10、線香
八月十四日。
宮原家に竜太がやって来た。
母には予め竜太と源一郎が親しかった旨を伝えていたのだが、そもそもハルが友人を家に招く事自体が珍しい。
しかもその友人が男子とくれば尚更である。
「あらあらあら、おじいちゃんたらこんな若い子とお友達だったのねぇ。うちのおじいちゃん、変わってたでしょ? 仲良くしてくれてありがとうねぇ」
「……いえ」
「お、お母さん。あんまり余計な事言わないで……!」
好奇と緊張を織り交ぜながら挨拶する母をどうにか押しやり、ハルはヒヤヒヤし通しで竜太をリビングへと案内した。
後ろから付いてくる母の視線がむず痒いが、一番気になるのは竜太の反応である。
「えっと、仏壇は……」
「知ってる。茶の間の奥でしょ」
「あ、うん」
そういえば竜太は自分よりも長い期間この家を出入りしていたのであったと今更ながらに思い出し、ハルは慌てて歩みを進めた。
木張りの廊下を通り、二間続きの半洋半和のリビングに入る。
ダイニングテーブルがある洋室側の先──和室側の左奥に、ささやかなお盆飾りがされた仏壇が二人を待ち受けていた。
「コレあげていい?」
「? 良いけど……これなぁに?」
ふいに差し出されたビニール袋を反射的に受け取れば、竜太は「草餅とすあま」と呟いた。
「宮原のじいさん、すあまが好きでさ。草餅は奥さんの好物だったらしいから」
「おばあちゃんが?」
祖父の好物は知っていたが、祖母の好物は初耳である。
それはハルの母も同じだったようで「へぇ、そうだったのねぇ」と、意外とも興味が無いとも取れる声を上げた。
「宮原のじいさんが生きてた時はしょっちゅう草餅をお供えしてたよ。『ばあさんが喜ぶから』ってさ」
「……そうなんだ」
ハルの祖母はハルの両親が結婚する前に亡くなっており、母も会った事は無いという。
祖父が鬼籍に入って以降、はたして草餅を供えた事は何度あっただろうか──
別に責められている訳ではないのだが、知らなかったという事実が後ろめたい。
ハルは少し気を落としながらも「今後は草餅もお供えしよう」と母に提案し、小皿にすあまと草餅を取り分けた。
臼桃色のすあまと濃い緑の草餅が仲良く並ぶ光景は妙に切ないものがある。
しかし感傷に浸る暇もなく、竜太はさっさと皿を持って和室の奥へと向かってしまった。
(熱心に拝んでるなぁ)
仏壇の前で正座する彼の背がいつもより小さく見える。
その背を何をするでもなく眺めていると、母は竜太に聞こえないように洋室側で声を潜めた。
「あの子、確かおじいちゃんのお葬式で凄く泣いてた子よね?」
「え……?」
ハルは通夜の時も葬儀の時も下ばかり向いていた。
疎遠であったとはいえ祖父の死はハルなりにショックであったし、参列者は知らない人だらけでとても周りに気を配る余裕は無かったのだ。
まさか母が覚えていたとは思わず、複雑さは増すばかりである。
「ずいぶん長く拝むのねぇ。本当に仲良かったんだね」
「……うん……」
いつまでも見ている訳にはいかないと判断したのか、母はテーブルに着いてテレビを観始めてしまった。
(竜太君、おじいちゃんに何を話してるんだろう。積もる話があるのかな?……あるんだろうなぁ)
祖父と竜太の間にはハルが立ち入る隙がない。
それがどうにも寂しくて、ハルはせめて物理的にでも近付こうと和室側に足を踏み入れた。
(せめて私がもう少しおじいちゃんの事を知ってたら……もう少しおじいちゃんと仲が良かったら……そうしたらもっと竜太君の気持ちに寄り添えたのかな?)
今更どうにもならない考えばかりが頭に浮かぶ。
ハルが斜め後ろに近付いた所で、竜太は静かに顔を上げた。
「あ、ごめんね。急かしちゃった?」
「大丈夫」
竜太は暫く位牌を見つめてから座布団から降りると、クルリと向きを変えて胡座をかいた。
「だいぶ満足した。ありがと、ハルさん」
「そう? なら良かったよ」
脇に置いていた鞄を引き寄せる仕草からして、まだ立ち上がる気は無いらしい。
ハルは漂う線香の煙を横目に竜太と向き合う形で座り込んだ。
「宮原のじいさんの写真持ってきたんだけど、見る?」
「写真? いつの?」
「色々」
晩年の祖父を見るまたとない機会かもしれない。
見たいと告げれば、竜太は鞄から写真の束を取り出してハルに手渡した。
「わ、結構あるね……え゛!?」
「何その反応」
三十枚程の写真の束。
その二枚目にして、ハルは目を疑った。
(誰ーーっ!?)
写真にはハルの記憶の中と一致する祖父──と、その隣で満面の笑みでピースサインをする小学生の少年が写っていた。
「この子って……え、まさか竜太君?」
「見りゃ分かるでしょ」
(いやこれ別人レベル!)
確かに顔は幼い竜太である。
しかしこの快活な笑顔は何なのか──
現在とのあまりの違いに、ハルは祖父の事も忘れてまじまじと写真を見つめてしまい、「見すぎ。早く捲って」と急かされた事でようやく次に進む事が出来た。
(び、びっくりした……)
祖父を中心とした写真が続く。
七里老人と祭りに参加する姿や、近所の人と草むしりする姿──
ゲートボールをする姿や、竜太と縁側でお茶をする姿──
一枚一枚にポツポツと解説を挟む竜太に頷いていると、再びハルの手が止まった。
大型バイクに跨がった八木崎によく似た人物と、その後ろに座る竜太の背に手を添える祖父が写っていた。
「この人、もしかして忍さん?」
「そう。忍さんが新車買った時の写真」
「びっくりしたぁ。この忍さん、今の八木崎君とそっくりなんだもん」
クスクスと笑うハルの声につられたのか、ハルの母も「私も写真、見て良いかしら?」と近寄って来た。
竜太の了承を受け、ハルは見終わった写真を母に渡して残りの写真を見る。
「あ、これは竜太君と七里さんの奥さんも写ってるね。お料理してるみたいだけど……どこ?」
「公民館の料理教室。宮原のじいさん、たまに参加してたから」
「え、そうなんだ!? おじいちゃんがお料理ってちょっと意外かも」
そう話しながら、ハルははたと母の動きが気になってしまった。
写真を捲るペースが異様に早いのだ。
流し見にしても早く、最早見ているのかすら疑わしい。
(お母さん……気になって見始めたはいいけど、面白く無かったんだろなぁ。お母さんとおじいちゃんは仲は悪く無かったみたいだけど、ずっと疎遠だった訳だし)
だとしてももう少し興味ある振り位はして欲しいものである。
母のこういった微妙に無神経で気が利かない所は娘としては慣れっこであるが、今は少し宜しくない。
あっという間に写真を見終えた母は、ハルの持つ残りの写真を待つ事なく「見せてくれてありがとね~」と言って再び洋室側に戻ってしまった。
「……あの、ごめんね」
「なんでハルさんが謝るの」
「いや、今のだけじゃなくて、他にも色々っていうか」
思えば身内以上に源一郎を慕っていた竜太に対して祖父を「変わり者」扱いしたり、祖父母に興味無い態度を見せていたり──
やはり母の態度は失礼と取られても仕方がないだろう。
悪気は無いのだと小さくフォローを入れると、竜太は怪訝そうに眉根を寄せた。
「ハルさんさ、気ぃ使いすぎて疲れない?」
「え、そんな事ないけど……?」
「……ふーん」
母には届かないような声量で口を尖らせる竜太の考えが読めず、ハルは疑問符を浮かべながら写真を一つに纏めた。
「写真、面白かったよ。ありがとう」
「……俺も、久しぶりに見て懐かしかった」
僅かに口角を上げる顔が写真の笑顔を思い起こさせる。
今となっては貴重なその表情を、はたして祖父は見てくれているのだろうか──
そんな思いで仏壇に目を向けたハルは、思わぬ変化に驚きの声を上げた。
「あ、あれ?」
「何?……あ」
二人の視線が一点に集中する。
目の前にはお盆飾りでいつもより賑やかな仏壇があり、その前の小さなテーブルには野菜や果物の山、素麺や天ぷらなどが並べられている。
異変があったのはその中の一皿であった。
「お皿、空になってる……」
二人はずっと仏壇の前から離れておらず、当然皿にも触れていない。
それなのに先程供えたばかりの小皿にはすあまも草餅も乗っていなかった。
一体いつ、どこに消えてしまったというのか──
「まさか……おじいちゃんとおばあちゃん?」
「……もし帰ってんなら、姿くらい見せろよな……」
目を伏せて呟く竜太の声は震えているようだった。




