3、探索
トイレの前──一年一組の隣には二階へ続く階段があり、その階段の横には小さな下駄箱があった。
階段を無視して進んだ先は渡り廊下に出られるようで、どうやら本校舎に繋がっているらしい。
とにかく順に回るべく、二人は下駄箱に足を踏み入れた。
外に続く扉は固く閉ざされており、押しても引いても叩いても、不自然な程にビクともしない。
ガラスの部分から外は見えるものの、暗い黄土色のモヤのせいで無理をしてでも出たいとは思えない状況である。
「全部の出口が閉まってるとしたら、きっとお兄ちゃんも校舎内にいるよね」
「うん、たぶんね。でもこの後はどうしようか?」
「んん~……渡り廊下の先に行くか、こっち側校舎の二階を回るか……どっちから行こう?」
行き違いになるのだけは避けたい。
暫し悩んだ末、二人は渡り廊下にも書き置きを残して「スタート地点側」の校舎から探索をする事にした。
「『お兄ちゃん、この手紙を読んだら、一年生の教室近くに居てね。私とハルお姉ちゃんはこっち側校舎の二階を調べに行ってます』……っと。これでヨシ!」
その辺にあった掲示物の裏にピンクのチョークで書き置きを残し、渡り廊下の出入り口の横に貼る。
「んじゃ、行こっか!」と笑う千景の気丈さにかける言葉も見つからず、ハルは弱々しく笑い返すしか出来なかった。
(もう、私ってば何で気の利いた事の一つも言えないんだろ……)
せめて千景の傍から離れずにいようと心に決めつつ、ハルは千景と手を繋ぎながら二階へと上っていく。
電気がついていないので薄暗いが、窓があるおかげで歩けない程ではない。
不気味な黄土色が貴重な光源になっているというのも皮肉な話である。
「二階はトイレと……用務倉庫? あとは二年生の教室しかないみたいだね」
こちら側の校舎は随分と小さいらしい。
三階の探索は後に回すとして、二人は一番近くにあるトイレから確認する事にした。
「男子トイレ、異常なーし」
もはや慣れた手つきで個室を確認し終えた千景は、流れるように女子トイレの中に入っていく。
ハルはその後をついて回る位しかする事がなく、漠然とした焦燥感すら芽生え始めていた。
そんな時だった。
──ピチャ
「! 千景ちゃん、シッ!」
ここに来て初めて耳にする微かな異音──
それにいち早く気付けたのは、ハルがトイレの出入り口に近かったからである。
ハルの鋭い制止に緊急性を感じたのか、千景は即座に動きを止めて押し黙った。
察しの良さに安堵する暇もなく、ハルは耳を澄ませながら静かにトイレの中へと移動する。
ペチャ
ピチョ
(……間違いない。音は廊下の方から……)
人間の足音のようだが、それにしてはやけに水分を含んでいる。
血生臭い臭いがツンと鼻につき、ハルは反射的に口元を覆った。
(私達に気付いてるの? 気付いてないの? どっちにしろ、今トイレから出たら絶対に鉢合わせちゃう!)
二人は黙したままトイレの一番奥──三番目の個室に身を潜めた。
今すぐにでも扉を閉めて鍵を掛けたい所だが、この古いトイレでは音が鳴って居場所がバレてしまうだろう。
迷うように顔を見合わせた二人だったが、結局扉には触れずに息を殺す他無かった。
(うぅ、心許ないにも程がある……!)
ハルの脳裏に一瞬「トイレの花子さん」の話が過ったが、今は余計な事を考えている場合ではない。
足音は女子トイレの前にまで迫っていた。
ペタ
ピチョ
『何処にいるの──? 隠れても無駄よ──』
「「!!」」
まさかこちらの存在を認識されている所か、隠れている事すらもバレているというのか──
腹の奥底がスゥと冷える。
しかも声の主は先程笑っていた子供ではなく、明らかに大人の女性のものであった。
ピチャ
ペタッ
(来ないで! お願い来ないで!)
『何処にいるの──? 無駄よ。何度だって殺してやるわ──』
ピチャ
ピチョ
足音は一度女子トイレの前で止まったものの、そのまま通り過ぎていく。
それでも嫌な臭いと気配は消えず、緊迫した時間が静かに流れる。
少し離れた所から扉の開閉音が聞こえだし、声の主が男子トイレの個室を調べているのだと容易に予想がついた。
ギィィ──
パタン
キィィ──
バタン
建付けの悪い音が不安を募らせていく。
(まさか男子トイレを調べ終わったら、今度こそ女子トイレの方に来るんじゃ……?)
だとしたら逃げるチャンスは今しかないかもしれない。
どうしたものかと千景を見やれば、彼女は険しい顔のままフルフルと首を左右に振った。
(まだ出たくないって事か……)
その判断が正しいのか否かは分からない。
しかし今無理に飛び出すのもリスクが高く、ハルは千景の判断に従う事にした。
どれほど時間が経ったか──ふいに血の臭いと気配が消えた。
とても長いようで実際はそうでは無かったのかもしれない。
緊張の糸が切れたハルはヘナヘナと壁にもたれかかった。
「……お姉ちゃん、大丈夫?」
「う、うん。千景ちゃんは?」
「私は平気! でも今の奴、変なコト言ってたしかなりヤバそうだったねぇ」
ぎこちない笑顔を浮かべる千景に同意しつつ、ハルはとりあえず個室から出ようと提案する。
緊急時とはいえ、やはりトイレに長々と籠るのは気分の良いものではなかった。
「うげ!」
「やだ、なにこれ……」
狭い空間からの解放感に浸る暇もなく、二人は廊下に出るなり絶句する。
廊下には二年生の教室方面から男子トイレに向かう数メートルに渡って、赤黒い裸足の足跡が残っていた。
ハルとそう変わらない大きさからして大人の女性のもののようだ。
十中八九、先程の水気を含んだ足音の痕跡であろう。
(これって本物の血? だとしたら……)
嫌でも血塗れの女が徘徊している様子が思い浮かぶ。
物騒な発言の件といい、絶対に遭遇してはならないナニかがいる事は確定である。
「ど、どうしようか、千景ちゃん」
「んー……足跡は途中で消えてるけど、方向的に男子トイレの次は用務倉庫に向かったっぽいよね? だから今の内に教室の方に行ってみようよ」
「流石にすぐ戻っては来ないだろう」という千景の考えは楽観的すぎる気もするが、否定出来る程の材料もない。
ハルは結局、なけなしの探索意欲を振り絞って二年生の教室を回る事に同意したのだった。
しかし──
「……特に目立った物はないね……」
「うん。お兄ちゃんてばホント、どこ行っちゃったんだろ……?」
二年生の教室を一組から三組まで覗いたものの、大成の姿はおろか目新しい情報も見つからなかった。
何の進展もない事に落胆しつつ、ハルはふと抱いた違和感を口にした。
「そういえば、ここって本当に廃校なのかな?」
「え、そうじゃないの? だってこんなにボロで埃っぽいんだよ?」
「でも、机とか椅子が結構残ってるし……掲示物もかなり古いけど、そのままっておかしくない? 夜逃げじゃないんだから、普通なら最後に綺麗に片付けるんじゃないかなぁ?」
廃校になるとしても、掲示物や生徒の作品等は持ち帰るなり、処分されるなりしそうなものである。
それなのにこの校舎は、まるで生徒が通っていた時のまま風化したような──生活感の痕跡が残りすぎている状態なのだ。
「言われてみたら確かに変かもだけど……」
だから何だと言わんばかりに首を傾げる千景に、ハルもそれ以上の言葉は見つからず会話が途切れる。
「っていうかお姉ちゃん、これ見て!」
「?……これって……」
千景が指し示したのは黒板の横に貼られた掲示物──給食の献立表であった。
その紙には「十月の献立表」と書かれており、枠外には小さく「199X年度」と記載されていた。
「うわ、古っ!」
「私達が生まれる前か……」
はたしてそんな昔の公共施設が解体もされずにいつまでも残っているものなのだろうか──
劣化が目立つとはいえ廃墟にしては綺麗な気もする教室をクルリと見回し、ハルは考えの纏まらない頭を軽く叩く。
「とりあえず二階の教室も収穫なしだね。千景ちゃんはどうしたい?」
「んー……さっきの女が怖いけど、残りの用務倉庫だけ確認したら次は三階に行きたいかな?」
他に行くあてもない。
二人は改めて気を引き締めると、出来るだけ静かに二年生の教室を出た。
──フフッ クスクス
(まただ。また子供の笑い声が……)
どこから聞こえて来るのか判断がつかずもどかしい。
まるでハル達が困っている様子を見て楽しんでいるようだ。
(だとしたらかなり悪趣味だなぁ)
不安げにハルを見やる千景の手を握り直し、ハルは短く息を吐いて真っ直ぐ用務倉庫へと歩きだした。




