5、灸
(あれ? ここは?)
気付けばハルは道路の真ん中に立っていた。
辺りは薄暗く、西の空が僅かに明るく日暮れの時間帯だと直感する。
戸惑いながらもキョロキョロと辺りを見渡すと、ここが北本の家から程近い住宅地の小道だと分かった。
ひと気こそないものの遠くでカラスの鳴き声や車のエンジン音が聞こえる為、経緯はさておきそこまで異様な状況には感じられない。
(私ったら、なんでこんな所に……?)
そういえば以前にも似たような経験をしたと思い出した事で、霞みがかった意識がはっきりとしていく。
(前は確か「神様のなり損ない」ってやつにに引き込まれて変な世界のエレベーターにいたんだっけ)
静かに混乱する脳内をどうにか落ち着けると、彼女は何故か手に握っていたスマホを確認する。
電源が入らないのは予想外であったが、頼みの綱である御守りが無事なのは不幸中の幸いであった。
(落ち着いて考えよう。今日はアカリちゃんの相談に乗って、青木君と別れた後にアカリちゃんを家まで送って、少しお茶してから帰った。それで……)
いつも通り夕食や入浴を済ませ、軽く勉強をした後にベッドに入った筈である。
ようやくそこまで思い出した彼女はある考えに行き着いた。
(って事はこれってもしかして、夢?)
だとしたらあまりにも鮮明な夢である。
手をグーパーと動かしてみても、軽く首を回してみても、普通に起きている状態と何ら違いはないようだ。
(このまま突っ立っていても仕方ない……どうにかしなきゃ)
少し悩んだ末、ハルは自宅へ向けて移動する事を決めた。
万が一ここが現実世界であるなら万々歳だし、もし帰宅して異変があるようならとりあえず神社にでも避難しようという考えである。
(っていうか、本当にアカリちゃん家のすぐ近くだったんだなぁ。ウチに帰るよりも先にアカリちゃん家を確認すれば良かったかも……)
辺りの民家は明かりが付いている家もあれば消えている家もある。
特に物音はしない為、人が居るのか居ないのかまでは分からなかった。
(やっぱり、少し戻ってアカリちゃんの家に行こうかな? でももしここが普通に現実なら迷惑になっちゃうかも……)
進むか戻るか──
優柔不断に立ち止まっていると、ふいに道の先に何者かが動く気配がした。
暗がりのせいで見落としそうになる黒いシルエットを認識した瞬間、ハルの心臓がバクリと跳ねる。
咄嗟に塀に寄って様子を窺えば、相手もビクリと動きを止めて電柱の陰に身を潜めた。
やけに人間めいた反応だと感じたハルは、息を殺したまま恐る恐る電柱に近付いた。
両者の間に立つ古い街灯がチカチカと弱々しい音を立てて点滅する。
「ひっ!? な、何なんだよ一体!」
(え!?)
酷く狼狽した声を上げたのは日中に会ったばかりの青木であった。
たとえあまり良い印象を持てなかった相手でも、見知った人間に会えた安堵感は大きい。
ホッとしたハルはかける言葉も録に考えず、そのまま彼に近付いた。
「動くな! こっち来んなよてめぇ!」
(ひゃっ!?)
あまりの剣幕に驚いた彼女はビシリと固まる。
好かれていないとは思っていたが、それにしてはあんまりな反応だし、何より様子がおかしい。
彼は昼に話した時とはまるで違う印象で、かなり狼狽しており顔色も酷く青かった。
先の発言もハルに対して怒っているというよりは怯えているような反応である。
何があったのかと問うよりも早く、彼は「くそっ!」と悪態を吐いて走り出してしまった。
(えぇっ!? な、何で!?)
思わぬ展開に呆気にとられたものの、ハルは慌てて彼を引き留めようとする。
しかし──
「…………!?」
(嘘、声が出ない!?)
パクパクと口は動くのに、まるで声の出し方を忘れてしまったかのように声が出てこないのだ。
それどころか呼吸音すら発せられず、ハルは反射的に喉を押さえようとする。
そこで妙に動かし難い腕に違和感を覚え、ぎこちなく手元を見下ろした彼女は今度こそパニックに陥ってしまった。
(やだ、何これ!? どうなってるの私!?)
およそ自分のものとはかけ離れた、固くて小さな白い手。
見覚えのある橙色の着物袖。
そこにふんだんにあしらわれた毬柄で確信する。
(私、お姫ちゃんになってる!?)
ギギ、と動かし難い体が嫌に生々しい。
まるで全身の関節が錆びたような不自由な感覚が「夢ではない」と告げているようだ。
先程まで握りしめていたスマホの感触もない。
(やだやだ、助けて! 誰か助けて!)
藁にもすがる思いで青木の後を追う。
足も動かし難いかと思われたが、意外にもハルの体は進みたい方向に向かってスゥーッと宙を移動する事が出来た。
歩かずして移動出来るのは便利だが、パニック状態のハルはそんな事を考える余裕などない。
(待って、待って青木君! 私、お姫ちゃんじゃないよ! 一人にしないで、助けて!)
声にならない叫びが届く事はない。
だが、足をもつれさせながら走る青木に対してハルの移動の方が早かった。
突然、T字路の真ん中で青木の足が止まり、それに合わせてハルも動きを止める。
(お願い、気付いて青木君! 私はお姫ちゃんじゃないんだってば!)
「ひいっ! く、来るな来るな! ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい!」
ついにへたり込んでしまった彼の姿があまりにも不憫で、ハルは少しだけ冷静さを取り戻す。
思えば彼に頼るよりも他に頼れる者がいるのではないか──と。
(何で青木君が近くに居たかは分からないけど、いきなり日本人形に追われたらそりゃあ怖いよね……逃げるよね……)
人知れず反省していると、ハルは青木が自分を見ていない事に気が付いた。
彼の視線は先程まで向かっていた道の先へと向けられていたのだ。
「すみませんもうしませんごめんなさい、本当にごめんなさい」
尻餅をついたままガクガクと震える彼の視線の先──
そこには般若のような恐ろしい顔をしたお姫ちゃんが浮いていた。




