21、境界
チヒロの姿が見えない事実はハルを大いに動揺させた。
大嶋母娘が穏やかに消えていった安堵感に浸る余裕もない。
「ど、どうしよう大成君。千景ちゃんが……」
「先輩、お、落ち着いて下さい。とりあえず辺りを見てみましょう!」
ハルに次いでヨロリと立ち上がる彼もまた、急展開の連続に動揺を隠しきれないようだ。
忙しなく周囲を見回すもののチヒロの気配はない。
やけに大成の顔色が悪い事に気付いたハルは、そういえば彼も大嶋希羽の負の感情を真正面から受けていた事を思い出した。
むしろ実際に御札を剥がしたのは彼である辺り、ハル以上に大嶋希羽に接近していたといえる。
「大成君、大丈夫? さっきはかなり無理してたよね」
「まぁ何とか。宮原先輩があの御札を剥がそうとしてるのが分かって、もう無我夢中でした」
力なく眉を下げる彼に礼を言いつつ、ハルは何の気なしに渡り廊下の向こうに目を向けた。
「あれ、この紙は?」
見覚えのない紙が扉の外側から貼り付けられている事に気付き、ハルは恐る恐る紙を手に取る。
そこには忍からと思われる指示が綴られていた。
『帰るには世界の境界を越える必要がある。
俺が出口を作るから、ハルちゃん達は出来るだけ現世側まで近付いてきて欲しい。
方法は鏡を探すか水を張れ。
現世への出口に繋がるよう、こっちで調整する。
もし無ければ鳥居の形を作れ。
簡易的でも形作る事で意味を成す。
迷わず帰って来い。
忍』
殴り書きの文面が緊迫感に拍車をかける。
全文を読み終えた二人はそれぞれに首を傾げた。
「これってつまり、鏡か水を張った所を通れば出口に繋がるって事……だよね?」
「っすね。この忍さんって人を信用するならですけど」
「そこは大丈夫。こういう時は一番信用出来る人だから」
「えっ? あ、そ、そうっすか……」
竜太を思い浮かべて残念がる大成に気付かず、ハルの意識はチヒロの行方と手紙の内容ばかりに向いている。
「それより千景ちゃんだよ。今更離れの校舎に行く筈ないし、まさか奥田さんに捕まったんじゃ……!」
自身の発言にゾッとしていると、ハルの背後から聞き慣れた声が投げかけられた。
「大丈夫! ちょっと怖くて隠れてただけだから!」
「千景ちゃん!?」
「バッカお前、心配かけんなよな!」
頬を膨らませる兄など気にも止めず、チヒロは早口で捲し立てた。
「さっきも言ったけど時間が無いの! 今すぐ忍お兄ちゃんの伝言通り、この世界を出ないと!」
「つってもなぁ~。出口だのなんだの、正直意味分かんねぇし」
異世界への理解が乏しい彼にとって、忍の手紙は理解不能過ぎたらしい。
かといって説明出来る程の知識を持ち合わせていないハルは説得を放棄してチヒロに向き直った。
「鏡ならすぐそこの階段の踊り場にあったよね。そこを潜ればいいのかな?」
「あれは駄目っ!」
間髪を入れず否定する彼女に驚き、ハルと大成は「なんで?」と口を揃える。
チヒロは階段を無視して校舎の奥に向かいながら「あの鏡、現世では割れてるから」と吐き捨てた。
「割れた鏡は良くないって話、お姉ちゃんも聞いた事ない?」
「あ、言われてみればある……かも?」
「他に人が通れそうな大きな鏡なんて見かけなかったしさ、残る案は水を張るか鳥居を作るかなんだよねぇ」
「? でもよぉ、具体的にはどうやるんだ?」
どうにか話題についていこうとする大成を横目に、チヒロは近くに備え付けられている水道の蛇口を捻った。
「うぎゃっ!?」
血のように赤黒い液体が勢いよく流れ出る。
三者三様の悲鳴が上がり、チヒロはすぐに蛇口を閉めた。
ただの錆の可能性もあるが気味が悪い事に変わりはない。
「うへぇ、やっぱそう上手くはいかないかぁ」
「ほ、他の蛇口ならどうだ?」
大成が隣の蛇口を捻ろうとするも、その手はすぐに止まってしまう。
蛇口には無数の髪の毛が絡みついていた。
「うげ! キモっ!」
「ど、どうしよう。この調子じゃ使える水道があるのかも怪しいよね……」
「と、なると私達がやるべき事は一つ! さっさと鳥居を作っちゃおう!」
早くも気を取り直したチヒロが二人を見上げた時だった。
『させない!』
鋭い言葉と共にチヒロの体が横に吹っ飛ぶ。
一メートル程弾き飛ばされた彼女はうめき声を上げながら床に倒れ伏した。
「っ!? 大丈夫か!?」
「千景ちゃん!」
返事を聞くより先に背筋が粟立つ。
いつの間にか三人の背後に平井田が立っていた。
どうやら彼女がチヒロを突き飛ばしたらしい。
「何をするの、平井田さん!」
一度は理性的な会話が出来た相手だ。
僅かな望みを持って対話を試みたハルだったが、平井田の纏う雰囲気は恐ろしさを増すばかりだった。
『あんた達、みんな帰らせない。帰せない!』
「何でだよ!? 兄貴との人違いって分かったんだから、もう良いだろ。俺ら関係ねーじゃんか!」
チヒロを抱き起こしながら怒鳴る大成を見下ろし、平井田は暗い声で何やらブツブツと呟いている。
『帰らせない、帰しちゃダメ。珠璃が約束してくれたもん。こいつ等みんな珠璃に渡せば、今度こそ本物のお兄ちゃんに……』
「平井田さん! あんな子の言う事なんて聞いちゃ駄目っ」
『煩い煩い、煩いっ! あんたに何が分かるの!? 珠璃は……珠璃に、珠璃が……珠璃の言う事は絶対で、だから……だから帰らせない!』
説得も空しく、平井田は考える事を放棄した様子で手を振りかぶった。
ハルが反射的に身を引いた瞬間、平井田の動きがピシリと固まる。
手を振り上げたままの彼女ごしに、ハルは佐藤氏の潰れた顔と目が合った。
平井田の血走った目が左右バラバラにグルリと回る。
『邪魔、すんな……佐藤先生……! くっ』
──おぉ……ぁえぉぅ……ぅあ、ぃあ゛あぁ……
『離してよ先生!……ちくしょう、邪魔すんなって! 離せ、離せよぉ!』
佐藤氏による何らかの力が働いているのか、平井田は身動きが取れないらしい。
ぐちゃぐちゃな刺し傷で彼の表情は読めないが、ハルは直感的に「早く行け」と訴えられているように感じた。
「あ、ありがとうございます佐藤先生! 行こう大成君、千景ちゃん!」
「はいっす! お前、走れるか!?」
「う、うん。大丈夫っ」
チヒロの手を引いて走り出す大成を横目に、ハルは必死に廊下を駆け抜ける。
背中に突き刺さる視線が痛い。
(平井田さん、どうしちゃったの? 私達を「珠璃に渡す」って言ってたけど、奥田さんは私達に何をしようとしてるの!?)
どう考えても碌な事ではないだろう。
とにかく今は平井田の視線から外れたい一心で、三人はドタバタと階段を駆け上った。
平井田の視界から外れてもなお狙われているような感覚が消えない。
隠れる意味があるのかはさておき、三人は手近な教室に入って扉を閉めた。
「ハァッハァッ、今の内に鳥居を作らなきゃ!」
「でもどう作りゃ良いんすか? 都合の良い材料なんて何も無いっすよ!?」
至極真っ当な意見である。
ハルは呼吸を整えるのも忘れて思考を巡らせた。
「そ、そういえば離れの校舎に用具室があったよ。備品とか、結構色々残ってたの」
「離れの校舎って、今からまた一階に降りるんすか?」
「あ……そっか」
二階から回り込んで平井田を避けたとしても時間が掛かり過ぎてしまうだろう。
一階の職員室にも物は多く残っていたが、平井田との近さを考えると論外である。
(他に何か使えそうな物はないの?)
教室内には特に建材になりそうな物は見当たらない。
目につく物といえば汚れた黒板に古びた教卓、まばらに残された机と椅子位のものだ。
壁には児童が描いた風景画と献立表が貼られており、開きそうもない窓ガラスからは相変わらず暗い黄土色の世界が見えるだけである。
(こんな教室に鏡なんて無いし、窓ガラスの反射が鏡代わりになるとも思えないよね)
「机と椅子でどうにかならねーかなぁ?」
「流石に無理だと思う……」
仮に上手く積み上げられたとしても鳥居のように複雑な形を模す事は難しいだろう。
いよいよ案が出尽くした所で、それまで妙に静かだったチヒロが口を開いた。




