20、影の立役者達
ハルと大成が二、三階の踊り場で大嶋希羽と対峙していた頃。
チヒロは渡り廊下で忍からの新たな指示を受け取っていた。
「……うーん、自信ないなぁ」
扉の外側に貼り付けられた紙を読んだ彼女の表情は浮かない。
忍の作戦をある程度察したは良いものの、それが上手くいくかどうかは別の話であった。
「あぁもう! どうしよう!」
こうしている間にもハル達は大嶋希羽を連れて降りて来るだろう。
その時はタイミングよく忍に伝えて離れの校舎の御札を剥がさせないといけない。
上手く母娘を引き合わせたとしても丸く収まるとは限らないし、下手したらまた恐怖の追いかけっこが始まるかもしれないのだ。
いずれにしろハル達に忍の指示を伝えて実行しなければどうにもならず、チヒロは頭を掻きむしった。
「やる事が多いぃ!」
ふいに上階で怨霊の気配が動くのを感じ取り、チヒロの肩が跳ねる。
もはや悩む時間も迷う余裕も残されていなかった。
「もーヤダヤダ。忍お兄ちゃん、頼むよ~……!」
いつでも合図が出せるように。
現世まで声が届けられるように。
チヒロは扉に手を掛けると腹に力を込めた。
◇
「忍お兄ちゃん、今っ!」
何処からともなく聞こえてきたその声を合図に、忍は素早く古びた御札を剥がした。
彼のすぐ傍には血塗れの女こと大嶋母が立ちつくしており、ギョロリと忍を睨みつけている。
「ほら、だから言ったろ? 娘が待ってるぞ」
どうにか間に合った事に安堵しつつ、彼は渡り廊下の扉を開け放つ。
女の目が扉の先に向かう。
渡り廊下の先からは無条件で鳥肌が立つようなおぞましい何かがいた。
あまりの悪臭に忍は息を止めたが、大嶋母は何か感じるものがあったようだ。
──あぁ、あの子、は……あぁ、ゔ……
「早く行ってやんな」
話も通じず、何一つ納得していなかった母親をここまで引っ張り出す事が出来たのはある意味幸運であった。
(さぁて、どうなる……)
あまりにも穢れた空気と邪悪過ぎる怨念のせいで、忍の眼をもってしても母娘の姿はよく視えない。
どす黒い二つの影が蠢いて大きな一つの塊になっているのが分かるだけだった。
滅多とない悪い兆候である。
「っしゃ!」
ふいに、母娘の姿が朧気ながら視えた。
両者の悲願が叶った事で本来有るべき人の心を少なからず取り戻したのだろう。
(やーっと悪意が薄らいだ。これならいけるか!?)
彼はヒト形の紙を二枚取り出すと渡り廊下の中央まで駆け寄り、手早く母娘の魂を結び付けた。
抱き合って涙を流す二人の姿が透けていき、代わりに手中のヒト形がどす黒く変色していく。
重さも増しており、もはや紙とは思えない代物である。
「……シャ……ソワ……、……ウン……」
朽ち果てた廃校に忍の小さな呟きだけがうら寂しく響く。
特に抵抗はされず、彼は滞りなく母娘の捕獲に成功した。
(よし。後は職場に持ち帰ってじっくり浄化して貰えりゃあ、この母娘は大丈夫だぁな)
額に滲む汗を手の甲で拭い、忍は再び渡り廊下の向こうに目を向ける。
少し前に指示書を貼りつけた扉は大きく開け放たれており、誰の姿も見えない。
それどころか本校舎内部は不自然な程に黒い暗闇が広がっていた。
長年の勘で「まだ中に入るのは無理だ」というのが嫌でも分かる。
(相変わらず本校舎の気配はゴチャついてんな。今頃あの辺りにハルちゃん達が居る筈なんだが、俺がどこまで近付けるか……あ?)
はたと何かに気付いた彼はただでさえ鋭い目を更に険しくして本校舎を睨みつけた。
(……いや……おかしい。二人も削った筈なのに、何でまだここまで悪意が強ぇんだ?)
忍からすれば大嶋母娘はどちらも「あまり見かけないレベル」の悪質な怨霊であった。
そんな二人を完全に無害化したのだから、この廃校に渦巻く悪意は大幅に減って異界との隔たりも弱まるだろう──
というのが彼の目算だったのだ。
奥田の起こした事件の真相を忍は知らない。
彼からすれば、大嶋母娘を差し引いてもなおこれだけの怨念が渦巻いているというのは想定外の違和感でしかなかった。
(まさか大嶋母娘より邪悪な存在が潜んでたってのか?……俺の見立てが甘かったか)
忍は苛々と眼鏡を持ち上げた。
渡り廊下を開け放ってからというもの、耳鳴りが止まない。
間違いなく本校舎の怨霊が忍を警戒して威嚇しているのだろう。
(このままじゃハルちゃん達が指示通りに動いてくれたとしても、向こうの世界に繋がる道が作れねぇ。かといって完全に拒絶されてる俺は向こう側に行けねぇし……)
焦りは思考を鈍らせる。
彼は短く息を吐くと改めて本校舎を見上げた。
近寄る生命を吸い取らんとする貪欲な悪意が、まるでとぐろを巻くように渦巻いている。
(まるで蛇だな。大嶋母娘が居なくなった事でかなり苛ついてるみたいだが……ありゃあ何なんだ? 何がアレをあそこまで増長させたんだ?)
この場に一人でも同僚がいれば、忍は無理やりにでも廃校内に突入しただろう。
しかし今は応援が来るのを待てる程の猶予はない。
(せめて自分がもう一人いりゃあな……)
こんな状況にも関わらず、無意味な想像ばかりが頭に浮かんでしまう。
せめて誰か一人、ある程度の実力者がいれば「現世にて異界への道を繋げ続ける役」と「異界の淵まで赴いてハル達を此方へ呼び寄せる役」で分担出来るのに──と。
そこまで考えた所で彼は遂に一つの答えに辿り着いた。
忍としてはどうしても避けたかった、ある種の最終手段である。
「はぁ……仕方ねぇか、クソッ」
危険でしかないがハルと大成の命には代えられない。
彼は離れの校舎を飛び出すと車に向かって勢いよく駆け出した。
「……おーい、竜太! 竜太ぁ!」
滅多とない忍の大声に反応し、塀の向こうで車のドアが開く音がした。




