4、決断
──一応知ってるけどよ、それが何だよ。あ……もしかして、何かあったのか?
「あ、いや、そうじゃなくて。たまたま今日、友達に聞いて気になっちゃって……」
──ふーん?
いらぬ心配をかけないように言葉を選ぶハルに対し、桜木は納得したのかしてないのか微妙な返事をする。
──ま、良いや。えーと、俺が知ってる噂は、夏休みの夕方になると、渡り廊下に男子生徒の霊が現れて「返せー!」って追いかけてくるって話。
どうやら先に聞いた噂の内容と大きな違いはないようだ。
少しがっかりしながら礼を言うと、桜木は「まぁ待て」と話を続けた。
──さっき言ったのはあくまで噂話。……実は俺、何回かその男子生徒、視たことあんだよ。
「えぇっ!? 本当に!?」
──うおっ、ビビった!
今度はハルの大声に桜木が驚きの声を上げる。
彼女ははやる胸を抑えて「それで?」と続きを促した。
──いや、別に、パッと見は普通……だったかな? かなり遠目だったから、顔までは……やっぱ噂の内容がアレだし、近付くのは嫌だろ。
「あぁ、まぁ、そうだよね……」
──スーッと現れて、渡り廊下をフラフラしててよ。少ししたらまたスーって消えてくんだ。怖ぇだろ?
「う、うん……? そうだね……怖い、ね」
ただ現れて消えるだけではあまり怖いと感じず、ハルは曖昧に同意する。
彼女の恐怖に対する感覚はいつの間にか普通のそれとはかけ離れていた。
──視えてない奴が通りかかると、近付いていって何か喋りかけてんだ。俺、あいつがいる時に渡り廊下通りたくねぇよ。
「確かに……」
それを聞いてしまったら流石のハルも近寄りたくはない。
君子危うきに近寄らずという言葉が彼女の頭に浮かぶ。
──……なぁ、マジで大丈夫か?
急に声のトーンを落とす桜木に、ギクリとする。
「だ、大丈夫だよ。今、夏休み中だし、私は夕方の学校にはいないから……」
──あ、待った! 言い忘れてた。噂では夏休み限定の話だけどよ、俺はその男子生徒、夏休み以外でも見かけるぜ。
「え? 季節は関係ないの?」
ハルは僅かに動揺する。
年間通して現れるとなると、いずれハルもその生徒と遭遇する可能性がある。
──まぁ、夕方にあそこへ行かなきゃ良いだけだけどな。……まさか宮原、行ったりしねぇよな?
「う、うん。行かない、よ」
多分、という言葉を飲み込んで、彼女は教えて貰った礼を言う。
かなり怪しまれはしたが、桜木もそれ以上は何も言わず、うやむやのまま話は終わった。
ハルは通話の切れたスマホを握り締めながら、自分は一体何をどうしたいのかと自問自答する。
(本当に大和田さんのお兄さんかどうかの確認がしたい? でも、確認した後はどうする? 何を返して欲しいのか知りたい? それじゃ、ただの野次馬じゃない……)
彼女の中で、大和田の頼みを聞いてやりたい純粋な思いと個人的な好奇心、未知の存在への恐怖が入り交じる。
(あぁもう! ぐちゃぐちゃ。考えてても仕方ない)
ハルはスマホをベッドの上に放り、考える事を止めた。
翌日、ハルは普段と変わらない一日を過ごした。
母に頼まれておつかいに行ったり、テレビを観たり、部屋で宿題をしたりと、至って普通の一日だった。
しかし彼女の心のモヤは晴れない。
部屋の壁掛け時計を見ると針は丁度午後六時を指していた。
彼女は思いきったように服を脱ぎ捨て、制服に着替える。
「ごめん、お母さん! ちょっと出かけてくる!」
「え、ちょっとハル……!」
夕飯の支度をしていた母が何か言っていたが、彼女は構わず家を飛び出した。
(桜木君みたいに、遠くから視るだけなら、きっと大丈夫……)
それで何が分かるとも思えないが、何もせずに悶々とするよりはマシである。
自ら怪異に首を突っ込んでいくなど、彼女にしては珍しい行動だった。
(もし相手が私に気付いたとしても、いつもみたいに無視すれば良いし、何とかなる筈。万が一、手に負えない事になったら……その時は全力で逃げよう)
一瞬浮かんだ無愛想な少年を頭から振り払う。
ハルは軽く息を弾ませながら校門をくぐった。
グラウンドの方から時折大きな声が聞こえる。
まだどこかの部活が練習をしているのだろう。
一人ではないという安心感を後ろ楯に、彼女は体育館に続く渡り廊下へと向かう。
夕日が辺りを赤く染め、至る所に長い影を落としていた。
ハルはそっと本校舎の陰から体育館を覗き見る。
体育館の鉄の扉は閉ざされており中に人が居るかまでは分からない。
渡り廊下には校舎の陰がかかり、普段よりも不気味な印象を受ける。
(誰もいないし、何もいない……)
ハルは安心半分、残念半分な思いで本校舎の壁に寄りかかった。
(もう少しだけ様子を見たら帰ろう)
渡り廊下に向けて顔を覗かせていると、突然何者かが彼女の肩を叩いた。




