5、策
十円玉は素直に「はい」の上に移動し、鳥居の上で止まった。
桜木の指先に伸びていた触手がゆっくりと彼の頭へと戻っていく。
二人はようやく指を離し、椅子にもたれ掛かった。
「とりあえず、終わらせられて良かったね……」
未だ放心状態の桜木に静かに声をかける。
彼はぎこちなくハルの方を向いた。
絡み付く触手のせいで表情が分からないが、酷く困惑しているようだった。
「……お前、どうする気だよ」
「どうって……」
「……代わりの口なんて、アテがあんのかよ」
「そ、それは、」
「まさか何も知らない奴に、コイツを憑かせるなんて言わねぇよな」
「い、言わない、よ」
思いの外責められるような口調に気圧され、ハルは簡単に竦み上がった。
その様子にはっとしたのか、桜木はばつが悪そうに頭を下げた。
「……悪ぃ。折角助けてくれたのに。……でもよ、他の奴にコイツ押し付けて自分が助かるのって、後味悪ぃっつーか」
彼はテーブルに肘をついて眉間を押さえる。
まだ少し混乱しているのだろう。
彼の性格なら、他人に押し付ける位なら自分が……などと考えているのかもしれない。
一方のハルはつい最近経験したばかりの方法が使えるのではないかと頭をフル回転させていた。
(上手くいかないかもしれない……けど、やらなきゃ、次は桜木君だけじゃなくて、私も危ないかもしれない)
自分からやると言ってしまった以上、責任を持つしかない。
ハルは「よしっ」と気合いを入れて勢いよく立ち上がった。
彼女の急な動きに彼は目を丸くする。
「桜木君、ちょっと、あの、行きたい所があるんだけど……道案内頼める、かな?」
何とも頼りない口調とは裏腹に、目には迷いが見られない。
そこに僅かな希望を感じ取ったのか、桜木は素直に頷いた。
南世与駅から程近い、高架下の小さな公園。
遊具が殆ど撤去されているその公園は、まだ昼間だというのに人の姿がない。
ハル達はその公園の隅の木陰で向き合った。
「……じゃあ、いくよ」
「……おぅ」
ハルは足元に置いたビニール袋から、先程用意した物を一つ取り出す。
それを桜木の眼前に掲げ、クラゲモドキに話しかけた。
「あ、あの、代わりの口を、用意しました……これでも、良いですか?」
僅かに震える彼女の手には宴会などで用いられるパーティーグッズの覆面が握られていた。
その覆面は最近流行りの芸人を模しており、およそ深刻な場面にはそぐわない物だ。
目鼻と耳元、口元には小さな穴が空いている。
クラゲモドキはパチパチと瞬きを繰り返し、覆面を見つめた。
(お願い、これで納得して……!)
祈る思いでクラゲの反応を待つ。
やがて彼に巻き付いていた触手がズルリと弛みだした。
もどかしい程ゆったりとした動きで、何本もの赤黒い触手が覆面に伸びていく。
彼女の手にヌルヌルとした寒天のような感触が伝わった。
(うわ、気持ち悪い……こんなのが顔に巻き付くなんて……絶対無理……)
手を引っ込めたい衝動に駆られながらも、覆面を掲げ続ける。
少しずつ桜木の顔が見え始め、ハルは安堵の笑みを浮かべた。
やがて全ての触手が覆面に絡み付き、クラゲモドキが彼の頭から離れた辺りで彼女はゆっくりと手を離した。
「そ、それで大丈夫、ですか?」
覆面の穴という穴からクラゲモドキがズルズルと入っていく。
ある程度怪異に見慣れている二人ですら目を背けたくなる程、生理的に受け付けない光景だった。
覆面は宙に浮いたままクルリと彼女の眼前に向き直る。
本来空洞であるはずの穴に人間の目と鼻があった。
覆面の口がニタリと弧を描く。
『大儀』
どうやら気に入って貰えたらしい。
覆面は目を細めたままスーっと通りの向こうにスライドしていき、見えなくなった。
静まり返った公園に電車の音だけが響く。
二人は立ち尽くしたまま、あの化物がもう戻って来ない事だけを祈った。
結局あれが何だったのかは、もはや知る術もない。
「……はぁ……良かっ」
「……っしゃあぁ!」
桜木の歓喜の声にハルの声がかき消された。
両手でガッツポーズをする彼の喜びように、彼女もやり切った思いで一杯になる。
「凄ぇな、宮原! お前、本当凄ぇよ! あんなん良く思い付いたな!」
「う、いや、あの……」
バシバシと背中を叩かれ、ハルはよろめきながら口ごもった。
覆面を身代わりにしようと考えついたのは、前に竜太が行った身代わり人形の経験があったからだ。
手柄泥棒になった気分でどうにも引け目を感じてしまう。
「お陰で助かったよ、マジでありがとな!」
「ど、どういたしまして……」
褒められる事も感謝される事も馴れておらず、彼女はそっと目を伏せた。
「……あ」
「ん? どうした?」
「余ったお面、どうしよう……」
思い出したのは足元にあるビニール袋の存在だ。
袋の中には仮面やお面、覆面等が入っている。
桜木が案内したパーティーグッズ売り場で購入した物である。
クラゲモドキの好みで選べるようにと多めに購入した物が全て無駄になってしまった。
「あー……欲しいか?」
「いらない……」
袋から目を逸らし、二人は顔を見合わせて笑った。