19、説得
やるせない思いがハルの胸を締め付ける。
もはや大嶋希羽から流れてくる感情なのか、自分の感情なのか分からなくなっていた。
──苦しい……許せない。苦しめ。みんな殺してやる。
こちらの寿命が縮むような少女の怨言が繰り返される。
ハルは混在した感情に突き動かされるがまま、喉の痛みも気にせず叫んだ。
「お母さんに会おうよ!」
ピタリと少女の声なき声が止まった。
まるで時が止まったかのような静けさの中、不快な空気だけが辺りに停滞している。
虚ろに見下ろすだけだった少女の目が、今は明確にハル一人を見つめて動かない。
ハルは逸らしてはならないと思いながらもつい人見知りらしく視線を彷徨わせてしまった。
(怖い怖い怖いっ! で、でも早く何か言わなきゃ! えっと、えっと……)
ジットリとした視線が肌に刺さり続ける。
「お、大嶋さんのお母さん、ね。きっと、あなたに会いたがってると思う……大嶋さんもそうじゃない?」
チラチラと目を合わせれば、大嶋希羽は感情の読めない顔のまま、ほんの僅かに俯いた。
──………………ムリ。
「え?」
──もう遅いの。
どういう事かと問おうとした瞬間、ハルの視界の端に何かが見えた。
「……遅いって、何が遅いの?」
対話は止めず、それとなく少女の横──踊り場の壁の隅を注視する。
一見すると所々剥がれているだけのボロ壁だが、二メートル程の高さの所に何かがあった。
(あれは何?)
そこには茶色い長方形の紙が心許なく貼り付けられており、それが朽ちた御札だと気付くのに時間は掛からなかった。
──……私、悪い子だから。もうお母さんに会えない。
「そ、そんな事……」
──悪い子だから、ここから動けないの。二人も殺したから……だから、お母さんが迎えに来てくれないんだ。
憎しみや怒りの感情が弱まり、代わりに悲しみの感情が流れ込んでくる。
ハルには今流れてくる感情が彼女の根本的な部分であり、本音のように思えてならなかった。
(二人も殺したって……まさか!? それに、もしかして千景ちゃんが言ってた「母親と同じで身動きが取れない状態」ってこの事なの?)
そもそもハルにとって御札というものは「神聖で剥がしてはならないもの」というイメージがある。
本当に剥がして良いのかという不安もゼロではないが、今のハルには「如何にしてあの御札まで辿り着くか」という事で頭が一杯であった。
(頭、痛い。喉も胸も……息をするだけで肺が汚れていくみたい)
階段の一段一段が重く、遠い。
大嶋希羽が立つ踊り場までのあと三段が、まるで高い山頂へと続く山道のような険しさに感じられた。
(苦しい。痛いし吐きそう。でも……)
「悪い子、とか……そんなの関係ない! お母さんだって絶対あなたに会いたがってるよ。だから、会って安心させてあげよう?」
──…………
納得したのか、迷っているのか。
はたまた疑っているのかすら分からない視線が突き刺さる。
震える膝が煩わしく、どうにか踏ん張ろうとハルが膝に手をついた時だった。
『アッハハハハ! こんな人殺しの娘、待ってるワケないじゃーん!』
(!? この声は……!)
──奥田……!
底抜けに明るい声がガンガンと頭に響く。
思わず手すりにもたれ掛かる間にも奥田の挑発的な言葉が続く。
『娘のせいで人生ダイナシになったんだよ? どう考えても会いたいワケないでしょー! アハハハッ』
「そんな、事……」
──……奥田ぁっ!
激しい憎悪の念が溢れ出し、ハルの身体が押し返される。
まるで強風に立ち向かっているような感覚だ。
(早くあの御札を剥がして……大嶋さんを自由に……)
ハルは身が切られる思いで階段上に手を伸ばす。
あと一歩が遠い。
二メートルの高さが──高い。
──許さない、奥田! 何度だって殺してやる!
『フフッ、その意気その意気ぃ!』
大嶋希羽が怒れば怒る程、奥田は愉悦を感じているようだ。
いよいよハルの意識が飛びそうになった時、鬼気迫る雄叫びが奥田の笑い声を掻き消した。
「ぅぉおおぉらあぁぁーっ!!」
ダンッと床を踏み鳴らす音と共に、ハルの横を大成が飛び上がった。
彼の存在をすっかり忘れていたハルは驚きに目を見開く。
(大成君!?)
紙が剥がれる音が聞こえたかと思うと、彼はズタン! と豪快な音を立てて大嶋希羽のいる踊り場に着地した。
そして──
「御札剥がしましたぁっ! 先輩、下下、下っ!」
「う、うんっ!」
『はぁ!? ちょっ……!』
初めて耳にする奥田の焦り声に何かを思う暇はない。
踵を返して階段を飛び下りる彼に続き、ハルも階段を駆け下りる。
たった三歩で階段を降りきる大成の運動神経に驚愕しつつ、ハルは振り返りもせず背後の悪意達に叫んだ。
「大嶋さん! 渡り廊下の先にお母さんが来てるんだって! 喧嘩してないで来て!」
『はぁ!? こんな悪い子に迎えなんて来るワケない! 嘘つき女、嘘つき嘘つき嘘つきっ!』
──奥田ぁっ……!……くっ……お母、さん……でも……うぅ、ああぁぁあぁっ!
迷いの言葉と絶叫が空気を震わせる。
二階と一階の踊り場まで降りたハルは、備え付けられた大鏡に一瞬ギョッとしながらも声を張り上げた。
「その子じゃなくて、自分のお母さんを信じて!」
瞬間、気配が動いた。
ズズズ、と重厚な何かが。
禍々しい気配の塊そのものが──
確実に降りてきていた。
その正体が大嶋希羽だと頭では分かっていても、ハル達の身体は震え上がってしまう。
近付かれるだけで危険だと本能が告げているようだ。
「先輩早く!」
「待っ、てっ!」
息を切らせて階段を降りきったハルは、その勢いのまま大成ともつれるように渡り廊下への扉へと直行した。
大嶋希羽の禍々しい気配はもうすぐそこにまで迫っている。
──あぁあ゛ぁぁあぁーっ! おぉくぅたぁあぁー!
──……ぁぁああ゛ああぁーっ!
階段の上から、そして渡り廊下の向こうから。
耳が痛む程の絶叫が近付いてくる。
(ヤバい、もう逃げ場がない! 無理!)
挟み打ちの絶望がハル達を襲う。
「忍お兄ちゃん、今っ!」
絶叫に負けないチヒロの大声が響き、勢いよく渡り廊下の扉が開かれる。
パニック状態のハルには彼女がいつ階下に降りたのかなど考える余裕は無く、漠然と「千景が扉を開けたのだろう」位の事しか考えられなかった。
ゾクリ。
(っひ!?)
すぐ真後ろに気配を感じた所で、ハルと大成は同時に転倒してしまう。
転んだ直後、ハルは渡り廊下の向こうの扉が開くのを見た。
ヒタ──ヒタ──
ピチャ
血なまぐさい臭いが鼻を突く。
向かいの扉から髪を振り乱した血塗れの女が顔を覗かせた。
間違いなく、離れの校舎でハルとチヒロを追いかけてきた女であった。
女の血だらけの両手が伸ばされる。
──……お母……さん?
大嶋希羽の細い足がハルの顔の横を通り過ぎた。
──あ゛ぁ、ぐぁ……。きぃ、わ……き、わ。……希わ…………希羽……! そこに、そこに居たのね……!
感極まった声につられ、ハルは身を起こすのも忘れて母娘を見る。
渡り廊下の中央で抱き合う二人の姿は、まるで生前の姿を思い出したかのように綺麗なものへと変貌していた。
──お母さん、お母さぁん! わぁぁん!
──あぁ、希羽、ごめんね。ごめんね希羽!
あれ程までに禍々しかった憎悪の念も、血の臭いも薄らいでいる。
ハルと大成は床にへたり込んだまま号泣する二人を呆然と眺め続けた。
──お母さん、私もう疲れたぁ……
──……そうだね。お母さんも疲れたよ。
決して離れまいとする二人は抱き合ったまま徐々に透けていき、やがて消えてしまった。
校舎と渡り廊下には何も残らない。
まるで恐ろしい怪異など存在しなかったかのように閑散としている。
(これって、二人は成仏した……って事?)
呆気に取られていたのも束の間、ハルは大変な事に気付いてしまう。
「って、千景ちゃんは!?」
「あれ? アイツいつの間に……!」
扉の横にいた筈のチヒロの姿がどこにも見えず、ハル達は戸惑いながら顔を見合わせた。




