24、鳥居
薄黄色の光が差す廊下。
そこに落ちていたのは二人にとって馴染み深い日本人形──お姫ちゃんであった。
お姫ちゃんの足元にはこれまた見覚えのあるピンク色のチョークが転がっている。
先程の「カラン」という音の正体がこのチョークなのだろう。
「な、なんだぁ!? なんでお姫ちゃんがこんな所に!?」
大成ほど騒ぎはしないものの、ハルも驚きと困惑をあらわにお姫ちゃんを見下ろした。
(もしかして大成君が演劇部の部員だから助けに来てくれたの?)
落ちているというよりも佇んでいるように見えるお姫ちゃんの左手は、真横にある教室の扉をジッと指さしている。
(何だろ……お姫ちゃんの事だからきっと意図がある筈)
すぐにハルと同じ考えに行き着いた大成が「この教室に入れって事か!?」とお姫ちゃんに縋る目を向ける。
しかし次の瞬間、お姫ちゃんの顔は鬼のような恐ろしい表情に変わり、彼は悲鳴を上げてひっくり返ってしまった。
背後から迫り来る気配に意識を割かれながらも、ハルは考える時間も惜しい思いでチョークを拾う。
真っ先に頭に浮かんだのはチヒロ発案の簡易鳥居であった。
「もしかしてこの扉に鳥居を書いて通れって事?」
この思い付きが正解だったらしい。
お姫ちゃんの顔はスッと普段の人形らしい顔に戻り、いつの間にか扉を指す指も下ろされていた。
「そ、そっか……分かった。信じるよ。大成君、鳥居を!」
「り、了解っす!」
言うが早いか、大成はハルからチョークを受け取ると大きく背伸びをしながら扉を囲うように鳥居を模した四本の線を書き始めた。
当然、先程のように紙を貼る余裕も無ければ線を重ねて書く余裕も無い。
「っしゃ書けた!」
所要時間は僅か十数秒。
チョークの線は薄くてガタガタな上にバランスも悪い。
教室で描いた鳥居ですら心許なかったというのに、その更に下をいく低クオリティーだった。
それでも信じて進む以外に道はない。
(うぅ、まただ。鳥居が怖い……これが千景ちゃんの言ってた「廃校に引っ張られてる」って状態なの?)
大成も鳥居に対する嫌悪感があるようで足が竦んでしまっている。
(お願い、お姫ちゃん。力を貸して!)
一か八かの思いでお姫ちゃんを拾い上げると、足が少しだけ軽くなった気がした。
(どうか……どうか今度こそ……お願いだから元の世界に帰して!)
ハルはエイッと大成の背を押して鳥居を潜り──
そして何度目か分からない絶望に打ちひしがれる事となった。
「うそ……」
「何っじゃこりゃあ!?」
扉の先には先程まで見えていた教室など無く、何もかもがグニャグニャに歪んだ空間が広がっていた。
(なんなのこれ!? やっぱりあんな鳥居じゃ駄目だったって事?)
手にしていた筈のお姫ちゃんも忽然と消えている。
この光景は疲弊しきった二人の希望を打ち砕くには十分すぎる衝撃を与えた。
「もうやだ……どうしてこんな……」
「クソッ! 何なんだよ、ちくしょう!」
天井、壁、足元の全てが不規則に波打っていて気分が悪い。
配色的にはどこかの教室のようだが、廊下との境界すら曖昧でよく分からなかった。
もはや方向感覚どころか気まで狂いそうな状況だ。
「うぷ、気持ち悪い……酔いそう」
「つーか広すぎだし! 道も無ぇし、どうします!?」
うねる床のせいで足の踏ん張りが利かない。
チラホラと壁のような物も見えるが、距離感が掴めない事もあって近付く気にもなれなかった。
窓らしき物から差し込む光が薄黄色ではなくなったとはいえ、この異常の前では微々たる変化である。
「きゃ!?」
「うおっ!?」
突然、追っ手の移動速度が速まったのが理解できた。
思わず硬直する二人の耳に微かな声が届く。
その声の出どころは今しがた通ったばかりの扉の向こうからであった。
『──、────』
子供特有の甲高い声が心臓を凍りつかせる。
間違いなく奥田少女の声だった。
(に、逃げなきゃ! 早く逃げなきゃ!)
さながら狩りで追い詰められる動物の気分である。
二人は扉から少しでも距離を取るべく駆け出した。
『────、──────』
どれだけ逃げても明るさとおぞましさを兼ね備えた不快な声が振り払えない。
全身に走る鳥肌が、本能が、奥田の全てを拒絶していた。
「ヤバいヤバい来てる! 追いつかれるっすよ!?」
大成が半泣きでハルの肩を揺さぶるが、急かされた所で為す術はない。
奥田の声がどんどん明瞭になっていく。
『……フフッ、頑張って走ってるねぇ。こ~んなトコまで逃げてくるなんて、助けてくれるオトモダチが多いって良いねぇ。スゴいねぇ、ズルいねぇ』
ズズ、ズズズ──
『ほらほら、もっと早く走らないとそろそろ追いついちゃうよぉ~』
ズズズ──ズ、ズズ──
(何!? この重いものを引きずるような音は……)
波打つ床に足を取られて進みにくい。
二人は互いに肩を貸し合いながら必死に足掻く。
しかし──
『アハハッ、み~つけた。残念だねぇ、追いついちゃったぁ』
「ひっ!?」
歪んだ壁から顔を覗かせる追跡者と目が合ってしまい、ハルは振り返った事を心底後悔した。
ズズ、ズズ──
いやに頭の位置が高い。
子供にしては、といった類の話ではなく、それは人間ならばあり得ないほど不自然な高所からハル達を見下ろしていた。
(化け、物……)
息を飲んだのはハルと大成のどちらが先だろうか──
上半身は大嶋希羽の記憶で見た奥田の姿に相違ない。
彼女の両腕と口周りは何故か血に染まっており、青いスカートから覗く下半身はまさに「異形」としか言いようがない姿であった。
ズ──ズ、ズズ──
あまりにも長すぎる。
奥田の下半身はヌラヌラと黒い鱗が光る巨大な蛇の姿に変貌していた。
「う、うわぁぁあぁ!?」
「キャアァァ!?」
尾の先が見えないものの、太さから見て相当な長さであると容易に想像がつく。
おまけに本来なら膝辺りであろう位置の腹がボコボコと人のような形に膨れ上がっていた。
酷く生々しい脈動を繰り返す大蛇の動きに慄き、二人は転げながらも逃げ続けた。
『あれー? かくれんぼの次は追いかけっこ? フフッ、ちょーっとお腹いっぱいだけど、負けないよぉ~』
ぶりっ子めいた声と明確な悪意が二人の背中に突き刺さる。
(あの膨らみは何!? まさか誰か食べられちゃったの!? っていうか何なのあの化け物!?)
ハルの脳裏に千景の笑顔が一瞬だけよぎったが、今の彼女には振り返る事はおろか思考する事さえもままならない。
いやに重たげな地を這う音が辺りに響く。
ズズズズ、ズズ──
『ほらほら、ちゃんと逃げて逃げてー。あんまりつまんないとぉ~……フフッ。どっちか一人、食ーべちゃーうぞぉ~』
冗談のような口調に反して冗談とは思えない発言である。
クスクスと嘲笑う声との距離は一向に開かないが、二人はがむしゃらに走るしかなかった。




