26、捕食
「ハァッ、ハァ、ハッ……ゲホッ」
「先輩っ、大丈……っすか!?」
酷い足場の中をどれ程走っただろうか。
錯乱しながらも「はぐれてはならない」と脳が警告を発しており、二人はもつれ合いながら道なき空間を逃げ続けていた。
奥田は煽り運転よろしく真後ろで蛇行を繰り返しては、転げまくる二人を嘲笑し続けている。
『アハハッ、苦しそうだねぇ。辛そうだねぇ。先に鬼ごっこをやめた方を食べちゃおっかなー?』
(それって私の可能性しかなくない!? やだやだ、まだ死にたくない!)
いっそ「ひと思いに捕まえてくれ」と思わなくもないが、生存本能は正直なようだ。
ハルの腕を引く大成の手にも力が込められた辺り、彼もどちらが先に動けなくなるのか理解してしまったのだろう。
蛇に丸呑みにされる蛙の映像がハルの頭を過る。
その生々しい弱肉強食の記憶は、既に限界を越えている彼女の足腰に再び力を与えた。
(何でこんな目に遭わなきゃいけないの? 何がそんなに面白いの? どうしてこんなに私達を苦しめるの!? ひどい、酷すぎるよ!)
理不尽に襲われる恐怖と苦しみに苛立ちが加わる。
すると突然、ハルの心にどす黒い感情がヌルリと入り込んできた。
(わ、何!?)
瞬きをしたタイミングで視界が切り替わり、目の前に現れた人物に目を見張る。
この現象が「誰かの記憶の再現」だと気付くのにそう時間は掛からなかった。
(やだ、体が動かない! 横に居るのは……佐藤先生?)
『離してって言ってるでしょ!? 離せよバカ!』
『おぉ、あ゛ぇおぉ……』
どうやら今回は平井田の視点になっているらしい。
それもつい先程の──佐藤氏がハル達三人を逃がしてくれた直後の記憶のようだ。
『なんで私の邪魔ばっかするの!? 佐藤先生を殺したのは大嶋のオバサンじゃん! 私じゃないじゃん! 私は悪くない、悪くないもん!』
『ぅあ、ぃあ゛あ……』
佐藤氏が何を言っているのか分からないものの、ハルには彼が説得しているようにも憐れんでいるようにも見えた。
何らかの力で身動きが取れない平井田は、あらん限りの憎しみを込めた目で佐藤氏を睨んだ。
『離せってば! アイツら珠璃に渡して、今度こそ私のお兄ちゃんに会うんだから!』
『お゛ぉ、ぁえぇ……えゔ……』
『うるさい! うるさいうるさいうるさい! 何言ってるか分かんないっ! 離してってば!』
キィキィと耳が痛い程の金切り声が廊下に響き渡る。
止まらないヒステリックな怒声が耳に痛い。
耳を塞ごうにも動けず、ハルが顔を顰めた時だった。
『あぁ~もう。アンタが一番うるさいんだよ!』
奥田の苛立った声が聞こえた途端に平井田の怒声が止む。
周囲一帯の空気が張り詰め、佐藤氏の動揺する気配が感じられた。
(?……あ、あれ? 平井田さんの体が動く!? 佐藤先生、どうしちゃったの?)
佐藤氏は疑問の答えとばかりにクルリと背を向けたかと思うと、逃げるように消えてしまった。
唖然とするハル──もとい平井田の眼前にはいつの間にか奥田が立っている。
およそ子供らしからぬ白けきった表情と威圧感が平井田を通してハルを射抜く。
不気味な沈黙を先に破ったのは奥田だった。
『な~んか飽きちゃったしさ、もういいや。アンタ、もういらなーい』
『え?』
『だぁって知佳子、お兄ちゃんお兄ちゃーんって、同じ事しか言わないんだもん。流石につまんないよぉ』
『な、珠璃? 何言って……』
メキ、メリ、と皮が剥がれる音が辺りに響く。
その音源は奥田の下半身からであった。
『それにさ、新しい遊び相手が二人も増えたんだもん。フフッ、上手くやればもっと増えそうだしね。やっぱアンタはいらないやー』
メリ、メリ──パキッ
奥田の足がみるみる伸びていき、皮膚が裂けて捲れあがる。
艷やかな鱗が表皮を覆ったかと思えば、あっという間に彼女の下半身は巨大な蛇の姿に変貌してしまった。
(これ、さっき私達を追ってきた時の姿だ! でも何で? どうして奥田さんはこんなヘビの化け物になっちゃったの!?)
CGならいざしらず、現実の物として見るにはあまりにも気味の悪い光景である。
気を失わないよう堪えるハルをよそに奥田の話は続く。
『アンタつまんないし、いい加減目障りなの。あの面白そうなお兄ちゃんを連れてきたのはよくやったと思うけど、お姉ちゃんの方は偶然でしょ? 本っ当に役立たず』
『ちょ、ちょっと待ってよ珠璃! 私、今までずっと……ずーっと珠璃の言う事を聞いてきたじゃない! それなのにいきなり何を』
『いきなりじゃないもーん。もうずーっと前からアンタ以外の遊び相手探してたんだもーん。フフッ、今までありがとうねぇ、知~佳子っ』
そう告げてニコッと微笑んだ瞬間、奥田の口がグパッと裂けて大きく広がった。
(っ!?)
『ヒィッ!? イヤ、いやぁー!』
平井田が背を向けて逃げようとするも、尾の先で足を払われて転倒してしまう。
平井田の目を介している為ハルの視点も大きく揺れるが、酔う暇もない。
『いただきまぁーす』
『や、やめて! ヤダヤダ、痛い! やめてぇっ! 嫌だぁっ!』
蛇の体が平井田の身体に巻き付き、絞め上げていく。
締め付ける力が強すぎて息が出来ない。
首が、背骨が、悲鳴を上げている。
既に死の概念が無い筈の平井田だが、痛みと恐怖の感情はハッキリとハルに伝わってきた。
『が……ぁ……』
(っぐ、)
足から飲み込まれていく嫌な感覚がハルを襲う。
平井田の痛覚が完全に共有されなかったのがせめてもの救いだった。
(あのお腹の膨らみは……飲み込まれたのは……平井田さんだったんだ……)
今にも爆発しそうな程の心音が頭に響いて頭痛に変わる。
いつの間にかハルの視点は平井田のものとは別になっており、目の前には膨れた蛇の腹を満足気に擦る奥田の姿が映し出されていた。
(私も捕まったらあんな風に食べられちゃうの!? 人の記憶だけでもあんなにリアルで苦しかったのに、もっと痛くて怖い思いをしなくちゃいけないの!?)
全身が震え、喉の奥に苦いものが込み上げる。
疑似体験とはいえ、ハルは捕食される感触と恐怖を身に沁みて理解してしまった。
『さぁ~って。お人形遊びも飽きたし、そろそろ探しに行こうかなぁ』
(! 動き出す!?)
まるで悪びれない奥田の声色にギョッとしたのも束の間、ハルの意に関係なく視界がボヤけていく。
ゴトンと固い物が放られた音がしてそちらに目を向ければ、小さな橙色の何かが転がっているのが見えた気がした。
(嘘、あれってまさかお姫……)
確信を得る前に視界が暗くなり、すぐに再び明るくなる。
「……え」
気付けば先程と全く変わらない逃走劇の真っ只中に戻っていた。
「先輩、どうしたんすかっ!? 先輩っ!」
意識が飛んでいる間も足は動いていたようだが、大成はハルの異変に気付いたらしい。
何度も声をかけ続けていたであろう大成に短く返事をすれば、彼は少しだけ安堵したように掴んでいた手の力を緩めた。
(あんな思いは嫌だ! 絶対に捕まりたくない! 死にたくない!)
そんな願いも虚しく、右に左に曲がっても景色に変化は見られない。
本当に進めているのか、逆に戻っているのかも分からず、あまりにも方向感覚が無いせいで頭がどうにかなりそうだった。
(助けて! 誰か助けて、忍さん!)
終わりの見えない道なき道。
迫る化け物。
死への絶望感──
(死にたくない、死にたくない!)
ハルの目に涙が溢れ、視界のぼやけに拍車がかかる。
(助けて……助けてっ!)
「竜太君……!」
荒い息に混ざって零れ落ちた無意識の声に、ハル自身が驚いた時だった。
『──!』
「え?」
微かに声が聞こえた気がした。
ゼェゼェと激しい呼吸音が煩わしい。
それでも懸命に耳を澄ませると、確かに覚えのある声がどこからともなく聞こえていた。
やや遅れて大成も気付いたらしく、キョロキョロと忙しなく周囲を見回している。
「ち、千景?」
一度気付いてしまえば聞き漏らす事もない。
声は間違いなく竜太と千景のものであった。
『おぉーい、兄ちゃん! ハルお姉ちゃーん! おーいってばー!』
『ハルさん! 大成っ!』
(竜太君!? それに千景ちゃんも!? でも一体どこから……!?)
走りながらも懸命に意識を集中させる。
しかしこの希望は長くは続かなかった。
『兄ちゃん、こっちこっち! 右だよー』
『ハルさん! もっと左! 早く!』
『違う違う、ハルお姉ちゃん、そのまま真っ直ぐだってばぁっ!』
(えぇぇ、どっち!? っていうかどれっ!?)
明らかに声の数が増え、二人は思わず顔を見合わせた。
もはや不自然さを隠す気もないような声の重なり具合だ。
背後でクスクスと笑う奥田の声色からして、彼女が何らかの邪魔をしているのは明白である。
『こっちこっち! 早く来てー!』
『違う! ハルさん、大成、こっちだって!』
あっちだ、こっちだ、右だ、左だ──
好き勝手に怒鳴る二人の声が四方八方から響き渡る。
(どっち? どっちに行けば良いの?)
どの声を信じたら良いのか分からない。
むしろ本物の声など一つもないのかもしれない。
その戸惑いは大成も同じらしく、「どうすりゃ良いんだよ」と彼らしからぬ苛立ちを見せていた。
「っきゃ……!」
「うぉっ!?」
波打つ床に足を取られ、ハルが転倒する。
彼女の右腕を掴んでいた大成の足も必然的に止まってしまった。
慌てて立ち上がろうにも、膝どころか太腿まで痙攣していて動きそうにない。
「先輩早くっ!」
即座に腕を引っ張られてどうにか立ち上がったものの、一度止まった足が再び動き出す事はなかった。
相変わらず竜太達の声が喧しい。
(本物の竜太君の声、聞きたかったな……)
せめて大成だけでも逃がさなければ、ここまで手を引いて支えてくれた後輩に対して申し訳が立たない。
ぐしゃぐしゃに泣きながら大成の手を振り払うハルの背後で、奥田が歓喜の声を上げた。




