2、想定外
──……ちゃん…………ってば……
「んぅ……?」
──起き…………おね…………
ゆさゆさと肩を揺さぶられる感覚と共に、ハルはぼんやりと目を覚ました。
「……? あれ……?」
「もーっ! お姉ちゃん、早く起きてってばぁ!」
「ひゃっ!? 千景ちゃん!?」
至近距離で怒鳴られたハルは文字通り飛び起きる。
そして千景の顔を認識するのとほぼ同時に周囲の違和感に気付く事となった。
「って、ここ……どこ?」
「さぁ、私も分かんない」
ワックスの剥げた木の床といい掲示物や画鋲が残る壁といい、目につく全てが古めかしい。
消火器が置かれていたであろうスペースの上には「ろう下は走らない」と書かれたボロボロの紙が貼られている。
蛍光灯は外されており、周囲は薄暗い。
「ここって小学校?」
「うん……なんか嫌に荒れてるし、廃校っぽいよね」
「うわ、よく見たらほんと汚っ」
慌ててパーカーに付いた木屑を払うハルだったが、不安げに周囲を窺う千景に気付いた途端に疑問が浮かんだ。
「そういえば何で千景ちゃんが居るの? 私、大成君と公園で話してた筈なんだけど……」
まさか千景に成りすました怪異では──と遅すぎる警戒心が高まる。
しかし気まずそうに視線を泳がせる彼女の反応はごく自然かつ拍子抜けするものだった。
「実は最近お兄ちゃんの様子がおかしくって、ちょっと心配でさ。でも私に相談なんてしてくれないだろうし……そしたら朝イチでお姉ちゃんに会うって言ってたから、コッソリ後をつけてたの」
尾行した罪悪感があるらしく、彼女は「勝手についてってごめんなさい!」と勢いよく頭を下げている。
普段はつれない態度を取ってはいるが兄想いな一面があるようだ。
ハルは疑った事を恥じつつ、千景に顔を上げるよう宥めた。
「それじゃあ千景ちゃんは運悪く怪異に巻き込まれちゃったんだね」
「……んー……それってお姉ちゃんにも言えるよね? たぶん、これってお兄ちゃんの悩み事が原因っぽいもん」
(……確かに……)
そう同意した所で、ハルは今更になって大成の姿が見えない事に焦りを覚えた。
「そうだ、大成君! どこに行っちゃったんだろ? ついさっきまで目の前に居たのに!」
「別の場所に落ちちゃったのかも……お兄ちゃんビビりだし、早く見つけてあげないと!」
探すと行っても何処に向かえば良いのか見当もつかない。
スマホも当然のように圏外で、ストラップ代わりにつけている御守り以外では使い物にならなそうだ。
一番近くの部屋は教室らしく、扉の上部に「一年二組」と書かれた札が下がっていた。
「よーっし……お邪魔しまぁーす」
「あ、ちょ、千景ちゃん!?」
ガラガラと建付けの悪い音を立てて、木製の引き戸が開かれる。
千景の大胆な行動に面食らいつつも、ハルは慌てて彼女の後ろに続く。
「うーん、誰も居ないね。机とかも殆んどないし」
「あの、千景ちゃん。焦るのは分かるけど慎重にね……?」
「分かってるよぉ」
(本当かなぁ……)
先が思いやられる予感はさておき、ハルは嫌でも目につく窓の外に目を向けた。
(前に見た薄黄色の世界じゃない……?)
窓の外は灰色がかった暗い黄土色の世界が広がっており、以前竜太と共に引き込まれたとは異世界とは明らかに違う雰囲気である。
ぼんやりと校庭らしき景色が見えるが、独特な色味のせいもあって昼か夜かすらよく分からなかった。
(なんだろう。薄黄色の世界は目に眩しい毒々しさが不気味で怖かったけど、ここはそれ以上に嫌な……おぞましい感じがする……)
外の異変は出来るだけ見ないようにと視線を逸らしたハルは、ふと目についた黒板に近付いた。
薄汚れた黒板に日付けは書かれておらず、日直の欄も空白である。
(そうだ!)
「ねぇ千景ちゃん。この黒板にメッセージを書かない? もしかしたら大成君もこの辺をうろついてるかもしれないし」
「あ、それは良いかも。チョークもあるし、ダメ元で書いてみよっか」
言うが早いか、千景はチョークを握って黒板の右下に文字を書き始めた。
もっと黒板全体を使って大きく書くだろうと予想していたハルは、少し意外がりながらも千景の背中を眺め続ける。
「『お兄ちゃん、これを読んだらこの教室の近くにいてね。私はハルお姉ちゃんとこの教室から順に回って探しに行きます。もしここが危なくなったらどこかに隠れててね。優しくて可愛い妹より』っと……」
「書けた?」
「バッチシ。あ、第二集合場所も決めた方が良かったかな?」
抜かりがない性格である。
中一とは思えない程にしっかりしていると関心しながらも、ハルは「この辺に何があるか分かってから決めよう」と辛うじて年上らしく提案した。
「じゃあまずは探検だね! とりあえずこの教室出たら右側行こっか。隣の教室以外はなーんも無さそうだったけど」
「そ、そうだね。すぐ突き当たりみたいだったし、ちょっと確認だけしたら左側を調べに行こうか」
ハルとしては本当は歩き回りたくない所だが、我が儘も言っていられない。
こうなったら一刻も早く大成と合流する事を願うしかないだろう。
話がまとまり、二人は教室を出て右隣の教室に向かう。
その教室は「一年三組」と書かれており、扉は開いていた。
「む~、やっぱ誰も居ないね。いや、誰か居ても怖いけどさぁ」
「うん……あ」
ハルは黒板の横に貼られたままの掲示物に気が付き、思わず歩み寄った。
その掲示物には「鉢望小学校、学級通信」という見出しが書かれている。
内容は大したものではなかったが、今重要なのはそこではない。
「はち、ぼう? どこだろう……千景ちゃんは知ってる?」
「ぜーんぜん。聞いた事もないよー」
この不可解な世界では、実在する場所なのかどうかすら疑わしい。
学校名は心の片隅に留めておくとして、二人は一旦スタート地点である一年二組まで戻る事にした。
──クスクス
「? 千景ちゃん、何か言った?」
「え? 私は何も言ってな……」
──フフッ
「……」
「……」
嫌な沈黙が訪れる。
二人は顔を見合せながら、無言で手を繋いで足早に一年三組を後にした。
(うぅぅ、怖い……でも私がしっかりしなきゃ。大成君、お願いだから無事でいて……!)
幸いにも謎の笑い声はそれ以上聞こえる事はなく、ハル達はそのまま一年二組を通り過ぎて隣の一年一組の教室を覗き込んだ。
しかし目新しい物は何も見付からず、二人はガッカリしながらも黒板に「一年二組の周辺にいるように」と簡単なメッセージだけ残した。
「……何かさぁ~、学校ってだけでも怖い雰囲気あるよね」
「そう、だね」
「それにトイレってのがまた……正直怖いよね」
「うん……」
一年一組の斜め向かいにあるトイレを暫し見つめた二人は、意を決して女子トイレを覗き込んだ。
電気はつかず、カチカチと空しいスイッチの音だけが静かに響く。
「……お兄ちゃん、いる? いるなら返事してー」
返事はない。
なら次は男子トイレかと息をつくハルだったが、千景は何を思ったかツカツカとトイレの中に入ると一つ一つ個室を確認し始めた。
まさかそこまで丁寧に探索するとは思わず、ハルは一瞬言葉を失う。
「ち、千景ちゃん? 何もそこまで……」
「だって、もしかしたらお姉ちゃんみたいに気を失ってるかもしれないし」
(な、なるほど)
兄を絶対に見付けるという強い思いを感じ取ってしまえば、ハルもそれ以上は何も言えなくなる。
しかし結局、女子トイレにも男子トイレにも大成の姿は無かった。
──クスクス、クスクス
(まただ。また笑い声が……)
忘れた頃に聞こえてくる笑い声に背筋が凍る。
気を付けていないと聞き漏らしてしまいそうな程に小さな声だ。
声の高さから想像するに、小学生位の少女のようである。
まるで笑いを堪えているのに堪えきれていないような──
それでいてこちらに気付かれる事を厭わないような──
そんな不快な笑い方だ。
二人は声について一切触れる事なく、移動を続ける事にした。




