18、真実
肝が冷えると同時にハルの体から小さな肢体が飛び出した。
「……!…………っ……」
まるで分裂したかのようなその存在は、くぐもった声をあげながらゴロゴロと落下していく。
生々しい衝撃音の後に訪れたのは静寂だった。
(嘘、でしょ……?)
自分だけでも階段の上で踏み留まる事ができたのは不幸中の幸いだったが、起こってしまった惨状は目も当てられない。
眼下の踊り場には頭や顔から血を流している小柄な少女が横たわっており、虚ろな目がハルの方を見上げていた。
「アハッ、すごーい。首めっちゃ曲がってるじゃん。初めて見たー」
場違いな笑い声に慌てて振り返ると、すぐ真後ろに可愛らしい長髪の少女が立っていた。
(まさか、今背中を押したのってこの子!?)
大嶋希羽の体は踊り場の上で惨たらしく横たわったままピクリともせず、どう考えても最悪な顛末しか思い浮かばない。
(どうして!? なんて事をしたの、この子! なんで笑ってられるの!?)
先程まで大嶋希羽と体を共有していただけに、ハルは恐怖と怒りにも似た思いで少女を睨んだ。
これには流石の平井田も顔を凍りつかせて動揺している。
「じ、珠璃……これはヤバいよ。ど、どうしよう!?」
「何がぁ? もういーから帰ろっ?」
予想通り、背中を押した長髪の少女が奥田珠璃らしい。
奥田は半泣きの平井田に向かって白々しく小首を傾げている。
クスクス、クスクス──
何度となく聞いた笑い声でも、いざ目の当たりにすると異常性が際立つ。
ハルはいたずらっぽく笑う少女に底しれぬ嫌悪感を抱いた。
「あーあー。知佳子ってば凄いの見ちゃったんだねぇ。まさかサトー先生が大嶋さんを突き落としたなんてさぁ~」
「え?」
「見たんだよね? 知佳子」
奥田の愛らしい笑顔がグッと平井田に近付けられる。
「サトー先生がー、大嶋さんをー、階段から突き落としたの。知佳子が、見 た ん だ よ ね ?」
「……っ、そんなう、嘘ついたって……もしバレたら……」
「アハハ、だぁ~いじょうぶだってぇ! その時はその時だし、見間違いだったかもー? とか言っとけば良いんじゃん? 擦り付けたもん勝ちだよ!」
奥田の非常識が過ぎる発言の数々には開いた口が塞がらず、そもそも声が出せないハルには事の成り行きを見守る他ない。
(そういえば奥田さんは佐藤先生の事をうっとおしがってたっけ。だからって、そんなすぐバレるような嘘を人に強要するなんてあり得ない……)
引きまくるハルに反し、奥田は不謹慎そのものを楽しむように笑っている。
だがそうしていたのも束の間の事で、彼女は「でも……」となかなか応じない平井田の肩を掴むとギロリと目を剥いた。
「……私知らないし。もし裏切ったら『ホントはアンタが突き落としてた』って言うから。今まで黙っててあげてた万引きの事もバラすし、ウサギの事も金魚の事も全部アンタのせいにするからね」
「そ、そんな!」
「それが嫌なら……分かってるよね?」
有無を言わさぬ圧はとても子供とは思えない凄みがある。
見ているだけのハルですら硬直してしまう迫力に、何やら弱味を握られているらしい平井田が逆らう様子はなかった。
平井田が小さく頷く姿を最後にハルの視界がぼやけていく。
「フフッ、やっぱアンタ最高だね。さすが私の親友!」
(……酷い。まさかただの事故死じゃなかったなんて。それに今のやり取りが真実なら……)
探索中に見つけた事件の資料を思い出し、ハルの胸がズキリと痛む。
──大嶋多都子の犯行動機は佐藤氏を「娘を突き落とした犯人だ」と思い込んでいたからだと思われる。
(あれってただの理不尽な思い込みとかじゃなくて、娘の友達の証言を信じちゃったからだったんだ……)
動機といい、犯行時の状況といい、脅しや嘘の証言といい──
何もかもが悪意に満ちている。
(信じられない。こんな惨い事件を子どもが起こしてたなんて)
ハルが口を覆っていると、爛れた顔の平井田が呆然と立ち尽くしている姿が浮かび上がってきた。
どうやら元の廃校に戻ってきたらしい。
『……見たの?』
平井田の膿んだ口角が痙攣している。
返答に困るハルの隣では、大成が顔面蒼白で「マジかよ」と呟いているのが確認できた。
どうやら彼もハルと同じ追体験をしたようだ。
『知っちゃったの? 本当の事』
絶望したようなその口ぶりから、ハルは「平井田が死してなお絶対に隠し通したかった最大の秘密」を知ってしまったのだと理解した。
「あの、平井田さん……」
『なんで…………なんで!? なんで! なんでなんでなんでぇ!!?』
怒り狂った彼女はグチャグチャに膿んだ真っ赤な両腕をハルに伸ばしてきた。
咄嗟に動けなかったハルの体が勢いよく大成に引き寄せられる。
「せんぱ、逃げっ、しょ!」
語彙力を失いながらも体は動くらしい。
大成に右腕を引っ張られながら、ハルは転げるように階段へと駆けだした。
相変わらず上階からは嫌な気配がしており、ハルの頭に「八方塞がり」という言葉が浮かぶ。
ところが──
『やめて、そっちはイヤだってば!』
どうやら平井田は階段に近付けないらしく、悲痛な叫びにささやかな距離が感じられた。
(なら、私達にとって今一番ヤバいのは平井田さんじゃなくて……)
反射的に階段を見上げると、二階と三階の踊り場に小柄な少女が立っていた。
(あの子が……大嶋希羽さん?)
少女の首と左腕はあらぬ方向へと曲がっており、頭や鼻から血を流している。
古めかしいおかっぱ髪は落下直後のように乱れたままで、スカートから覗く両膝は生々しく擦り剥いていた。
「せっ……先輩……」
ハルの腕を掴む大成の手に力が入る。
佐藤氏で多少耐性が付いたかと思われたが、やはりどう見ても立っていられる状態ではない存在に見下ろされるというのは恐ろしいのだろう。
怪異はそれなりに見慣れているハルでさえ、足が竦むのだから無理もなかった。
(でも、ここまで平井田さんが来ないなら大嶋さん親子を会わせるチャンスは今しかないかも)
大成希羽の虚ろな瞳がハル達を捕らえて離さない。
行動の予測は全くつかず、悪意のある感情だけが明確に感じ取れた。
「……ごめん大成君。ちょっと離して」
「あ、はい……」
重苦しい空気を静かに吐き出し、ハルは階段に足をかける。
瞬間、グワンと見えない壁に押し返されるような拒絶めいた空気を肌で感じた。
(うぐ、苦しい。息がし辛い!)
「っ……おお、しま、さん。話を聞いて」
──痛い、痛い、苦しい。
「大嶋さん、あの……!」
──どうして私がこんな目に合うの?
「ちょ、大嶋さ……」
息も絶え絶えなハルの声はいとも容易く大嶋希羽の声なき声に押しやられる。
強く激しい憎悪の感情が一陣の風のように吹き抜けた。
──私が何をしたっていうの?
──悔しい、憎い、痛い、憎い、許せない許せない!
──みんな、みんな私と同じに、いや。
──もっと、ずっと苦しめばいい!
(そんな。正義感の強い子だった筈なのに、ここまで歪んじゃうなんて……)
それだけ理不尽な仕打ちと痛みの恨みは根深いのだろう。
ハルは恐怖に混ざる同情心をバネに、一歩、また一歩と階段を上った。
「お願い大嶋さん、落ち着いて!」
──許さない。死ね、苦しめ! 何度だって殺してやる!
小さな体から溢れ出る負の感情を一身に受けながらも、ハルは声を上げ続ける。
「そんな事言わないで、大嶋さん」
──憎い、憎い、辛い、苦しい。
「このまま、じゃ……良くないよ。苦しいまま、なんて。お願い、話を」
──痛い痛い、どうして? 酷い、なんで私ばっかり。
「大嶋さ……」
──許せない、呪ってやる!
──憎い、憎い、憎い! 辛い、痛い……
──寂しい。
「!」
燃えるような憎悪の中に紛れた小さな感情──
それはほんの一瞬であったが、間違いなく年相応の子供らしい人の心であった。




