28、帰路
『おーい、ハルさーん!』
『兄ちゃーん、おぉーい!』
──フフッ、クスクス。
四方から飛び交う竜太達の声とはまるで違う、奥田の嗜虐的な笑い声がにじり寄る。
喋る余力がないハルは膝に手をついたまま大成に向けて首を振った。
(お願い大成君。ここからは一人で逃げて!)
手を振り払われた時点でハルの意図を察したのだろう。
大成が迷った様子で視線を揺らした瞬間だった。
『こっちだっつってんだろ、ハル! 大成!』
ここに来てかつてない声量の怒声が響き渡り、二人の肩がビクリと跳ねる。
声自体は竜太のものだが、彼らしからぬ荒っぽい言い方には違和感しかなかった。
しかし──
(今のって……竜太君? 竜太君だ!)
どういう訳か、ハルはこの声こそ本物の竜太だと直感した。
あれほど喧しかった数々の声が一瞬止んだ事で、大成もこの怒声だけは「何かが違う」と感じたらしい。
言葉を交わす事もなく。
一秒にも満たないような僅かな時間の中で──
二人はほぼ同時に同じ方向に顔を向けた。
その先は当然、荒っぽい怒鳴り声の聞こえてきた方向である。
ハルが何かを思う前に──
笑うのを止めた奥田よりも先に──大成が動いた。
「っらぁ!」
「ぅえぇっ!?」
なんと大成がハルを荷物のように肩に抱えて走り出したのだ。
まるで予想だにしていなかった人生初の俵担ぎにハルは目を白黒させる。
(嘘でしょ!?)
意図せず後ろ向きになってしまった事で奥田の姿が嫌でも目に入ってしまう。
かといって目を閉じるのも恐ろしいものである。
(いや怖い怖い! 視覚的にも体勢的にもっ!)
二重の恐怖に身を強張らせるものの、文句を言える状況ではない。
──……チッ。
奥田は分かりやすく苛ついた表情で壁を叩くと、グルリと周囲をひと睨みした。
『違うって、ハル、大成! こっちこっち! こっちだよ!』
『そっちじゃないよ! お兄ちゃん! ハル姉ちゃん! 戻れ! 戻れよ!』
奥田の目の動きに合わせてあちこちからの声掛けが再開される。
しかし騙る余裕がないのか、先程とは違って声掛けの完成度が低い。
例え本物そっくりの呼び掛けであったとしても、既に向かうべき方向を定めた大成の足は揺るがなかった。
「ハァッ、ハッ、階段、っす!」
大成がハルを掲げ直すと同時に、チラチラと覗いていた進行方向先の床に変化が見られる。
波打ち揺らぐ床が、うねる壁が、途中から通常の廃校舎のものに切り替わったのだ。
(わ、グネグネの世界から出られた!?)
「階段」と聞いて反射的に腹部に力を入れたハルは、これまで以上の強い振動に顔を顰めた。
(っぐ、お腹痛っ! 息止まるっ!)
人一人を抱えて階段を駆け下りる大成の大変さに比べれば大した事はないと思いつつ、「少しでもダイエットをしておけば良かった」などという後悔の念が湧く。
気付けば二階と一階の踊り場に到達しており、ハルは横目で割れ落ちた大鏡の枠を見送った。
『ちょっとちょっとぉ、どこまで行く気!? それ以上はダメだからね!? 逃さないよっ!』
奥田が焦った口調でウゾウゾと這い寄ってくる。
今までのように「煽る事が目的」の追い方でなくなっているのは明白だった。
(やっぱりさっきの声は竜太君だったんだ。皆、本当に助けに来てくれてたんだ!)
乾いた筈の目に再び涙が滲む。
ハルの心がまだ折れていない事に気が付いたのか、床面を這う奥田の眉に深い皺が寄った。
『もー面倒くさい! 私ホント、このお姉ちゃん嫌いっ!』
そう奥田が吐き捨てれば、彼女の言葉に呼応するかのように何本もの腕が床から生えてきた。
油粘土の独特な臭いが鼻をつく。
(やだ何これ!? 気持ち悪い!)
かつての生徒達が作った美術作品だろうか──
人の腕にしては歪な形をしている灰色のソレが一斉に大成の足を引っ張り始める。
彼が階段を降りきったタイミングだったのが不幸中の幸いだろう。
「うぉわぁっ!?」
「痛っ!」
大きくバランスを崩したものの、大成がギリギリまで庇ってくれたのが功を奏し、ハルは軽い尻もちだけで済んだ。
ハルが慌てて大成を見やると彼の両足には何本もの手がしがみついていた。
「大成君っ、大丈夫!?」
「ってぇ……くそっ! 離せ、離せよこのっ!」
歪な腕は大成を奥田の方へ連れていこうとしているようだ。
当の奥田は階段の中段で立ち止まったまま、怒りに満ちた目でハル達を見下ろしていた。
『あー、腹立つなぁ。外も煩いし、とりあえずこのお兄ちゃんだけ貰えれば良いや。お姉ちゃんはもういらなーい』
ズズ、ズズズ──
「うわっ!? やめろ、離せって!」
「ダメっ! お願いやめて!」
慌てて大成を掴むも、むしろ一緒に引き摺られる始末である。
すぐに力では敵わないと判断したハルは火事場の馬鹿力で立ち上がり、造形の曖昧な手を思いきり踏みつけた。
「このっ! 離して、離してよっ!」
どれだけ蹴っても踏んでも、不快な弾力があるだけでビクともしない腕に焦りが募る。
何故か奥田は階段の下まで降りる気はないようだ。
『フフッ、もう見捨てちゃえばぁ? そのお兄ちゃんさえ諦めたら、お姉ちゃんだけは助かるかもよー?』
奥田の唇がスゥと弧を描く。
獲物に逃げられるか否かの瀬戸際でも言葉責めをする辺り、性格が現れているとしか言いようがない。
(なにを言ってるの? この子!)
仮にハルが一人助かった所で後悔に苦しむ事は目に見えている。
その顛末を見越した上での悪意ある発言に、ハルはカッとなった勢いで奥田に怒鳴り返した。
「そ、そんな事、絶対しない! 私、大成君と一緒に皆の所に帰るの!」
『……あっそ』
怖がって逃げるばかりの格下に言い返されるのは予想外だったらしい。
奥田は八つ当たるように長い尾を壁や床に叩きつけた。
『じゃあお姉ちゃんはこのままいただきます、だねぇ』
「ちょっ!? お、俺は!?」
一思いに食われるのと気が済むまで弄ばれるのと、果たしてどちらが悲惨なのだろうか──
大成に集中していた灰色の腕がハルをも掴む。
いよいよ終わりかと二人が息を呑んだ時だった。
『ぃい……え゛ぉ……』
(え!?)
聞き慣れた声がしたかと思えば、床から生えた腕がパッと消える。
驚く二人の前にはいつの間にか佐藤氏が立ち塞がり、階段上の奥田を真っ直ぐ見上げていた。
いや、佐藤氏だけではない。
彼の横にはお姫ちゃんを抱いたチヒロが立ち並び、険しい目で奥田を睨みつけていた。
二人の佇まいは今までのような怯えや迷いが一切感じられないものだ。
続けざまに反抗の意を示された奥田が激高する。
『何なのアンタ達! 弱いくせにずーっと邪魔ばっかして! キライキライ! 鬱陶しいんだよバカ!』
奥田は怒りにまかせてズルリ、と一歩身を乗り出す。
しかし彼女の表情はすぐに苦悶に歪み、今の距離以上にハル達に近付く様子は見られなかった。
(もしかして奥田さん……今、あの場所に足止めされてる?)
ハルの気付きを肯定するかのように、奥田はその場に留まったまま長髪の頭をグシャグシャに掻き毟っている。
『もー、腹立つ腹立つ腹立つっ! さっきから何なのアイツ! あんな奴が来るなんて聞いてないっ! サトー先生もどうして今さら私の邪魔するの!? 私よりアイツの方が強いとでも思った!?』
彼女の言う「アイツ」が誰なのか──
ハルは漠然と忍の事ではないかと感じた。
腰を抜かしたまま絶句していると、ふいにチヒロがハルと大成の方に振り返った。
「行って。早く!」
真剣な眼差しが交差する。
有無を言わさぬ迫力だ。
突き動かされるようにハルが大成を引き起こすと、逆に彼はハルの手を引いて駆け出した。
「お、大成君っ!? 千景ちゃんがまだ……!」
「……ぉおおらああぁぁーっ!!」
何かを振り切るように。
あるいは己を鼓舞するように──
大成は雄叫びをあげながらすぐ横の下駄箱に向かっていく。
玄関のガラス扉を認識するより早く、ブワッと肌で感じる空気の粘度が変わる。
何事かと目を見開いた二人の目に、懐かしい人物の姿が飛び込んできた。
「ハルさん!?」
「兄ちゃんっ!」
下駄箱の先──
ガラス扉の前に居たのは紛れもない、汗に塗れた竜太と千景であった。
満身創痍のダッシュとはいえ、急には止まれない。
大成は竜太と千景に飛び込む形で激突し、手を引かれていたハルも遅れて追突した。