1、出会い①
その少年は孤独だった。
長らく闘病していた母を亡くし、その傷も癒えぬまま父は心機一転とばかりに地元への引っ越しを決めてしまった。
おかげで少年は母だけでなく、親しい友人達とも別れるはめになってしまう。
彼は来たくもなかった世与市で、父と二人だけの生活を余儀なくされたのだ。
彼の不幸はそれだけで終わらない。
「わぁっ、お父さん! オバケが足引っぱった!」
「お父さん、黒い人が、おいでおいでしてる……怖いよ」
世与の地に来て以来、少年は度々この世のモノとは思えない「何か」を視るようになっていた。
それらは怯える少年を面白がるようにちょっかいを出してくる。
しかし、助けを求める声は父に届かない。
母を亡くした悲しみと寂しさから、父の気を引こうとする子供の嘘だと思われた。
その内に、彼は父を頼る事を止めた。
出来るだけ怖いものを見ないように顔を伏せて過ごすようになる。
暗く下を向いて歩く彼を同級生達は馬鹿にした。
ただでさえ小柄で痩せっぽちだった少年は、子供達の中でからかい易い存在だったのだろう。
元々負けず嫌いだった彼はからかわれる度に応戦する。
「よぉチビ」と苛めっ子のボスに小突かれれば「やめろよ」と叩き返す。
その行動が生意気だと、いじめは徐々にエスカレートしていく。
「東京モンが調子に乗んなよ!」
「調子に乗ってんのはそっちだろ!」
強気に言い返してしまう性格のせいで、どんなに多勢に無勢であっても、教師からは「子供同士のケンカ」だと処理されてしまう。
彼は毎日陰口や無視、プロレスごっこと称した暴力を受ける事となる。
それでも彼は父を頼る事だけはしなかった。
やがて少年の父が再婚した。
幼い彼は自分だけでなく、実母まで裏切られたという思いを抱くようになる。
義母が何度少年に歩み寄ろうと試みても、彼からすればただのすり寄りにしか見えず、不快なものでしかない。
「今は拗ねているだけだ。時間が解決するだろう」
そんな両親の希望的観測もあり、結局両者の溝が埋まる事はなかった。
家にも学校にも少年の居場所はない。
彼は学校が終わると、日が暮れるまで道草をして時間を潰すのが日課となっていた。
ある日の放課後、少年は頭から水をかけられた。
振り返った先にはホースを持ったクラスメイト達が「ヤバイ」という顔をして立っている。
おそらく彼らも命中するとは思っていなかったのだろう。
やり返されるのを恐れたのかもしれないし、先生に言いつけられるのを恐れたのかもしれない。
彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
わざわざ追いかけてまでやり返す気力もなく、少年はランドセルごとずぶ濡れのまま校門を出る。
一度帰宅して着替えても良かったが、義母に何があったのか聞かれるのは癪だった。
結局彼はいつもと同じように道草をしてから帰る事にした。
この日の彼は、一度も通った事の無い道を選びながら歩いた。
細い道やわき道、果ては家と家の隙間を突き進み、探検気分に浸る事で嫌な気持ちを紛らわせる。
やがて何の変哲もない住宅地の道に出た。
特に面白いものは見当たらなかったが、それなりに満足した少年はランドセルを背負い直す。
そろそろ引き返そうか──彼は何となく後ろを振り返った。
視界一杯に、薄い桃色の服を着た小太りの腹が広がる。
「わぁっ」
予想外の出来事に驚いた彼は、その人物の顔を確認する暇もなく逃げ出した。
全速力で走る彼の頭に「誘拐」という言葉が浮かぶ。
走りながら一瞬だけ見えたベージュの膝丈スカートとストッキングを履いた足、つっかけのようなサンダルを思い出す。
どうにも普通の主婦のような姿だった。
彼の中で小さな疑問が生じる。
あんなオバサンらしき人物と誘拐犯のイメージが、どうしても結び付かないのだ。
もしかしたら偶然近くに立っていただけの人かもしれないと思い始める。
十分に走った少年は息を切らせながら立ち止まり、ランドセル越しにチラリと振り返った。
眼前には先程と全く同じ桃色の三段腹が迫っていた。
「わぁぁっ!?」
彼は再び悲鳴を上げて脱兎のごとく逃げ出した。
どう考えてもおかしかった。
二度目に振り返った際に見えた女性の右手にはスーパーのビニール袋がぶら下がっていた。
飛び出た青ネギだって覚えている。
そんな人物が何の音も気配もなく、自分の真後ろにピッタリと張り付いてくるなど、あり得るのだろうか。
少年はズキズキと痛みだしたわき腹を押さえた。
逃げる途中で何度も後ろを振り返る。
女性は常にランドセルに腹が付くような至近距離にいた。
走っているような仕草は全く見られない。
ここまでくれば子供の頭でも、普通の人間ではないと理解できる。
女性の顔を見上げる勇気はない。
恐怖と混乱に耐えきれず、彼は無我夢中で走った。
「何してんだコラァ!」
ある家の前を通り過ぎようとした瞬間、ドスのきいた怒鳴り声が投げ掛けられた。
驚いた少年は足がもつれて転倒してしまう。
もうダメだと観念して固く目を瞑ったが、女性に捕まったような気配は訪れない。
手の平と膝がジリジリと痛むだけである。
そっと目を開けると、先程まで追いかけてきていた女性の姿はどこにもなく、代わりに一人の老人がガレージから出てくる所だった。
少年にはその老人に見覚えがあった。
「み、宮原のじいさん……?」
老人は優しい笑顔で少年に近付く。
「おぉ、ボウズ。悪ぃなァ、大きな声出してよ。もう大丈夫だっかんな」
先程の怒声と同一人物とは思えない穏やかな口調の老人に安心し、少年は大声を上げて泣きついた。
彼が通りかかった家はその老人の家だったらしい。
散々泣いた後で庭に通された少年は、縁側にちょこんと腰かけた。
キョロキョロと忙しなく辺りを見回し、和風な庭だ、と子供なりに関心する。
大きなサルスベリの木やジンチョウゲの木が印象的な、よく手入れのされた庭だった。




