8、ある少女の朝
ハル達が廃校に放り出される少し前の事だ。
千景は朝から不機嫌であった。
夢見の悪さに加え、とにかく調子が出なかったのだ。
好きな動画を流しながらお気に入りのジャムをトーストに塗る。
それでも気分は落ち着かない。
兄は兄で何かあったのだろう──
一人で騒がしい事に変わりはないがどこか挙動不審である。
そんな態度が余計に千景を苛立たせていた。
「そーいや俺な。今度の文化祭の公演で結構良い役が貰えるかもなんだぜ。すげくね?」
「あっそー……」
「何だよー、千景も観に来いよなー。これでも演劇部の練習頑張ってんだからさぁ~」
「あーもう、兄ちゃんうっさい! アタシは今スマホ見てんの!」
彼は素っ気ない妹に構わず、「今日も宮原先輩と会った後すぐ朝練だし、やっぱ高校生って忙しいぜー」と大袈裟に肩を竦めている。
「……え? 兄ちゃん、ハルお姉ちゃんに会うの?」
何となく問い返せば、彼は分かりやすく「しまった!」という顔をして言葉を濁した。
(?……変なのー。兄ちゃんとハルお姉ちゃん、何の用があるんだろ?)
少し気になりはしたものの追及する程ではないと判断し、千景はそのまま家を出ていく兄を見送った。
それから一時間以上経過した頃。
大成家に一本の電話が掛かってきた。
両親は既に仕事に出ている為、電話に出られるのは千景しかいない。
見慣れない番号を不審がりつつ受話器を取る。
電話の相手は演劇部部長の北本だった。
(兄ちゃんてば、スマホでも忘れたのかな? ドジだなー)
そんな呑気な考えはかすりもせず、北本の話は耳を疑うものであった。
「今日って朝練があるんですけど、博道君はお休みですかぁ? なんか全然連絡つかないからちょっと心配で……それでお家に電話しちゃいましたぁ」
「え……?」
兄は確かに「朝練に行く」と話していた。
一瞬にして嫌な予感が駆け巡る。
(部活大好きな兄ちゃんが無断でサボる筈ない……そういや、先にハルお姉ちゃんと会うって言ってたっけ。……まさか)
千景は今更になって「怪異関係の話があったのでは」と思い至った。
(どうしよう……えっと、どうしよう!?)
混乱した彼女は、何故か咄嗟に「兄ちゃんは今日体調悪くて、今寝てて、ごめんなさい!」と病欠の言葉を口にしてしまう。
幸いにも北本は納得したようで、「お大事にと伝えて欲しい」とだけ言って通話を終えた。
通話終了を知らせる無機質なツーツー音がやけに恐ろしく感じられる。
千景はドッドッと激しくなる鼓動に青褪めながら震える手でスマホを開いた。
(兄ちゃん、今どこ!?)
何度メッセージを送っても既読はつかず、電話を掛けてもすぐに留守番電話サービスに繋がってしまう。
(なんか変。絶対普通じゃない。凄く嫌な予感がする!)
居ても立っても居られず、千景はスマホを握ったまま家を飛び出した。
(朝練前にハルお姉ちゃんと会うなら、きっと通学路の途中か学校近くの筈!)
うろ覚えの記憶を頼りに世与高校への道を辿る。
時間的に考えて喫茶店やファミレス等は開いていないだろう。
この時、時計は九時二十分を指していた。
道すがらにある小さな公園やマンションの広場を覗いては駆け出し、覗いては駆け出しを繰り返す。
(居ない、居ない、居ない! ハルお姉ちゃんも既読付かないし、電話も出ないし。二人共どこに居るの!?)
もはやパニック状態である。
半泣きで息を切らせていた彼女は、世与高校近くの曲がり角で思いきり人とぶつかってしまった。
「うぶぁっ!」
「ぅおぉ!?」
ぶつかった人物は尻餅をつく千景に慌てて近寄ると、再度驚きの声をあげた。
「わ、悪ぃ! 大丈夫か!?」
「……ひっく、」
ポロポロと涙を零す彼女に焦った声が掛けられる。
「本当にごめんな!? えっと……千景ちゃん!」
「ぐすっ、さ、桜木のお兄ぢゃん~……」
とうとう緊張の糸が切れた彼女は、目線を合わせるべくしゃがみ込んだ桜木の胸に思いきり泣きついた。
「えぇっと……!? ど、どうしたよ!?」
「ヒクッ。アタ、アタシのっ、兄ちゃんとハルお姉ちゃんがっ、連絡つかなくてっ。兄ちゃん朝練行くって言ったのに来てないって言われてっ! 兄ちゃんは部活サボらないのに、電話も出なくってっ」
「あぁぁ、落ち着けって。ゆっくりでいいから、順に話しな?」
制服の裾を引っ張り出して涙を拭う桜木に、千景はしゃくり上げながらも兄とハルが行方不明である事を伝えた。
拙い説明ではあるものの「とにかく嫌な予感がする」という力説が効いたようで、桜木は真剣に相槌を打っている。
「それでね、ちっさいお兄……天沼のお兄ちゃんなら何とかしてくれるかもって思ったの。桜木のお兄ちゃんは天沼のお兄ちゃんって知ってる? 連絡出来ないかな?」
「天沼か……」
桜木は千景が視える人物である事をラーメンフェスの一件で知っている。
ただならぬ様子から見ても怪異絡みに違いないと判断し、彼はすぐにスマホを取り出した。
「天沼の連絡先は知らねぇけどよ。アテはあるからちっと待ってな」
「う、うん……」
桜木は手早く「天沼の連絡先教えてくれ、大至急!」とメッセージを打つと、八木崎に送信したのだった。




