29、展開
「痛ぇ……急に来るじゃん」
こんな玉突き事故など誰が予想できただろうか。
竜太はどうにか踏み留まったが、千景は尻もちをついてしまった。
思わぬ鉢合わせに大成はオロオロと竜太と千景を交互に見つめる。
「え、えぇ? あ、天沼!? 千景も!? 何でここに……!?」
ハルと大成からすればいきなり目の前に竜太と千景が現れた状況だったし、それは竜太達から見ても同様だった。
何が何だか分からないのはお互い様である。
戸惑いながらも身構えるハルだったが、思考する隙も与えずに忍が声を張り上げた。
「外に出ろ!」
声を聞くまで忍が居た事にすら気付かなかった二人はギョッとしながら昇降口の扉に目を向ける。
校舎の外がやけに眩しい。
(忍さん……?)
逆光のせいだろうか──
両手をついてしゃがみ込むシルエットが、ハルの目にはとても神々しいものに映った。
「早く!」
呆然としたのも束の間、再度急き立てられた四人は慌ただしく廃校を飛び出していく。
金髪の後頭部を横目に外へ出た所で、ようやくハルは助けられたらしい現状を理解し始めた。
(また忍さんが何かしてくれたの? これって夢じゃないよね?)
明るさに目が馴れずチカチカする。
吸い込む空気も校内とは比べ物にならない程澄んでいると感じられた。
もしこれが夢だとしたら、いっそ覚めなくて良いまである。
大成も校舎を振り返ったまま身を固くしており、掴まれたままの手からも震えが伝わってくる。
彼もまた、長きに渡る緊張と疲弊の連続から理解が追い付いていないのだろう。
忍は四人が完全に校舎から出たのを確認するやいなや、素早く敷居の外側に身を翻す。
彼の左半身が校舎から出た瞬間、校内は不自然な程の真っ暗闇に包まれた。
遠い蝉の鳴き声に紛れて誰かの息を呑む音が聞こえる。
内部が全く見えなくなってしまった廃校舎を前に、ジリジリと照りつける日差しの暑さが「現実だ」と告げているようだ。
(あれ? でもさっき佐藤先生と一緒にいた千景ちゃんは? お姫ちゃんも……私達、本当に助かったの? 本当の本当に?)
何が起きているのか、この後どうなるのか──
事情も何も分からないままでは素直に喜びようもない。
呆然と立ち尽くしていると、竜太が「で、いつまでくっついてる訳」と大成の膝裏を軽く蹴った。
大成は慌ててハルから手を離しながらも「いってぇ! ひっでぇ!」と大袈裟に騒いだ。
「つーか違ぇから! 不可抗力っ! 宮原先輩もなんかスンマセン!」
「う、ううん。むしろ引っ張ってくれてありがとう」
ハルとしては足手まといだった自覚しかない。
謝られる事に疑問を抱きながらも、彼女はおどおどと目を伏せる。
「助かったのだろう」という実感が湧けば湧く程、竜太の顔を見ることが出来なかった。
(どど、どうしよう、本物の竜太君だ……!)
あれだけ会いたいと思っていた筈なのに、もう何年も会っていなかったかのような気まずさである。
それでも何かを言わなければ、と視線を上げた彼女はよろめく忍に気付いて悲鳴を上げた。
「忍さん!? 手、手がっ!?」
彼の左腕は肘から先が赤黒く変色し、まるで蛇が巻き付いたかのような痣が浮かび上がっていた。
手のひらの皮は剥け、腕の至る所からも結構な量の血が滲んでいる。
「こんくらい大丈……いや。それより後始末があるから全員離れて」
それだけ告げた彼は何事かをブツブツ呟きながら扉に何かを施し始めてしまった。
邪魔する事はおろか、手伝う事も出来ない。
本人は力なく下ろしたままの左腕から滴る血を気にもかけていないようだ。
(あれ、絶対大丈夫じゃないよ。顔色も悪いし、ふらついてるし。きっと私達を助けたせい……だよね?)
あまりにも痛々しい姿である。
ハルが胸を痛めていると、突然背後から誰かに抱きつかれた。
「わ!? 千景ちゃ……ん?」
反射的に千景だと思った彼女は顔に掛かった黒い髪に気付いて言葉を失った。
千景ならばもっと背が低いし、何より色素の薄い癖毛の筈である。
この場で自分以外の黒髪の人物は一人しか思い当たらない。
ぎこちなく視線を横に向けると、泣きじゃくる千景に抱きつかれている半泣きの大成と目が合い──
そしてすぐに目を逸らされた。
泣き顔も兄妹でそっくりだが、今のハルはそれどころではない。
「な……え……? り、竜太君……?」
「そんな馬鹿な」と思う一方で「それだけ危険な状況だったのだろう」と理解が遅れてやってくる。
ほぼ思考停止のまま肩に回された腕に手を添えれば、更に強く抱きしめられてしまった。
(まさかあの竜太君がここまで心配してくれてたなんて……)
生きて戻れた喜びと、帰ってきた事を喜んで貰える幸福が押し寄せる。
感極まって鼻を啜るハルの耳に、殆ど聞こえない位の小さな声が届いた。
「……おかえり」
「…………ただいま」
生死を分けた激しい逃走劇から一転。
感動の再会にしてはやや湿っぽい空気が漂う。
この穏やかなひと時は時間としてはほんの数分だったのだろう──
誰もがグスグスと涙する中、突如として沈黙を破る者が現れた。
「お取り込み中失礼します。皆さんご無事ですか?」
(……誰?)
いつの間に現れたのか、クールビズな出で立ちの若い男が四人の方へと歩み寄って来たのだ。
二十代半ば位の彼はニコリと人好きする笑顔を浮かべてはハル達を順繰りに見つめている。
「お兄さん、誰?」
真っ先に疑問を口にしたのは竜太だった。
先程までのしおらしさは欠片もなく、警戒心剥き出しの態度だ。
男はさして気にした素振りも見せずに愛想良く会釈をした。
「七里からの応援要請で呼ばれた、彼の同僚です。なんかヤバそうって事で急いで来たんですが、間に合ったみたいで何よりです」
にこやかに話しながらも彼の足は真っ直ぐ忍の元へと向かっていく。
はたしてこれが「間に合った」と言って良いのかという疑問はあるが、それを口にする者はいない。
同僚を名乗る男は昇降口の作業に没頭し続ける忍の頭を軽く叩くと短い言葉を交わし始めた。
(優しそうな人だけど、忍さんの同僚って事はあの人も公務員さん? なのかな?)
この距離では何の話をしているのかまでは聞き取る事ができない。
どうしたものかと四人が様子を窺っている内に、グラリと忍の体が崩折れた。
「あっ」と思うより早く同僚の男が忍に肩を貸し、四人の方へ向き直る。
「ゴメンね、こいつ気絶しちゃって。悪いんだけど男子二人は車まで肩を貸してやってくれません?」
「……分かった。大成、いくよ」
「お、おう!」
一も二もなく、竜太と大成は忍を両脇から抱えて車に向かう。
完全に意識が無いようだ。
心配そうに後を追う千景に続こうとしたハルは、はたと足を止めて同僚の男に声を掛けた。
「あ、あの……お兄さんはどうするんですか?」
「俺? 俺は七里が見よう見まねでやった雑な仕事の引き継ぎ、かな。元々、こういう細かい作業は俺の担当でね」
「見よう見まね? 雑? 忍さんが?」
ハルからすれば忍のイメージから縁遠い発言である。
あまりにもピンと来なさすぎて怪訝な顔をする彼女に、男は困ったように眉を下げて笑った。
「あのヘタレ、格好つけだから。むしろ不器用なのによくやったと思いますよ」
「はぁ……」
「ハルお姉ちゃーん! 何してんの? 早く行くよー!」
少し離れた所から千景が手を振っている。
これ以上心配をかける訳にはいかず、ハルは軽く頭を下げるとヨロヨロと千景の元へと向かった。
残された男が納得したように呟く。
「あー、今の宮原のじいさんの孫かぁ。それで……」
「なら無茶もするか」と肩を竦めた彼は、手馴れた様子で昇降口の扉に紙を貼り付けた。