2、出会い②
本来なら知らない人の家に上がり込むなどしない彼だったが、この老人は全く知らない人間ではなかった。
──宮原のじいさん。
学校や子供会などで何度となく耳にした名前だった。
週に何度か登下校の時に旗を持って立っているのを見たことがある人物だ。
少年も何度か挨拶を交わしたことがある。
宮原のじいさんこと宮原源一郎は手慣れた様子で少年の膝に消毒液をかけた。
「大した怪我でねぇで良かったなぁ」
「ほれ」と出された湯呑みに口をつけた少年は渋い顔を浮かべる。
淹れられていたのは紅茶だった。
微妙な顔の少年を見て源一郎は豪快に笑い出す。
「おめさん、紅茶ァ苦手だったか」
「う、うん……」
「おぉ、そら悪かったなぁ、俺ァ紅茶が一等好きなんだけんどよ。俺の孫も紅茶飲めねんだよ」
好き嫌いをしたにも関わらず、何故か嬉しそうに笑われてしまい、少年はきょとんとする。
そんな彼の湿った頭を源一郎はタオルでガシガシと拭き始めた。
「怖かったろ。でもなぁ、許してやんべ。アレも悪気はねんだ」
アレとは先程の女性の事だろう。
少年は「あいつ、何なの?」と源一郎を見上げた。
「何だろなァ。お化けかもしれんし、妖怪かもしれん。もしかしたら、幻かも分からん」
何だそれ、と少年は不満気に口を尖らせる。
「アレが『何か』は分からんが、『誰か』は知っとる。……元々、子供が好きな女でなァ。多分、ずぶ濡れのボウズが心配で、ついて来ちゃったんでねぇかな」
余計なお世話だとむくれる彼に、源一郎は「んだなぁ」と頷いた。
「ねぇ、宮原のじいさんが、さっきのオバサンみたいなオバケを追い払ったんだよね? どうやって追い払ったの?」
目を輝かせる少年の質問には答えず、源一郎は「うーん」と考え込む。
「……ところでおめさん、友達は居ねぇんか」
悪びれなく言う源一郎に、少年は「そんなのいないよ」と吐き捨てた。
「俺、こっちの奴等、皆嫌いだ」
「おめ、どっかから来たんか」
「……東京」
ほぅ、と源一郎は目を細める。
「あのな、ボウズ。人にあっちもこっちもねぇべ。良い奴は良いし、ヤな奴はどこ行ったってヤな奴だ」
場所じゃねぇと言い切られ、少年はまじまじと源一郎を見た。
口先だけで「こっちの皆とも仲良くしましょう」だの「誰でも話し合えば分かり合える」だのとのたまう教師達とは違う意見だった。
彼はもっとこの老人の話が聞きたいと思う。
しかし源一郎は「ほれ、そろそろ帰れ」と小さな背中を叩いた。
「ねぇ、宮原のじいさん。……俺、またここに来ても良い?」
縋るような目を向ける幼い顔を、源一郎は腰を屈めて覗き込んだ。
「おめ、名前は?」
「天沼竜太。四年生」
ピシリと姿勢を正す竜太少年に、源一郎は真面目な顔で答えた。
「竜太、まずは寄り道しねぇで、ちゃんと家帰れ。ランドセル置いて、家の人にどこ行くかちゃんと伝えろ。それが出来た時ゃ、また相手してやんべ」
「わ、分かった!」
竜太が子供らしく元気一杯な返事をすると、源一郎は満足気に頷いた。
それからというもの、竜太は毎日のように源一郎の家に足を運んだ。
「良いか、変なモンを見っけても、無視が一番だ。知らんぷりして、堂々と胸ぇ張っとけ。怖くても、怖くないフリだ」
「舐められたら負けだと思え。でもって、もし気付かれた時は全力で逃げろ」
源一郎の教えを竜太は忠実に守った。
胸を張って堂々と振る舞う内に、彼は本来の明るさと自信を取り戻していく。
いつの間にかいじめも沈静化していった。
苛めっ子の親や担任が家まで謝りに来たあたり、もしかしたら大人達の間で何かがあったのかもしれないが、彼にとってはどうでも良い事だった。
源一郎の家はとにかく客人が多い。
囲碁や運動仲間、茶飲み友達などバラエティーに富んだ老人達は皆竜太を可愛がった。
中には竜太や源一郎のように視える者もいた。
「昔の世与町にゃ、今よりもっと視える奴がいたんだ」
「何で世与町にいるとオバケが視えるの?」
彼の疑問に大人達は皆同じ答えしか口にしない。
「そういう場所なんだ、世与は。理由なんて、誰も知らん」
納得いかないながらも、彼は先人達の恐怖体験や打開策などを聞き、どんどん吸収していく。
年寄りばかりとつるむのも良くないと考えた源一郎は、度々近所の子供や友人の孫を庭に招待した。
自然と竜太は学校や学年の違う子供とも遊ぶようになる。
源一郎達の教えのおかげか、それとも孤独を感じなくなったからか。
彼が怪異に襲われる事はほとんど無くなった。
すっかり明るくなった竜太はいつも源一郎の後をついて回る。
そのヒヨコのような健気さに、地元の者達からは「まるで本当の孫のようだ」と暖かい目で見られるようになる。
一年も経つ頃には二人は有名な爺孫コンビとなっていた。
「ねぇ。宮原のじいさんの孫って、どんな奴?」
ある日、竜太はココアを飲みながら源一郎に聞いた。
ココアは源一郎の孫の好物らしい。
彼は別にココアは好きでも嫌いでもなかったが、何となく源一郎の家に来た時はココアを飲むのが習慣となっていた。
「ハルか? んだなぁ、竜太の二つ上で……」
「それはもう知ってる。性格とか、そーゆーのを聞いてんだよ」
「そうだなぁ、ちっと気ぃ弱ぇトコあっけど、優しくて良い子だべなぁ」
「へぇー」
自慢気に語る源一郎を見ている内に、竜太は純粋に孫に会ってみたいと思い始める。
「次はいつ来るの?」
「……さぁなぁ。もう三年は会ってねぇかんなぁ」
「三年も!? 何で?」
寂しげな源一郎など見ていられず、竜太は不満げに首を傾げた。
「うーん、まぁ、色々あってなァ……それに、多分ハルは俺達と同じで視える。あの子は怖がりで、泣き虫なトコあっから、無理に呼ぶのは酷だべ」
何だそれ、と竜太は頬を膨らませた。
「大丈夫だよ。俺、もうオバケ怖くねぇもん。知らんぷりだって上手だし、宮原のじいさんの孫が来たら、俺が先パイとして色々教えてやるよ!」
胸を張る竜太の姿は幼いながらも勇ましい。
源一郎はそっと目頭を押さえる。
そしてそれを隠すように小さな頭をワシワシと撫でた。
「そんなら安心だべなぁ。けんど竜太ァ、おめぇ、気ぃ短ぇかんなぁ。ハルの事いじめてやんなよ」
「そんな事する訳ないだろ! そいつがどんだけビビりでも、俺ちゃんと守れるよ。だから、宮原のじいさんは安心して孫を呼べよ」
「……んだなぁ。そんなら、ハルの事は心配ねぇなぁ」
実に嬉しそうに笑う源一郎に安堵する竜太だったが、結局、いつまで経ってもハルという孫が世与を訪れる事は無かった。
本当の孫のくせに、宮原のじいさんを悲しませるとは何事だろうか。
竜太は大好きな源一郎を一人占め出来てホッとする半面、憤りと小さな嫉妬心を抱くようになった。




