5、叫び
まるで薄い板きれ一枚の橋を渡っているようで落ち着かず、たった数メートルの距離であるにも関わらず慎重に進んでしまう。
(横幅はあるから流石に落ちないだろうけど、壁すら無いのは怖いなぁ)
この闇に落ちたらどうなってしまうのかなど、想像もしたくない。
焦りと新天地へ進める安堵、不安が入り交じる。
──み……ぃつぅけぇたぁああ゛ぁあぁ!
「!?」
「ぎゃっ!?」
突然、背後から空気が震えんばかりの大声が聞こえた。
──どぉこだぁぁあいつはぁぁあぁ!
バンッバンッ
ハルは反射的に振り返ってしまった事を後悔する。
先程通ったばかりの扉の硝子部分から、痩けた女が髪を振り乱しながら扉を叩いている姿が見えたのだ。
女が扉を開ける様子はなく、鬼気迫る窪んだ目は完全に正気を失っている。
まるでハル達の存在を認識しながらも見てはいないような──そんな焦点の定まらない濁った目だ。
──かぁくぅすぅぅなあぁあっ!!
バンッバンッ
「っひぃ!?」
女の首や左手首からは止めどなくおびただしい量の血が流れている。
扉の飾り窓がみるみるうちに赤く染まっていく事で、皮肉にも恐ろしい形相が隠されていく。
バンッバンッバンッ
──あいつをぉぉ、あいづを出ぜぇぇ!!
バンッバンッ
バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンッ
耳を塞ぎたい程の騒音が恐怖心を煽る。
もはや「渡り廊下の両脇が怖い」などと悠長な事を言っている場合ではない。
堪らず二人は駆け出し、本校舎に転がるように逃げ込んだ。
バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンッ!
──出ぁぁあ゛ぁせぇぇぇ……!
扉を閉めてもなお女の叫びは聞こえ続ける。
ハルは生きた心地のしないまま、千景と共に扉から離れた。
「ハァッ、ハァッ。な、何なのアイツっ」
「わ、分かんないけど……誰かを探してるっぽかった……よね?」
「もー、意味分かんない!」
(とりあえず追って来ないのは良かったけど……もう戻る事は出来なそうだなぁ。まぁ戻る理由も無いから別に良いか)
いつの間にか女の声も扉を叩く音も収まっていたが、大きな音だっただけに幻聴が残っている気がしてならない。
未だ震える足を軽く叩き、ハルは改めて周囲を確認した。
渡り廊下の先は真っ直ぐに長い廊下が続いており、左側には広い昇降口と階段が見える。
先程までいた校舎の小さな下駄箱とは違い、かなり大きな下駄箱が建ち並んでいた。
「……千景ちゃん、どうしよっか?」
「ん~。私も正直どうしたら良いか分かんないけど……また一階から見て回ろうか?」
確かにいきなり二階に行くのも違う気がする。
ハルは千景の提案に賛同する形で真っ直ぐ伸びる通路に向き直った。
(パッと見た感じ、廊下の左側に職員室とかの特別室があって、右側は窓しか無いっぽいな)
ひとまず階段はスルーして、二人は手前の部屋を目指す。
チラッと見えた階段上の踊り場には大きな鏡が張り付けられており、ハルの胸が一瞬ざわついた。
彼女の頭を過ぎったのは、竜太が鏡に閉じ込められた時の恐怖の記憶である。
(あの階段の踊り場、出来れば通りたく無いなぁ)
そんな事をぼんやりと考えている間に、ハル達は保健室の前まで辿り着いてしまう。
早速学校の怪談話と相性の良い教室とはついてない。
うんざりしながらも扉を開いた二人だったが、中は良くも悪くも何も無かった。
「ん~、ベッドと机だけだねぇ」
「棚も空っぽだし、何の情報もないね」
怖いモノが無いだけマシか──
二人は手洗いポスターの裏に、渡り廊下の向こうから来た事と一階から見て回る旨を書き記し、保健室の扉の前に貼り付けた。
「ここ広そうだよねぇ。お兄ちゃんと行き違いにならないといいけど……」
「うん……そうだね」
ここに来るまで結構な数の教室を見て回ったが、未だ大成に関する情報はゼロである。
本当に彼もこの廃校にいるのかという疑問が強まっていく一方で、ハルは新たな違和感に気付いてしまった。
(そういえば、ここに来てからどれくらい時間が経ったんだろ?)
スマホの時計はこの世界に来た時から0時00分を表示しており、何の役にも立っていない。
(かなり慎重に進んでたし結構時間が経ってる筈だけど、それにしては……お腹が空かなすぎるような……)
それどころかトイレに行きたくもならない事に気付いてしまい、ハルは今までとは違った意味で焦りを覚えた。
まるで生物として大切な何かを失いつつあるような危機感だ。
(どうしよう。早く帰らないと、本当にオバケの仲間入りしちゃうかもしれない……それだけは絶対にマズい)
千景はまだこの違和感に気付いていないようで、さっさと隣の事務室の扉を開けている。
(お腹が全然減らない事は千景ちゃんには黙っておこう)
結論から言えば、事務室にもこれといった収穫はなかった。
自然と二人の口数も減ってしまい重い空気が流れ始める。
ハルはどうするべきか悶々としたまま静かに職員室の扉を開けた。
「……物が多いね……」
「う、うん。お姉ちゃんの言ってた通り、ちょっと変かも」
あまりにも雑多に物が散らばっている。
机によっては採点済のテスト用紙まで残っており、怪異の件を抜きにしてもただの廃校でないのは明らかであった。
(そういえば前に「神のなり損ない」が作り出したっていう、変なエレベーターの世界に連れて行かれた事があったっけ。もしかしたらあの時みたいに、ここも誰かが作り出した世界なのかも……)
あれこれ思考しながらも観察は怠らない。
二人はそれなりに広い室内を足早に練り歩き、各々気になる物を発見した。
「ね、ね、お姉ちゃん。この週刊誌、どれも変な付箋がついてるんだけどー」
「この新聞もだよ……赤ペンで丸がついてるの」
該当部分の見出しをザッと見ただけで「無関係ではない」事が理解出来る。
どちらの記事にも鉢望小学校で起きた事件についての詳細が記載されていた。
何が書かれていても平静でいようと腹を括り、薄明かりを頼りに文字を追う。
(え──!?)
次の瞬間、ハルの目に眩しい位の白い光が差し込んだ。
何が起きたか理解する間もなく、何者かの声が聞こえてくる。
『──田さんは、もう少しだけ相手の気持ちになって考えような』
『えぇ~? ちゃんと考えてるもーん』
『うぅん……そうかぁ、考えてるかぁ。……けどな。相手が嫌だと思うと分かっているなら尚更、それはやってはいけない事なんだよ?』
『はぁ~い。サトー先生って細かぁーい』
少し困ったような男性の声と、大人を小馬鹿にしたような明るい少女の声だ。
辛うじて人のようなシルエットが見えなくもないが、眩しすぎてよく分からない。
男性は苦笑すると軽く言葉を交わして立ち去ったようだった。
スタスタと足音が遠ざかっていく。
『……うるさいなぁ。ホント死ねばいいのに』
(!?)
小さく呟かれた声は低く、子供の声であるにも関わらずゾッとする威圧感があった。
一体何が起きているのか──
目を瞬かせている内に光はスゥと弱まり、再び荒れた職員室の光景が飛び込んでくる。
急に黙ったハルを心配したのか、いつの間にか千景が顔を覗き込んでいる。
「お姉ちゃん、急に黙ってどうしたの? 大丈夫?」
「……あ、うん。ごめん、大丈夫」
(今のって何!? 一体誰の何を見せられたの?)
まるで意味が分からない。
バクバクと騒ぐ胸を押さえつつ、ハルは千景の追及から逃れるように手元の記事に目を落とした。
新たに得た情報を要約すると以下の通りである。
・鉢望小学校で女子生徒が階段から転落死する事故が起きた。
・その一年後、亡くなった生徒の母親である大嶋多都子(39)が当時担任だった教師、佐藤響汰氏(31)を刺殺。
・犯行動機は教師を「娘を突き落とした犯人だ」と思い込んでいたからだと思われる。
・教師殺害直後、母親は首や手首を切って自殺。
更に雑誌の記事には「その後立て続けに二名の生徒が病死したという噂が立っている」だの、「呪いの学校では」などといった不謹慎な一文まで記載されていた。
〈補足〉
今まで本作品の登場人物は全て某県の地名から取っていましたが、今回の事件関係者に限り地名は関係ないお名前とさせて頂きます。




