──」
(今だ!)
ハルは伸ばされた右手にしがみつく。
その勢いのまま体を反転させ、ブルーシートをめくりながら彼の手を押し付けた。
ブルーシートの下には事前にハルが移動させておいた姿見が置かれていた。
呆気に取られていた彼だったが、すぐにまずい状況だと理解したのだろう。
慌てて鏡から手を離そうと暴れだした。
ハルは必死に腕にしがみついて抑え続ける。
竜太に体を取り戻される前に鏡を割ろうとしているのか、彼は滅茶苦茶に手足を動かす。
しかしハルの体が邪魔で思うようにいかない。
何度も背中を殴られ、足で蹴られる。
ハルは痛みに耐えながら、意地でも彼の右腕を離さなかった。
(ここで失敗したら、二度と竜太君が出て来られない! 絶対に逃がさない!)
暫くの間、鏡がガタガタと音を立てて激しい攻防が繰り広げられた。
両者互いに引っ張り合いをしているのだろう。
やがて彼の動きがピタリと止んだ。
「……よし」
そう呟く声を頭上で聞き、彼女はすぐに顔を上げる。
体を取り戻せたのかと確認するより早く、彼はハルごと引き寄せるように鏡から距離を取った。
(は? え? 何!?)
抱き止められるような体勢と状況についていけず、声も出せずに固まる。
腕にしがみついたまま硬直していると、鏡がカタリと揺れた。
反射的に振り返ると同時に彼女の両腕に鳥肌が立つ。
(この人が、竜太君の体に入ってたのか……)
激しく波打つ鏡の中に顔色の悪い細身の男性がぼんやりと映っていた。
鏡面が激しく波打っているせいでよく見えないが、二、三十代位だろうか。
恐ろしい形相で鏡を叩くその姿に、ハルは恐怖心と同情心の両方を抱いた。
鏡から微かに聞こえてくるのは「出せ」「ふざけんな」という口汚い怒声ばかりだ。
竜太は軽くハルの手を振り払い、足元に落ちていたコンクリートブロックの欠片を拾い上げた。
近くを通った車のライトが橋の下を照らす。
ハルは一瞬だけ見えた無表情の竜太の姿に息を呑んだ。
殆ど姿が映らなくなった男の顔も恐怖に引きつっている。
竜太は何の躊躇もなくブロックを振りかぶり、鏡に向かって投げつけた。
ガシャンと大きな音を立てて鏡面に大きな亀裂が入る。
悲鳴の様なものを最後に残し、声はパタリと聞こえなくなった。
その後も二度三度と石を投げつける竜太の行動に、ハルは明らかに引いた様子を見せる。
「な、何もそこまでしなくても……」
「念の為」
当然のように言われれば閉口するしかない。
姿見は土台だけ残して完全に割れ落ちてしまった。
(ここまでする……?)
もしかしたら思っていた以上に彼は怒っていたのかもしれない。
鏡を見下ろす竜太の表情からは真意が読み取れず、ハルは控えめに苦言を漏らした。
「やっぱり、やりすぎだったんじゃない、かな。……さっきの人だって、体を取られた被害者かもしれないし。助ける方法が、他にもあったかも……」
問答無用で叩き割ってしまったが、もしかしたら彼を救う事も出来たのではないか。
自分達が殺してしまったも同然ではという罪悪感に襲われる。
落ち込む彼女だったが、竜太は意味が分からないとばかりに首を傾げた。
「……もしかしてハルさん、あいつがまだ生きてる奴だったかも、とか思ってる?」
「え? ち、違うの……?」
「……あいつの体、よく見てなかった?」
「? う、うん……」
ハルは自分の認識が何か間違っていたのかと焦る。
説明する気が無いのか、彼は「あっそ」とだけ答えて背を向けた。
「……鏡は明日何とかする。ハルさんは何も気にしなくていい」
(何とかって、何をするんだろう)
歩き出す彼の背中をぼんやり見ていると「帰んないの?」と気だるそうに振り返られる。
「か、帰るよ……」
駆け足で土手に向かえば、竜太は再び前を向いて歩きだした。
(……気まずい、気がする……)
ハルはぎこちなさを感じながら黙々と歩く。
隣を歩く竜太を盗み見るが、相変わらず表情の読めない顔をしていた。
(やっぱり、気にしてるのは私だけ、かな)
先程まで大変な目に遭っていた上、こんなに遅い時間帯に出歩く事もそうは無い。
妙にざわついた気分である。
何か言った方が良いのかと悩んでいると竜太の方が早く口を開いた。
「ありがと」
まさか彼に礼を言われる日が来るとは思わず、ハルは目に見えて狼狽えた。
「正直、かなりヤバかったから助かった」
「え、いや、その。私こそ、いつも助けて貰ってたし……」
「それもそうだね」
「……」
(……うん、そうだけどさ。もっと言い方って物があるんじゃ……)
複雑な思いで口をつぐむが、やっといつもの彼が戻って来たのだと実感する。
長い一日を乗り切る事が出来た喜びに、ハルは体の痛みも忘れて口元を綻ばせた。
その後、無事帰宅したハルだったが、母親からは帰りが遅すぎると長い説教を受ける事となる。
彼女の長い一日はそう簡単に終わらないのであった。




