9、記憶
千景の身を案ずるあまり、ハルは半ば飛び込む形で校長室に入室してしまう。
己の軽率さを後悔したのは先客と目が合った瞬間であった。
(! ヤバ……!)
色素の薄い髪をポニーテールに結った少女だ。
彼女は部屋の中央にある来客用と思われるローテーブルとソファーの一席に体育座りをしながらハルを見つめていた。
その顔面は元の顔が分からない程に爛れており、首周りはケロイド状に赤く腫れ上っている。
小学校高学年くらいに見えるが、ハルが知り得る三人の少女の情報とはどうにも結びつかない容姿に思えた。
(確か、階段から転落したのが大嶋さん。一年後に亡くなったのが奥田ナントカさんと平井田ナントカさんで、週刊誌の噂によれば二人は病死だった筈だけど……)
ならばこの見るも無残な少女は誰なのか──
爛れた皮膚からジクジクと滲む血が顎から滴り落ちていく。
崩れた瞼から覗く瞳はハルを捉えたまま逸らされる事はない。
(三人とは別の子? それともまだ私が……世間が知らない何かがあるって事?)
どう行動すべきかと思考はせども体は動かない。
激しく脈打つ鼓動に目眩を覚えた時、何の前触れも無く白い光が差し込んできた。
(ま、またこれ!? 眩しっ……!)
職員室の時と同じ現象が起きるのかと身構えるより早く、少女の声が聞こえ始める。
『……だし、もう誰も信じてくれないし。これ以上はムリだよ……本当の事、言おうよ』
『アハハッ。何バカ言ってんのぉ? 今更アンタ一人が本当の事言ったって、だぁ~れも信じやしないって!』
『で、でも……』
『むしろ「また嘘ついてる」って、今度こそ皆に怒られるだろうねぇ。それか「頭おかしくなった」って病院に連れてかれるかも? フフッ、それでも良いの?』
相変わらず眩しすぎて姿は見えないものの、今回は子供同士の会話のようだ。
一方は脅しに近い口調の強さでありながらも明るく笑っており、もう一方は今にも泣きそうな程に弱々しい声をしている。
(イジワルっぽい方の声……職員室で聞こえた会話で佐藤先生に注意されてた子と同じだ……)
このフラッシュバックのような会話に何の意味があるのかは不明だが、何らかのヒントになるかもしれない。
誰の記憶なのかといった細かい考察は後に回すとして、ハルは一言も聞き漏らさないように耳を澄まし続けた。
『それにさぁ。サトー先生が死んだの、今以上にアンタのせいだって責められちゃうよ~』
『そ、それは……だって、珠璃が……』
『え~、私がなに~?』
クスクス、クスクスと、どこかで聞いたような笑い声が続く。
(って、ちょっと待って! この笑い声……間違いない!)
情報量に驚く暇もない。
「珠璃」と呼ばれた少女の声が定期的に聞こえていた笑い声の主だと気が付き、ハルは眉根を寄せた。
『フフッ。妹が嘘つきのヒト殺しって知ったら、アンタのだぁ~い好きなお兄ちゃんはどう思うかなぁ?』
『っや、やめて! お願いだから誰にも言わないで!』
『アハハッ。知佳子ってば、な~にマジになってんの? 冗談じゃーん』
場違いな程に明るい声が遠ざかり、光が弱まっていく。
眩む目を何度となく瞬かせていると薄暗い校長室の光景が戻ってきた。
「ひゃあっ!?」
いつの間にかすぐ目の前に顔が爛れた少女が立っていた。
あまりにも近い。
思いきり飛び退くハルに動じる事なく、少女はコテンと首を傾げている。
細いポニーテールがユラリと不気味な程にゆっくり揺れた。
『ねぇ。私のお兄ちゃんをどこに隠したの?』
「え、は? し、知り……ません」
質問の意図が分からない。
声の感じからして今しがた聞こえた不穏な会話のもう一人──知佳子と呼ばれた少女のようだ。
恐怖のあまり敬語で答えるハルに構わず、少女は再度質問を繰り返す。
『嘘。どうせあんたが隠したに決まってる。どこ? 私のお兄ちゃんはどこにいるの?』
「だ、だから知りません! むしろ私の方こそ友達を探してる位で……」
『嘘。嘘、嘘、嘘! だって私、あんたの事は呼んでない。呼んでないもん! 何で呼ばれてないヤツがココにいるの!?』
「そんな事言われても……」
てんで話が通じそうにない。
彼女の言う「お兄ちゃん」が大成の事だとしたら、夢で閉じ込められていたのがこの少女だったのかもしれない。
(っていうか、私だって来たくてこんな所に来た訳じゃないのに!)
言い掛かりもいい所だが強く言い返すには勇気が足りない。
少女は爛れた頬肉を引きつらせて苛立ちを露わにしている。
『呼んでないあんたがココにいるのが証拠じゃない。ねぇ、教えてよ。私のお兄ちゃんをどこに隠したの?』
「キャ……!」
無遠慮に伸ばされた赤い手に驚き、ハルは転がるように校長室を飛び出した。
慌てて振り返るれば怒気を含んだ形相でハルを睨みつけている少女と目が合った。
『酷い……返してよ……私のお兄ちゃん』
「や、こ、来ないで! 近寄らないで!」
『返して! 返せ! 返せ!!』
ふと視界に入った職員室の扉が開いている事に気付き、ハルは反射的に職員室とは反対の方へと駆け出した。
(千景ちゃんは逃げ出せたの? それともこれから逃げ出す所? とにかく、この女の子はヤバい! 少しでもこの場から引き離さないと、最悪あの男の人と挟み撃ちになっちゃうかも!)
バタバタと廊下を駆け抜けるハルにはもはや通り過ぎる教室が何なのか確認する余裕がない。
廊下の突き当りが近付いてきた所で、彼女は新たな選択肢の浮上に泣きそうになった。
(左に曲がるのと、右手の階段……行くならどっち!?)
咄嗟に行き止まりの可能性が頭をよぎり、ハルは速度を緩める事なく階段を選んだ。
背後に迫り来る嫌な気配に変化はなく、脂汗が額に滲む。
繰り返される「返せ」の怨み節もヒートアップしているようだ。
「ぅひぁ!?」
階段に向かったハルの足に急ブレーキがかかる。
目の前にはいつの間に現れたのか、つい先程職員室で襲ってきた血塗れの男が立っていた。
彼と共に閉じこもっていた筈の千景の姿はどこにもない。
(うそ、挟まれた!? 千景ちゃんはどうなったの!? ヤダヤダ、どうしようっ!)
絶体絶命の危機に腰が抜け、自分の意に反して震える膝の感覚に焦りばかりが募っていく。
這って逃げる事も悲鳴を上げる事もままならず、ハルは反射的に頭を庇って蹲った。
(もうダメだ、流石に追い付かれた!)
何をされるのか想像もつかない恐怖の最中──
ふいにハルは背後の気配が揺れている事に気が付いた。
(……? 何も起きない……?)
男は相変わらずこちらに向かって来てはいるものの、非常に緩慢な動きなので上手く避ければ逃げ切れない事はなさそうだ。
問題は背後のポニーテール少女である。
恐る恐る振り返ると、彼女は爛れた顔を両手で掻き毟るように覆いながらガタガタと震えていた。




