3、再会
家自体は更に奥まった所に建っている為、全体的な形はよく見えない。
ハルは人目を気にしながら空き家へと近寄った。
通りから五メートル程進んだ所に、ボロボロに錆びた金網のフェンスが立ちはだかる。
フェンスは大きく破れており、体を捩ればハルでも何とか通れそうな隙間があった。
(でもこれって、不法侵入だよね……)
流石にまずいのではと背後を確認する。
人通りは少ないままで、見ている者は誰もいない。
(どうしよう……)
ハルが躊躇していると何かが視界の隅で動いたような気がした。
ドキリとしながら端に目を向ける。
フェンスに対して垂直に立つように姿見が置いてあった。
噂の鏡とはこれの事だろうか。
入り口のすぐ横という事もあり、ハルは思い切って敷地の中に侵入する。
服を金網に引っ掛けないように気を付けながら穴をくぐると何とも言えない重い空気に包まれた。
それが罪悪感から来るものなのか、それ以外の何かなのかは分からない。
フェンスの彼方と此方で違う世界に立たされているようで、ハルはブルリと身を震わせた。
足元に当たる草やゴミに顔をしかめつつ、姿見をまじまじと見つめる。
(さっき何か動いた気がしたのは、これに私が写りこんだから……だよね。きっと)
何て事ない、自立するタイプの長方形の鏡だ。
大きさはハルの背たけと同じ位か。
服屋などでも置いてあるような、至ってシンプルな姿見に少し拍子抜けする。
雨風にさらされ砂埃が付いているがヒビなどが入った様子もない。
薄暗い中で自分と見つめ合うという不気味さはあるものの、これといった嫌な気配も感じられなかった。
どうやらここはハズレだったようだ。
ハルはガックリと肩を落とす。
(そういや、この鏡に願いを言うと、叶うんだっけ)
そんな都合の良い話がある訳がないと、ハルは自嘲気味に鏡の表面に触れる。
ザラリとした不快な感触がすると同時に、鏡の表面が水面のように揺れた。
(え──?)
サッと手を引っ込める。
鏡面はハルが触れた所を中心に波紋を広げていた。
「な、何これ……?」
思わぬ不思議体験に困惑していると、小さな声が聞こえてきた。
──……誰か……こに……い、の……
「え? な、何なの……?」
──……ルさ……そこ……るの……?
今にも消え入りそうな声は鏡から発せられている。
聞き覚えのある声だ。
ハルはバッと飛び付くように鏡に両手をついた。
「り、竜太君!? 竜太君なの?」
水面のように揺蕩う鏡面に竜太の姿が映りだす。
「竜太君っ!」
「……落ち着いて。ちゃんと聞こえてるから」
いつもと変わらないムスッとした表情の彼に懐かしさを感じる。
竜太も鏡に手をついているが、此方へ出る事はない。
まるでガラス越しに接しているようである。
近距離で見つめあっているような気恥ずかしさを感じ、ハルはつい手を離してしまった。
すると竜太の姿は揺めきながら消えていく。
慌てて鏡に手をつくと再び彼の姿が映し出された。
どうやら互いが鏡に触れていないと視認できないらしい。
何が何だか理解が追い付かずパニックになるハルに反し、竜太は至極冷静に「今日、何日?」と呟いた。
彼女が「九月七日」と答えると、竜太は忌ま忌まし気に「って事はあれからもう三日も経ったのか」と舌打ちをした。
「ね、ねぇ。どうしてこんな事になっちゃったの? 何で、こんな……」
「ドジってやられた。それだけ」
「それだけって……」
恐ろしく不機嫌な彼にかける言葉が見つからず、ハルはただおろおろするしかない。
竜太は苛立ちを隠す事なく口を開いた。
「最近、急にこの鏡にまつわる噂が広まってた。噂の内容はバラバラ。出所も不明」
「それって、願いが叶うとか、なりたい自分になれるとかってやつ?」
彼の言い方だとハルが知る話以外にも噂のバリエーションがあったのだろう。
どういう事なのかと怪訝に思っていると、竜太は「多分、誰かが意図的に流したんだと思う」と険しい顔で言い放った。
「? それって……つまり、どういう事?」
「……理由は分からない。ただ、噂の流し方が上手い奴がいるって話」
(そんな事をする人がいたとして、何の意味があるんだろう?)
いまいちピンと来ないハルの反応に、竜太は面倒くさそうに溜め息を吐いた。
「……とにかく、気になったからここに調べに来た。それで、今のハルさんみたいに鏡に触ったら、急に中に居た奴に引きずり込まれて、体を取られた」
ハルはそんなまさかと自分の手を見る。
鏡面は不自然に冷たく揺らいだままだ。
竜太は突然、「ほら」とハルの左手の指先を軽く掴んだ。
「ええぇっ!?」
すっとんきょうな声を上げると、彼はパッとハルから手を離した。
「こっち側からなら、鏡に触れてる人に触れるみたいだね」
非現実的な事の連続である。
ハルは久しぶりに目眩を覚えた。
(あり得ない、けど、目の前の竜太君が鏡に閉じ込められてるのは現実……私が、私がしっかりしなきゃ……)
このまま何もせずに帰る訳にもいかない。
右手を鏡面につきながら思案している彼からは不安や焦りといった感情が見られず、それが逆に彼女を不安にさせた。
「あ、あの……」
「……何」
ハルは彼の顔色を窺いながら提案する。
「わた、私が、竜太君の代わりに鏡に入るのは、どうかな? それで、竜太君が、竜太君の中に入ってる人を何とかして──」
「却下」
ハルとしてはかなり勇気のいる提案だったのだが、にべもなく切り捨てられる。
「大体、何とかって何。考え無しもいいとこだよね。リスクでかすぎ。もし失敗したら俺、ハルさんとして生きていく事になるかもしれない。そんなの死んだ方がマシ」
(そこまで言わなくても……)
分かりやすく落ち込む姿に呆れたのか、彼はやれやれと頭を振ると、渋い顔をしながら右手をハルの左手に合わせた。
「……まぁでも、ハルさんが来てくれたおかげで、手は考えた」
「そ、そうなの?」
見た目は触れ合っているのに彼女の手には鏡面の冷たさと固さしか感じられない。
彼は完全に違う世界にいるのだと実感してしまい、無性に泣きたくなった。
「はぁ…………悪いけど、今回はハルさんに頑張ってもらう」
本当に嫌で嫌で仕方がない、といった竜太の口調に涙が引っ込む。
どれだけ人に頼るのが嫌なのか──
今度はハルが呆れる番だった。




